守田です(20190903 23:00)
● 広島で被爆し、祖国に帰る途中の京都で亡くなられたオマールさん・・・
本日9月3日、サイド・オマールさん(正確にはサイド・オマール・ビン・モハメッド・アルサゴフさん マレー語表記は Syed Omar bin Mohamad Alsagoff)の法要に参加してきました。左京区の圓光寺においてでした。
サイド・オマールさんは今のマレーシアから日本留学中に広島で被爆され方です。帰国のために東京に向かう車中で容態が悪化。途中に立ち寄った京都市で京都帝国大学病院に入院。そのまま回復することなく9月3日に亡くなられました。19歳でした。
遺体は南禅寺大日山の共同墓地の墓に葬られましたが、1957年に妹さんが訪れたものの朽ちていて見つけられませんでした。これを聴きつけた京都洛北平八茶屋のご主人が墓の建立を目指し、圓光寺が土地を提供して実現。以来法要が続けられてきました。
法要には約70人もの方が参列された
オマールさんはイギリス領マラヤのジョホールバルに生まれ育ちました。イギリス領マラヤは18世紀から20世紀にマレー半島とシンガポール島近辺をイギリスが支配し植民地化していた地域です。「英領マレー」とも呼ばれていました。
第二次世界大戦がはじまると「南方」に侵攻した日本軍がイギリス軍を追い払い1942年から45年まで占領、軍による統治を行いました。日本はマレーを「大東亜共栄圏」に組み込むため、マレーのエリートの若者に日本教育を施すことをめざしました。
このため「南方特別留学生」を選抜しましたが、同時に人質のような要素も持つ中で、ジョホール州の王族出身のオマールさんが一期生に選ばれて1943年来日。広島高等師範学校を経て1945年5月旧制広島文理科大学(現広島大学)に進学しました。
植民地化された東南アジアと英領マラヤ(マレー州連合)「世界の歴史まっぷ」より
8月6日朝、オマールさんは爆心地から900メートルの留学生寮「興南寮」にて被爆。背中に大やけどを負いましたが、倒壊した建物の下から自力で脱出。その後、留学生仲間と合流し、大学で野宿しながら被災者救援に奔走しました。
一緒に野宿をした人たちによると、オマールさんは自らの怪我も顧みずに、ひたすら被災者を助け続けたそうです。大八車で友人を20キロも離れた親せき宅に送り届け、その後に見舞いにも行っています。少ない食べ物を子どもたちに分けたりしたそうです。
やがて日本が降伏しGHQが進駐する中で8月25日に帰国許可が下り、東京経由でマレーに向かうことに。しかし汽車の中で悪寒を覚えだし、26日京都到着後に病状が悪化。30日に京大病院に入院したもののもはや手遅れで9月3日に亡くなりました。
(なお『南方特別留学生招聘事業の研究』の著者・江上芳郎氏の調査では亡くなった日は4日とされているのですが、墓碑に没日が3日と記載されていることから、毎年3日を命日として法要が行われています)
興南寮跡 「広島ピースツーリングHP」より
● 夕焼け小焼け・・・を聴きながら
写真のオマールさんをみるととても美しい青年です。涼やかな顔、素敵な顔をされています。オマールさん、イギリス支配下のマレーで育ち、日本占領下に代わって日本に来ることになり、どんなことを思ったでしょうか。
残された方の思い出ではとにかく明るく、礼儀正しく、清潔好きで、いつも真っ白なシャツを着ている王子様だったそうです。同年代でともに野宿をした女性は「あのうっとりするような素敵な笑顔」と回想されています。
連日空襲警報がなり、食料も不足する生活の中で しかし留学生たちはいつも明るく、陽気にそれぞれの国の歌をうたってかえって日本人の若者たちを励ましていたとか。
オマールさん(圓光寺の会場の展示より)
京大病院では若き浜島義博医師が治療を担当されました。初めての原爆症患者を前にして治療方針が定まらない中、「輸血しかない」と考えて自らの血を抜いてオマールさんに与えました。
