明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(612)書評『原発をつくらせない人びと-祝島から未来へ』(岩波新書)・・・(1)

2013年01月17日 22時00分00秒 | 明日に向けて(601)~(700)

守田です。(20130117 22:00)

前回の記事で「さあ、もう一度、脱原発のうねりを!」という呼びかけを発しましたが、こうした気持ちをさらに高めていくためのかっこうの良書に出会いました。『原発をつくらせない人びと-祝島から未来へ』です。著者はノンフィクションライターの山秋真さん。昨年末に岩波新書の一冊として上梓されました。
一気に読了して多くの人にぜひ読んでいただきたいと思いましたので、紹介させていただきたいと思い、書評に挑戦することにしました。

題名からわかるように、同書は、山口県上関町に建設が予定されている上関原発建設を、身体を張って食い止めてきた祝島の人々を取材したルポです。とくに工事船が繰り返しやってきて、海の上で激しい攻防が行われた2011年2月には、著者自身が祝島に長期滞在に、抗議船に何度も便乗して、人々とともに身体を張りながらの取材を行なっています。読んでいて身体が熱くなってくる迫真のルポルタージュです。
各章のタイトルを列挙しておきます。序章・原発ゼロの地、第一章・おばちゃんたちは、つづける、第二章・祝島 その歴史と風土、第三章・陸でたたかう、第四章・海でたたかう、第五章・田ノ浦と祝島沖の二〇一一年二月、第六章・東電の原発事故のあと、終章・未来へ、これに、あとがきが加わっています。

まず序章で、脱原発の立場にある人にとって極めて重要な情報がコンパクトに記されています。この50年の間に、私たちの国には福島第一原発をいれると、17ヶ所に54基もの原発ができてしまったのですが、実は運転にいたった原発は1970年までに計画が浮上したものだけだという事実です。1971年以降に浮上した計画は、すべて食い止められてきて、運転を許してないのです!
一方で原発を作らせなかった地は、2012年11月現在で34ヶ所もあります!これはまだ攻防が続いている上関をのぞいた数です。とくに紀伊半島では、和歌山県内で5ヶ所、三重県内で4ヶ所もの地域で、計画を断念に追い込んでいます。紀伊の人びとがどの計画も止めたのです。
実に素晴らしいことです。各地域の努力がなかったら、私たちの国の原発サイトは現在の17ヶ所どころではなく、51ヶ所にもなっていたのです。そこにそれぞれ複数の原子炉が建てられる計画でしたから、炉の数も軽く100基を超えていたでしょう。

原発建設の実態を調べると、どこでもするに見えてくるのは、お金を湯水のように使って地域の人々を抱き込もうとする嵐のような施策の連続です。しかしそれでも1971年以降、一つの原発の運転も実現されてこなかった。つまり膨大な買収のためのお金を蹴って、自然を守った人々が、私たちの国には本当にたくさんいるのです。何よりそのことに、心から感謝したいと思います。
「原発をつくらせない人びと」というタイトルを背負った本書は、まずこのことから書き始めています。続く一章からは、もっぱら祝島の人たちの奮闘が描かれていくのですが、著者がこの書を、原発を阻んできた全国の人々の代表として、あるいは象徴として、祝島のことを書いていることが伝わってきます。祝島のリアリティの中に、私たちは自然を守ってきた全国の人々の息吹をも感じ取ることができます。

さてその祝島の話の最初に出てくるのは「おばちゃんたち」です!ちなみに上関原発建設予定地は、山口県の東部、瀬戸内に半島がせり出した先にある上関町の長島、田ノ浦湾にあります。本州側から見えない地点です。その田ノ浦湾の向かいにあるのが祝島です。
ここに原発建設をめぐる動きが水面下で始まったのは1982年1月のこと。6月には上関町長が原発誘致に賛成の声を上げました。これに対して11月に、原発に反対する人々の呼びかけて、当時1000人いた祝島島民の9割が参加する「愛郷一心会」が結成されました。のちの「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の前身です。
島の人々は、高木仁三郎さんなどを呼んで学習を深め、同年11月16日に初めての原発反対海上デモを行いました。すぐに陸上でのデモも始まります。これが毎週続けられ、2012年11月19日までに1150回を数えました。当初はデモの届けを出しておらず、記録されていなかったので、実際にはもっと多い数になるそうです。

この陸上デモの先頭に立ったのが「おばちゃんたち」でした。当時、子育てが終わった50代ぐらいの女性たちが5~60人集まり、次第に数を増やしながらデモを行いました。初めの一年は「婦人部のデモ」と「一般のデモ」と、週に2回もデモをしたそうです。女性の参加者は多い時で300人にもなりました。どうしてそんなに頑張ったのかという著者の問いに、「おばちゃん」の一人は、「絶対(原発を)建てさせないという一心でせた」と答えています。(でせたは祝島の方言)
あるいはこんな言葉も漏れてきます。「男はそっちのけ。おなごのほうが強いちゃ。(運動を)せてみてから(そう)思いよった。男はおとなしいもんじゃった」「男はつまらんよ。ケンカいうたら、おなごでなけりゃ!」・・・。
2011年3月11日の福島第一原発事故以降も、全国でものすごい迫力で動き始めたのは、小さな子どもを抱えている女性たちでした。もちろんたくさんの男性が一緒に立ち上がりましたが、やはり女性の素晴らしいリードがあって、これまでの盛り上がりが作られてきたのが事実です。そんな女性たちの姿が、祝島の女性たちの言葉にダブって見えてきます。 

