明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(489)安全性の概念をかなぐり捨てた大飯原発再稼動論

2012年06月16日 13時30分00秒 | 明日に向けて(401)~(500)
守田です。(20120616 13:30)

昨夜、そして本日たった今、大飯再稼動反対の行動が各地で取り組まれ
ています。昨夜の首相官邸前は1万人以上が集まったそうです。動画を
見つけたので紹介します。

6・15原発再稼動許すな!首相官邸前1
http://www.youtube.com/watch?v=WM0c3t5uaGA&feature=related

16日現在の東京の様子は現在、IWJが以下で中継しています。
http://www.ustwrap.info/multi/iwakamiyasumi::iwakamiyasumi5

関西では今日、各地でデモがあり、明日は現地行動も予定されて
います。
http://www.nihon.jpn.org/ooi/


再稼動を止める運動をさらに前に進めるために、論点の整理を行って
おきたいと考え、これまで注目してきた後藤政志が6月5日に語られて
いることの簡略な文字起こしをしたのでお読みください。

後藤さんが語られているポイントは、今回の大飯原発の再稼動が、安全
性をまったく無視して行われようとしている点です。すでに多くの人が
直感的にもこれに気が付いて、積極的な行動をしているわけですが、
ここでおさえておくべきことは、政府の言っている「安全対策」が、
プラントそのものの安全のことではなく、プラントの設計思想が破産
した「過酷事故」への対策のことだという点です。つまりその時点で
プラントとしては破産しているのです。しかもその過酷事故対策すら
が、「これから対処する」などとされているものも多い。要するに、
福島事故以前と何も変わってないのだということです。

もう少し詳しく述べると、そもそもシビアアクシデント=過酷事故とは
単なる重大事故の意味ではありません。設計上想定できない事態に立ち
入ったことを示す概念なのです。車で言えば、安全装置の基本中の基本
であるブレーキがまったく利かなくなった状態です。それが設計思想が
破産した状態なのです。そのとき、例えばサイドブレーキを引いて停ま
るようにするとか、それこそ後ろにパラシュートでもつけて開くように
するとか、根幹であるブレーキそのものの改善以外の、「外から」つけ
足したもので、これに対処するのがシビアアクシデント対策なのです。

したがってその対策をすることは、プラントが設計上、想定されない
事態に立ち至ること自身を考えたものなのです。ブレーキが利かなく
なることがありうることを認めて、高速走行するようなものです。
そのときに、やれパラシュートを用意したとか言っているわけですが、
しかも原発ではその実験も一度も行うことができない。だからそれだ
って実際に役に立つ保障などないのです。そんな対策で再稼動がされ
ようとしている。

さすがにこの再稼動については、読売・産経新聞などをのぞき、多くの
マスコミも批判的ですが、しかしこのシビアアクシデント対策の意味す
るものがけしてきちんと報道されているとは言えない。シビアアクシデ
ント対策をしましたとは、「格納容器が壊れることはありえます。それ
を想定した運転を認めてください」ということに他なりません。それが
関係自治体に政府と電力会社が求めていることの本質であることがもっ
と明確にされるべきです。

後藤さんは非常に早くからこのことを繰り返し述べてきました。例えば
ベントについても、できなかったことが問題の本質ではない。そもそも
格納容器の使命とは、放射能を閉じ込めることにあるとしているのが
設計思想なのであり、その格納容器を圧力から守るために行うベントは
「格納容器の自殺(設計者たちの言葉)」なのであって、ベントがされ
なければならない時点で、プラントは崩壊しているのであって、安全
設計とは、ベントなど絶対に必要としないものを作り出すことでなけ
ればならないのです。

この点をきちんとおさえ、再稼動反対の声をさらに高めていきましょう!
以下、後藤さんの解説の文字起こしを掲載します。ですます調を
である調に直したラフな起こしであることにご留意ください。従って、
この文面の文責は守田にあります。


*************

大飯原発再稼動問題について、安全性は確保されたか
後藤政志
http://gotomasashi.blogspot.jp/

再稼動については、もともと、ストレステストについて発言してきたが、
現時点で意見聴取会で言ってきたことが何かを考えざるを得ない。
最終的に決定するのは政治であるのは当然だが、福島の事故を考えると
一番最初に、事故が何であり、安全がどう確保されるのかということが
根幹にないとおかしい。しかしいつのまにか間にかそれが骨抜きにされ、
安全のことは二の次三の次に再稼動の決定がなされようとしてきている。
これは由々しきことだ。

