明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(707)書評『ヒロシマを生きのびて』肥田舜太郎著・・・1

2013年07月11日 17時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20130711 17:00)

福島原発事故で大量の放射能が飛散した関東・東北でさまざまな健康被害が見え出しています。
もっとも顕著なのは、子どもの甲状腺がんが17万人の検診ですでに12人が確定とされ、他に15人が濃厚な可能性とされていることです。あわせて27人も見つかってしまっています。
政府はこれらを事故前のものが見つかったにすぎないと言っていますが、政府は認めれば賠償を行うとともに、傷害行為への責任を取らねはならない立場にあるため、とても客観的に判断する位置になど立っていません。
そもそも子どもの甲状腺がんは100万人に1人の発生と言われてきた病、ほとんど起こらなかった病です。それが17万人中27人近くが見つかっているのに知らんぷりはあまりにおかしい。

一方、これほどには統計化されてはいないものの、心筋梗塞などによる突然死なども非常にたくさん聞こえてきており、がんの発生もずいぶん耳にします。次第に統計にもあらわれてくると思いますが、本当に頻繁に報告が入ります。
昨日は東電福島第一原発元所長の吉田氏の逝去も伝えられました。食道がんとされていますが、かなりの高線量を浴び、内部被曝も激しいかったために発病されたことは、多くの人が疑っている通りだと思います。お気の毒ですが、僕には光の当たらないもっとたくさんの作業員の方たちのことがより気になります。
現場の最高指揮官が発病するのであれば、末端の、より原子炉に近かった方たちはどうなったのでしょう。実はたくさんの方の死が隠されているのではという疑惑が湧きます。今もシビアな状態で苦しんでいる方がたくさんおられるのではないでしょうか。

同時にこのようにさまざまな健康被害が出ているならば、東北・関東の医療機関が大変なことになっていることが強く懸念されます。しかし放射能の影響が隠されていると、この大変さに対する当然の社会的テコ入れが働かなくなり、医療サイドの苦しさはまずばかりです。
事故の深刻さが隠されることによって、現場の惨状に社会的光が当たらない福島第一原発の現場と同じように、免疫力の全般的低下のもとで、分けが分からない形で疾病が増え、治りも遅くなっていくことで、医療機関にボディブローのような打撃が蓄積されつつあるのではないか。
甲状腺がんなどの突出した被害と同時に、とにかく身体の調子が悪くなり、風邪がなかなか治らないとか、持病がどんどん悪化するとか、認知症の進み具体が早くなるとか、放射能のせいとは言い切れないものの、病状が増悪しているケースがたくさん考えられ、さまざまな意味で胸が痛みます。

このような状態で問われているのは、医療サイドの頑張りはすでにして頂点に達していますから、私たち市民の側が医療を守り、支えていくことです。もちろん政府に予算配分を手厚くしていくことを求めていく必要がありますが、今の流れはそれどころかTPPへ向けた医療の自由化(公的医療の削減)であり、ますます悪くなりつつある。
この状態を見すえて、私たちには今、この国の医療がどこからどこへ行こうとしているのかをしっかりと認識し、何を守り発展させるべきなのかをつかんで実践していくことが問われていると思うのです。それ抜きには放射線防護を有効に進めることはできません。被曝だけに特化せず、医療全体に目配りしていくことが大切です。

こうした観点から取材と研究を進めていたときに、手にとって思わず引き込まれ、一気に読んでしまったのが、今回の書評の対象である『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房)でした。書かれたのは被爆医師、肥田舜太郎さんですが、タイトルから想像されるものとは少し違って、肥田さんの戦後の医師としての歩みが中心になっています。
その内容が非常に感動的なのです。なぜ感動するのかというと、この国の戦後医療が、どのような状態から立ち上がってきたのかを彷彿させると同時に、僕には肥田さんが、戦後から現代までの医療界に通底している課題に早くから目覚め、独自の医療観を育んでこられたように感じたからです。

どうしても被爆医師である肥田さんには、みなさん、広島での被爆体験や、たくさんのヒバクシャを見てきた経験を語って欲しいと思うでしょうし、実際、そこから紡ぎだされる珠玉のような言葉が多くの人々の励ましであり続けてきたのでした。
しかし僕にはそうした肥田さんの言葉を根底で支えるものをもう一歩深いところでとらえ、多くの人々の間でシェアしていくこと、その中で医療サイドに立たないものにとっての医療を、ただ「受けるもの」、受診するものから、自らが担うものへと捉え直していくことが問われているように思えるのです。

