守田です。(20120927 01:00)
今日(26日)は呉秀妹(ウーシュウメイ)アマアにお会いする日。その前に、台中に入院しているアマアを訪ねることになりました。朝10時30分の新幹線に乗って約1時間。台中の駅に着きましたが、ここはまだ市の郊外。さらにバスに30分乗って、目的の病院につきました。お会いしたアマアは、タイヤル族の方です。台湾島の中央山脈地帯にある苗栗(ミャオリ)県に住まわれていますが、今は入院されています。
アマアが受けた被害は次のような形でもたらされたものでした。あるときアマアの村の男性たちが「高砂義勇隊」として、他の国での日本軍の戦いに狩り出されました。アマアの夫もその一人でした。男たちが日本軍に連れ去られていなくなった村に、やがて日本人警察官が訪れ、夫たちにあわせてやると女性たちを集めました。
連れて行かれたのは日本軍の施設のそば。そこで女性たちはレイプを受けたのでした。軍は彼女たちがそこにとどまるために小さな小屋を建て、彼女たちを押し込めて、性奴隷を強制しました。
やがて夫たちが帰ってくることになり、その直前に、アマアたちは解放され、に戻ることが出来ました。アマアは帰ってきた夫に、辛かった日々のことを打ち明けました。夫は「自分がいないあいだに、あなたに辛い思いをさせた」と苦しみ、悲しみを分かち合ってくれたそうです。以降、アマアは夫が亡くなるまで仲良く寄り添い続けました。
このように山の女性たちへの性奴隷の強制は、人々に対する駐在所を通じた警察支配のもとに行われました。霧社事件を経て、警察官は人々にとってより怖い存在であり、逆らうことができませんでした。また警察官は、どこの家の男性が今、戦争に行っているとか、どこの家が困窮しているとかも知っていました。生活のすべてが把握されていたのです。その警察に軍が「慰安婦制度」への協力を依頼したとき、アマアたちには抵抗する術がありませんでした。
さて、このような過酷な仕打ちを受けた後、長い時間が経って、アマアは婦援会の呼びかけに応じ、日本政府を相手取った裁判に参加しました。名前は明らかにせず、訴状にはAなどの記号で登場しました。その後もアマアの住んでいたところが山の深いところで、台北に出るのも大変だったこともあり、アマアはそれほど表にはでませんでしたが、日本政府をただし、尊厳を取り戻すのだというしっかりとした意志を持ち続けてきました。
しかしそんなアマアにも老いが迫ってきました。次第に認知症が進むと共に、足に打撲傷をこうむったところ、血の循環が悪くてなかなか治らず、どんどん悪化してしまいました。大腿部より下の血の流れが非常に悪く、足の指先が黒くなってしまいました。同時に食欲もなくなってきてしまった。栄養素が十分にとれないことが回復をさらに遅らせ、長く入院することになりました。この入院がアマアには辛く、毎日のように、家に帰りたいと泣いて過ごしているのだそうです。
僕らが病院を訪れたのはそんな状態のアマアが横たわる病室でした。かたわらにはアマアの娘さんが雇ったインドネシア人のワーカーが付き添ってくれていました。彼女は30歳、お子さんが二人いる女性で、北京語を上手に話します。台湾の病院の付き添いのワーカーの多くがインドネシアの女性だとのこと。アジアの経済格差の一端を見る思いもしましたが、とりあえずは彼女の細やかな優しさが、アマアのためにありがたい気がしました。
僕らが入っていくと、アマアは、柴さんの顔をみて泣き出しました。たぶんそれまでが淋しく辛かったからだと思います。柴さんの顔を見て、気持ちが緩んだのでしょう。僕には泣きながら柴さんの訪問を喜んでくれているように思えました。「どうしたのアマア、泣かなくていいのよ。ねえ、泣かないで」。柴さんが枕辺によって優しく語りかけます。「私のことが分かる?日本からみんなできたのよ。アマア、よくなっておうちに帰ろうね。そうしたらアマアの家にまた遊びにいくからね」。アマアは日本語で「はい」と語って、うなづきます。
事前にホエリンさんから、アマアはもう娘さんのことしか分からないと聞いていたのですが、柴さんの語る日本語ははっきりと分かる様子。柴さんの顔もまじまじとみていて、しばらくするとまた目から涙が流れてきます。付き添いのインドネシアからきている彼女が優しく涙をふきとってくれる。のちにホエリンさんが確かめて、柴さんのことははっきりと認識してくれていることが分かりました。
でもアマアは多くを語れません。ときどき何かを話しますが、何語なのかがよく分からない。タロコ語のときもあり、北京語のときもあり、日本語のときもあり。でも僕が手を握り、「アマア、よくなってくださいね。きっとよくなりますよ」と語ると、しっかりとした日本語で「ありがとうございます」と答えてくださいました。そのときもアマアの目がウルウルとしていました。
僕はアマアとは初対面です。次に会えるかどうかも分かりません。でもこうして僕の人生の中で一度でもアマアとお会いしたことが、きっと彼女のためになるのだと僕は思います。そのためにも辛い過去と向き合って、尊厳の回復に立ち上がった彼女の生を、僕はしっかり受け止めようと思います。そしてその意義をさらに拡大するために、僕は今、こうしてみなさんにこのことを書き伝えています。
これを読んでくださり、アマアたちの闘いに共感を抱いてくれる人が増える分だけ、アマアの生は豊かになるのだと僕は思うのです。アマアの生き方は私たちの中に熱をもたらす。その熱が私たちを何かに駆り立てます。そしてその分だけ、世の中は温かくなるはずです。それはアマアの心が作り出している温かさです。どうかそんな風に考えて、アマアの思いを分かち持ち、それを何でもいいですから、世の中を少しでも温かくするためのエネルギーとしていただければと思います。
さて病院を出て、今度は新幹線ではなく在来線の台中駅にタクシーで辿り着きました。ここから呉秀妹アマアの待つ桃園県まで2時間の電車の旅。駅から再びタクシーでアマアのお宅に向かいました。僕にとっては3回目のアマアのお宅の訪問でした。
続く