明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(127) 山羊と原爆(現代のことば・・・岡真理さん)

2011年05月27日 11時00分00秒 | 明日に向けて5月1日~31日
守田です。(20110528 11:00)

友人の京都大学の岡真理さんが、京都新聞の「現代のことば」という
コラム欄に「山羊と原爆」と題した文章を投稿されました。お父さまの
ことを書いておられます。(掲載は5月16日夕刊)

読んでいて、心が震えました。
「山羊と原爆」というタイトルが、心に染み込んできました。
悲しい歴史が書かれているのですが、しかし悲しみばかりではない。
それを一つの話に練り上げている文章が、あまりに美しい。

今、まさに、このときに、文学が必要なのだと、なぜか、
深くそう思わされてしまいました・・・・・。

まずはともあれ、以下の文章をお読みください。

*************************

山羊と原爆

1928(昭和3年)、富山のさる旧家に男児が誕生した。
父親は帝国陸軍の将校。待望の長男だった。だが、
赤ん坊は衰弱しており、生き永らえそうに見えなかった。
父親は下男に赤ん坊を埋めるよう命じた。
下男は息のある赤ん坊を埋めるに忍びなく、
生きている間だけでもと、山羊の乳をやった。
この乳が赤ん坊の命をつないだ。

瀕死状態で生まれたのが嘘のように腕白な少年に成長した
長男は、父親と同じ道を歩むべく、広島の陸軍幼年学校に
入学した。皇国の大義を純粋に信じていた。
1945(昭和20)年8月、幼年学校を卒業して、どこかの街で
任官を待っていたとき、日本降伏の噂が伝わった。
彼は同志とともに、国民に徹底抗戦を呼びかけるビラを刷り、
飛行機で空から撤くことを画策するが、上官に見つかって
営倉に入れられる。営倉から出されたとき、部隊はすでに
解散していた。

除隊後、彼が向かったのは郷里ではなく広島だった。
彼にとって第二の故郷であるその街が新型爆弾で壊滅したと
聞いたからだ。当時の市内は民間人立ち入り禁止だったが、
軍関係者であった彼が街に入るのは難しくはなかった。
変わり果てた街を、彼は何日も彷徨い続けたという。

敗戦後、「アジアの解放」が帝国による侵略に過ぎなかった
ことを知り、彼は共産主義者となって、レッドパージの時代、
地下生活を送る。やがて業界紙の記者となり、結婚したのは
30を過ぎてからだった。子どもも生まれ、幸せな結婚生活も
束の間、1963年、彼は突然、肺癌を発症、余命半年と宣告され、
その3カ月後に亡くなった。2歳半の娘を遺して。35歳だった。
これが、私が父について知るすべてである。

自分がなぜ癌になったのかも、父は知らなかっただろう。
当時はまだ「入市被爆」などという言葉も存在しなかった。
だが、あの夏、17歳の彼は、残留放射能の中をたしかに
長時間、彷徨ったのだ。母校は爆心地のすぐ近くだった。
学校にいた1学年下の後輩たちはみな、原爆で亡くなったと
いう。廃墟となった街を彷徨いながら彼は、わずかな偶然で
自分が免れた運命がいかなるものであったのかを焦土の中で
幻視していたのだと思う。

このとき、彼の体内で時限爆弾が仕掛けられた(放射能によ
る晩発性障害、すなわち「ただちに健康に害があるわけではな
い」というのは、こういうことだ)。あのとき広島に行きさえ
しなければ、父が癌で死ぬこともなかった。しかし、「もし」
と言うなら、小さな命を隣れんだ下男が赤ん坊に山羊の乳を含
ませてくれなかったら、彼の人生そのものがなかったはずだ。

父の35年間という人生は、一人の心根の優しい人間と山羊の乳
が与えてくれた贈り物だ。1年早く生まれていれば、南洋に送
られ、戦死していただろう。1年遅ければ、原爆で死んでいた。
1年前でも後でもなく、あの年に父が生まれ、そして山羊の乳
と、放射能の晩発性障害の発症までの時差のおかげで、今、
私という人間が存在している。
(京都大教授・現代アラブ文学)


*****************

岡さんは、自転車を集めるプロジェクトに協力して下さり、おまけに
車の提供まで受けてくださったり、被災者の京都での受け入れのために
走りまわってくださるなど、色々なことをご一緒しています。

同時に、この時期に、パレスチナの朗読劇を監督さんとして実現して
下さいました。

その岡さんとは、もう長い間の友人ですが、お父さんの話は、この
投稿を読んではじめて知りました。


・・・僕の父も、広島に原爆が投下されたときに、香川県善通寺の基地から
陸軍の救援部隊として駆けつけたものの、呉でとどまって「入市」はしません
でした。父の部隊の偵察隊と、もともと、呉にいた海軍部隊が、市内に入って
いき、その方たちの中から、急性症状で亡くなった方や、入市被ばくされた
方がでました。

僕の父は重度の被ばくは、免れました。しかしどうでしょう。内部被ばくによる、
低線量被ばくはしていたのかもしれません。その父は、59歳で脳溢血で
他界しました。1980年。終戦から35年後のことでした。


僕の父は、岡さんのお父さまのように、共産主義者にはなりませんでした。
平和な日本社会の建設に情熱を燃やし、一会社員として猛烈に働きました。
働いて、働いて、脳溢血に倒れました。

一方、彼の妹と弟は、戦後すぐに共産党に参加し、非合法時代を含めて
活動しました。
とくに叔母は、戦時中に代理教員となって、教え子を少年航空兵に志願させて
しまったことを生涯にわたって悔い、「二度と戦場に教え子をおくらまじ」という
スローガンを掲げた戦後日教組運動を担いました。

のちに叔母の属していた日本共産党山口県委員会は、共産党中央から分裂して
「日本共産党(左派)」を名乗るようになりますが、彼女は山口県で計画された
豊北原発反対闘争を、「婦人部の闘士」として担い、多くの方々と一緒に原発
建設を中止に追い込みました。

その後、原発計画は、山口県上関(祝島)に移ったわけですが、叔母は豊北
原発を中止に追い込んだ地域の女性たちとともに、祝島の女性たちと深い絆を
作りだしていたようです。その叔母も1996年に他界しました。


・・・被ばくはあまりに悲しいことです。
1963年、あまりに若くして、岡さんのお父さまは亡くなられてしまわれた。

でも、コラムの中で、岡さんは原爆と山羊の乳の話を対比しておられます。
偶然と時差の中で、岡さん自身の命が灯されたことがそこに書き込まれている。

なんだか岡さんと一緒に、今を歩めていて良かったと深々と思いました。
そんな風に思う僕の姿を、どこかで岡さんのお父さまと、僕の親父や叔母が、
笑って見ているのではないかと、ふと思う、ひと時でした。

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