さて、本書の内容に入りたいと思います。この本を肥田さんは「自分史」と名づけておられます。戦後から1980年代までの歩が綴られていますが、その前半は戦後医療の奮闘記とも呼べるものです。肥田さんはあとがきで次のように述べられています。
「私は1945年8月6日、広島で原爆攻撃を受けましたが、たまたま直爆死を免れ、修羅の地獄の真っただ中に8月15日の敗戦を迎えました。
 薬品も資材も人手もないなか、無我夢中で救急医療を続けるうちに、11月某日、厚生省技官に任命され、柳井国立病院勤務、病院船勤務の後、国立医療労働組合専従役員になり、敗戦直後の全公労の闘争に参加、1949年9月、占領軍総司令部のレッドパージで厚生技官をクビ切られ、民主医療所を設立して民医連運動、医療生協運動を進める傍ら、
被爆者として原水爆禁止運動に参加、国内、国外に被爆の実相普及のため、語り部活動、講演活動をおこないながら、厚顔にも革新政党の市議会議員を二期つとめるなど、身の程知らずにあれもこれもと働き続けてきました。
また1979年からは、日本被団協原爆被爆者中央相談所の仕事を引き受け、全国津々浦々を歩いて被爆者相談事業の指導、援助につとめてきました。」(本書p284、285)

被爆医師肥田舜太郎・・・という名前を見て、肥田さんが広島に住み続けていると思われている方もおられるかと思うのですが、実際には肥田さんは、戦後労働運動の激しさの中で、1947年には上京して国立医療労組で活躍されました。さらにレッドパージ後の1950年には東京杉並区で「西荻窪診療所」を設立して初代所長になられました。
1953年からは埼玉県に移られ、埼玉の民主医療連合会の設立に翻弄されました。市会議員となったのも埼玉県行田市であり、以降、肥田さんは埼玉県を軸としながら活動を継続されてきました。

そんな肥田さんの駆け出し医者のエピソード、埼玉に移る前の西荻窪診療所時代の話が、最初の方に出てきます。僕には本書全体に連なる魂が綴られたエピソードのように思えたので、長くなりますが、ここも抜書してご紹介したいと思います。診療所がようやく一周年を迎えた頃のお話です。

「定期的に人工気胸をおこなう結核患者が増えて、午後、往診に出たあとの診察室には長椅子が並べられ、気胸器が準備されて、ポコポコポコポコと空気が送られる特有の柔らかい音が診察所内に響いていた。
 ある時、そんな定期患者の一人が来なくなった。峰尾看護婦が気づいてカルテの住所を訪ねた。小さな洗濯屋で、店で仕事をしていた主人が峰尾を見て、言った。
『娘がちっともよくならないんで、親戚の者に言われて東大に診せたところ、気胸の空気の入れ方が少ない。これじゃ結核の病巣が潰れないと言われた。お前んところのやぶ医者のお陰で、大事な娘、台なしにするところだった。帰ったらやぶ医者にもっと腕を磨けって言っとけ」
 ざっくばらんに隠さずに言う峰尾看護婦の言葉が胸に刺さった。峰尾が「先生、謝りに行ったら」と遠慮がちに言ったが、そう言われただけでかーっとなって、とても行く勇気はなかった。
 学校の基礎的な教育も途中までで軍隊に取られ、臨床検査と細菌検査を少しかじっただけ。あとは兵隊の訓練や穴掘り工事の隊長を勤め、原爆の重症患者と死骸の中を走り回って戦争が終わる。戦後は労働運動と政治活動をしてきた医者もどきが、無理だと分かりながら始めた診療所活動である。
誰のせいにすることもできなかった。もう一度、教室へ戻って、せめて二、三年勉強したいなど、言い出す隙もない今、歯を食いしばって頑張る以外ないんだと自分に鞭を打って、やぶ医者というその言葉を素直に受け止めてはいた。

 ある日、峰尾看護婦とかなりの数の往診を回り、最後の患家を出て、さあ帰ろうと自転車にまたがった時、峰尾がもう一軒、途中で増えた往診があると言う。ついて行くと、小さな洗濯屋の前に立っていた。はっと思ったが後の祭りだった。
『先生、素直に謝りなよ。前からそう思ってたんだ』
 気持ちは分かったが、足が前に出ない。
『この家に入れないようじゃ、先生、一生やぶ医者だよ』
 胸をえぐる言葉だった。ぐずぐずしている腰のあたりを後から押され、ベニヤの戸を押し開けて中へ入ってしまった。すぐ目の前で親父さんが向こう鉢巻でアイロンをかけていた。私を見て顔色が変わる。
『往診は頼んじあ、いないが』
『いや、私の空気の入れ方が足りなくて、娘さんにすまないことをしたのを謝りに来ました』
 やっとの思いでそれだけ言えた。しばらく私の顔を見てた親父さんが、いきなり鉢巻をとると、ぱっと部屋の向こうまで下がってひざまずいた。
『先生、よく言ってくれなすった。先生がそう言ってくれなきゃ、娘、お宅へやれないやね。うちにゃあ東大なんぞに行かせる銭なんかありゃしねえ』
 
 胸がいっぱいになって、顔が熱くなった。患者からこんな言葉が聞けるなんて私はなんという幸せものなんだろうと、目の前が急に明るく開けたような気がした。
 と同時に、それとは全く別に、医学知識と技術の足りなさを自覚しながら、それに対して打つ手を持たない己に対する激しい自己嫌悪が、頭の中に真っ黒に広がっていった。」(同書p61~63)

・・・続く

 

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