すると一度はかなり元気になったそうで、毎朝、大量の輸血を続けたそうです。おそらく最も妥当な対応だったでしょう。日本語が上手だったオマールさんは『荒城の月』などをこよなく愛した青年で、病床でも「夕焼け小焼け」を口ずさんでいたそうです。
しかしオマールさんはそれ以上回復せず、急速に衰弱していきました。
次々と参列者が花を手向ける 当日スタッフをされていた榊原さん
浜島医師がそんな彼にこう聞いたそうです。「日本にさえ来ていなかったらこんな苦しい目にあわなかったのに・・・。オマール君、君は日本人を恨んでないかい?」と。
「先生は毎日僕に血を分けてくださっているでしょ。先生と僕はもう兄弟です。僕の身体の半分はもう日本人です」。オマールさんはそう答えたそうです。
そして「ドクター、夕焼け小焼けを歌ってくれますか」とオマールさん。「ああいいとも」と浜島先生が答えられ、「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」と歌い出す中で、オマールさんは力つきていったそうです。
「私もオマールさんと一緒に被爆したのよ」と語り、深い祈りをささげる被爆者の花垣ルミさん
● オマールさんの遺したのもの
オマールさんが亡くなられてから74年目のこの日、法要には約70人もの人が集まりました。京都の平和運動を担っているたくさんの方が参列されていましたが、広島から駆けつけた方もおられました。
圓光寺住職の読経に続いて人々がお墓に献花。僕もその一員として祈りを捧げさせていただきました。そして読経と献花が終わってから、オマールさんがこよなく愛し、今わの際に耳にした『夕焼け小焼け』をみんなで合唱しました。
その後、部屋に戻っていろいろな方とお話し、資料などを頂きました。帰ってきてページを繰り始めて、はまってしまったのが『オマールさんを訪ねる旅』(早川幸生編 かもがわ出版 1994)でした。
僕も献花し祈りを捧げました!本木喜幸さんのFacebookへの投稿より
この本は圓光寺を校区の中に含む修学院小学校の生徒が主人公で編まれたものです。同小学校の子どもたちが校区にある圓光寺のオマールさんのお墓を訪ね、住職さん、建立に尽力した人々、浜島医師などに話を聞き、やがて広島を訪れたのです。
しかもオマールさんにゆかりの方たち・・・留学生寮の世話をしていた方の息子さんや、オマールさんに日本語を教えた先生、一緒に野宿をした方などにあらかじめ手紙を出して質問し、返事をもらうなどしてやがて会いに行きました。
この本はその体験記、感想文で編まれているのです。子どもたちがオマールさんの悲劇に胸を痛め、その足跡を辿り、優しかった彼に心を寄せながら、心から戦争反対を考え、平和への愛を深めていく過程がつづられています。
『オマールさんを訪ねる旅』・・・ぜひご一読を!
感動しました。「ああ、オマールさん、あなたはこんなに素晴らしものを遺してくれたのですね。あなたの誠実で優しい思いが、私たちに命の尊さ、戦争のむごさを教えてくれています。素晴らしい」そう思いました。
同時に「これだけの子どもたち、キラキラした目に何度も囲まれて、オマールさん、きっと少しは心が癒えましたよね。あなたの19年の生はいまこんなにも光輝いています。ありがとうございました」と彼に語り掛けたくなりました。
そうです。誠実に生きたオマールさん、政情はどうあれおそらくは日本の中にある一番いいものを愛してくれたオマールさん。あなたを思う気持ちが大きく平和の心を育ててくれているのです。
オマールさんへの思いをさまざまに語り合う参加者
そうだ。この気持ち、平和への切なるこの願いをこそ、もっと大きく伝えていこう。そのことでオマールさんに報いていこう。そう思いました。本当に素晴らしい法要でした。
素敵な法要・・・オマールさんと平和への祈りの場を作り続けて来てくださったみなさまにも感謝しつつ、この日の報告をしめたいと思います。
献花で埋まったオマールさんの墓