その後、原発に反対する島民たちは、1983念の上関町町長選に独自候補を立てて選挙運動を展開。惜しくも敗れてしまいますが、大方の予想を大きく超える得票を得ました。町議選でも激しい運動を展開。1986年には定数18議席中、7席を反対町議が獲得しました。
やがて1992年2月に、愛郷一心会が「上関原発を建てさせない祝島島民の会」に改組。反対運動だけでなく、原発に頼らない町おこしを目指し、激しい攻防の中で中断していた伝統行事の「神舞(かんまい)神事」を復活させました。以降、島民の会を中心とした粘り強いたたかいが、延々と繰り広げられていきます・・・。

第2章に入って、著者はいったん歴史の大きな流れに視点を移します。ここでぜひとも参照していただきたいのは瀬戸内海の地図です。上関と祝島は、本州と四国と九州に挟まれたところに位置しています。西には周防灘が広がり、南には豊後水道が続いている。このため古くから海の路の要衝でした。著者は歴史家の網野善彦さんを参考にしつつ、祝島の歴史的位置性を考察していきます。
網野さんは、それまでの史学が、天皇を頂点とした農耕民の社会として日本社会を論じてきたことを批判的に捉え返ししつつ、「漂白の民」など、土地に縛られずに自由に行き来していた人々に大きく光を当てて、独自の網野史学を開いた方です。その視座から海の路の交差点にあるこの島を見ていると、確かに往時に自由にここを行き交った人々の姿が彷彿としてきます。そしてここから「祝島」の名の由来も導きだされます。
「古来、行き交う船の航行安全を守る神霊の鎮まる地として崇められてきた島は、古代からの神職のひとつである『祝(ほうり)』から名をとり、いつしか『祝島』と呼ばれるようになった」(同書p46)

祝島の神霊的な位置性は、この島が交易の中心であったことにも支えられていました。というのはこれも網野史学の中で明らかにされてきたことですが、古来、交易は神聖な場でのみ行われることが許されていました。なぜかと言えば、今とは違ってあらゆるものは、人との霊的なつながりのあるものとして捉えられており、そのつながりが切れない限り、譲渡することはできないと考えられていたからです。
ではどうすればいいのかというと、神聖な場にそのものを投げ込んで、ものとの縁を切る。それでもってはじめてそのものは、他者にわたることができたのです。そのため交易の場=市庭(いちば)を司るのは、俗世間と縁をたったものたち=聖(ひじり)なのでした。神仏混淆した古代、中世の世界には、神官や仏僧がその位置を担いました。著者はこうした点を次のようにまとめています。
「かつては公益や金融は、聖なる世界とかかわることてはじめて可能となったそうだ。そのため中世では、神仏に直属するという資格で初めてたずさわることができた」(同書p48)

こうした風土の考察の中に、著者は、「お上」に服従しない島の人々のアイデンティティの由緒を探りあてているように思えますが、さらに面白いのは、島に残る「ジンギ」という言葉に着目している点です。祝島ではものを分かち合うことを「ジンギする」というのだそうです。そこには強い、平等感覚が込められています。著者は「ここにはジンギが生きている」と説きます。
これを読んで思い出すのは、同じく海の路を往来した人々を軸に世界史の捉え返しを行った、京都大学名誉教授、高谷好一さんの考察です。東南アジアを研究でくまなく駆け回った高谷さんによれば、人類は二つの帝国を作ってきたことがわかるといいます。陸の帝国と海の帝国です。陸の帝国は中国社会に典型なように、ピラミッド型の王朝を作ります。上下の支配関係が作られるのです。
これに対して海の帝国は、水平型で互恵的な関係を作るというのです。互いに嵐があるときは港を貸し合い、助け合う。そのためピラミッド型にはならず横のつながりが作られ、それこそ「仁義」が支配的な関係が形作られてきたというのです。ちなみに高谷さんは、その海の路が、東南アジアから、瀬戸内へとつながり、琵琶湖に直結していたともいいます。琵琶湖畔の下郷遺跡の発掘調査に基づいた見解です。

こうした風土の分析が、学問的にどれだけの評価を受けているのか、僕には分かりませんが、こうした海の民の視点から、祝島を考察してみることはとても重要であり、同時に豊かな発想をもたらしてくれるものだと思います。かつてより人々は必ずしも「お上」に服属してきたのではありませんでした。どんなに強い社会的権力が存在したときも、それにまつろわず、自由闊達に生きる人々がいたのでした。
そして今も祝島の人々は、政府と電力会社が政治権力を傾けても、札束を唸らせても、けして屈することなく、宝の海を守り続けています。そうした生き方はかってから可能であり、今も可能であること、それを祝島の風土を見る中でつかむことができます。

同時にこの位置性は自然の大きな恩恵をもこの地域にもたらしています。瀬戸内海に豊後水道が注ぎ込む位置にあるため、生物多様性の宝庫と呼ばれているのです。しかも周辺に大規模開発の波が押し寄せなかったために、この天の恵みが今も守られています。
今、瀬戸内海では自然の海岸が残る地域は2割しかないそうですが、この周辺海域は、7割以上が自然の海岸のまま。なかでも原発予定地とされている田ノ浦湾では、他の地域で絶滅したか、絶滅が危惧されている貴重種が多く見られるのだそうです。この地域はまた、失われてしまった瀬戸内海の生態系の姿を残す地域であり、それだけに他にもまして、汚してはいけない海です。

著者はこのように、歴史風土と自然条件の双方から、祝島や上関の素晴らしさに迫り、この島とこの海域を守ることの大切さを訴えて、以下の章での島民たちの奮闘へとつなげていきます。

 

コメント (3)
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