私は怒りを通して呆れている。事故の当時、どう思ったのか。こんなこ
とがあるのか、とんでもないことになってしまった。どうやったら元に
戻れるのか、二度とこういうことを起こしたくないという思いを共有し
てきた。だから原発の安全問題を考え続けてきた。

そこから考えたときに、保安院などが出してきたストレステストだけで
はなく、福島の事故を受けた30項目についても10数項目しかやってない
とかいうこともある。それらを煎じ詰めると地震とか津波とかは非常に
重要な要因であるとともに、さらに加えて原子力プラントとしてどうか
という問題がある。いったん事故になってしまうと、とくに炉心が溶け
てしまうと手の打ち用がなくなる。

原子力を推進してきた側は、あれが足りなかったこれが足りなかったと
いろいろなことを言っている。しかし炉心が溶けた様子を見ると、3基
ともメルトダウンしていた。あの状態を見ると、少々何かをして、どう
にかできるとは思えない。それに対して、そもそも原子力プラントは成
立するのかと、そこまで考えなくてはいけない。小手先ではいけない。

小手先というのは、例えば格納容器の圧力が上がるのは炉心が溶けてき
たら当たり前だ。ところがそれを温度があがると、格納容器が壊れてし
まうからベントをするという。そのベントも実際にはうまくいかなかっ
た。でもそのあと結果として格納容器が守られたのかというと、守られ
てない。格納容器のいろいろなところから吹いてしまった。だからこの
ようになっているのだ。

ということは、格納容器のベントが必要で、そのためにはフィルターが
必要だということがいろいろな議論から出てきた。にもかかわらず、そ
れはまだつけてない。3年後につけるという。これはもうメルトダウン
したらそこにいく可能性が高い。だからつけるのが当たり前だと思うが
それすらつけていない。

本当はそれをつけたからいいかというと、そんなものではないのだ。
フィルターをつけたら格納容器が守られるかというとそんな簡単なこと
ではない。もっと大事なのは、あれは徐々に圧力温度があがって、仕方
がないからベントするという話だが、それにいたるところで、万一、
水素が爆発したり、あるいは溶融物が溶けたものが水と一緒になって、
水蒸気爆発を起こしたり、もっとひどいのは核反応の制御を停めるのに
失敗したり、あるいは再臨界が起こったり、こういうことが起こったら
爆発的なこと、壊滅的なことが起こる。

それへの対策は口ではあれをやったこれをやったと言っているが、現実
に本当に証明されたものはない。経験してないのだ。例えばある事故を
想定して装置をつける。それが実際の事故のときに稼動するかどうか、
それだけでは分からない。他のシステムだったらそんなことは許されな
い。実際に確認されるまでは。ところが原子力では平気でそれでいいと
しているのだ。だからそれはとても信用できるものではないのだ。

ということはまた同じことが起こりえる。爆発的になったら最悪だし、
そうではなくても徐々に圧力が上がって、今回と同じようなことになる。
しかもまたフィルターもついてない。一体、福島の事故の前と今と何が
変わっているのか。まったく変わってないと言えるではないか。

そんなことはない。過酷事故対策は何項目かしたといっている。電源に
ついては外から電源車を用意した。水についてはポンプを利用したり、
消防車もそろえた。うまくつなぐことができなかったから訓練もした、
マニュアルも作った、耐震免震棟も作ると言っている。それすらもまだ
できていないけれども、今後、作ると言っている。

いずれにしても、どれ一つとっても、安全性の本質とは関係ない。安全
はプラントそのものが安全でなければダメなのだ。外から付け足したも
ので安全を確保するというのは二番目だ。例えば建物で言えば、火災が
起こりうる。火災が起こらないようにするにはどうしたらいいかという
と、火災がおきにくい材料で作る。可燃物は扱わない。さらに万が一に
備えてスプリンクラーがついて、確実に消せるようにする。それから避
難経路も確実に複数あって、できる状態にしておく。それを建築基準法
で守ってやっている。

しかしあるときに欠陥が分かったとする。燃えやすい建物になっていて、
材料を今さら変えられない。消火のためのスプリンクラーも、容量が十
分ではないということが分かった。でもすぐに付け替えられないから、そ
のままになっている。この建物はすぐに使わなければならないというので
どうしたかというと、「いつでも消防車が呼べるようにしましたよ」と言
う。だからこれは安全だと言うだろうか。消防車を用意したから安全だな
どというわけがない。非常事態なのだから当たり前だ。

原発の過酷事故対策とはそんなものだ。プラントそのものの特性は変わら
ないで、外から何をやった、これをやったという。しかもそれも確かめら
れていない。人間のやることだからミスすることもあるし、環境が悪かっ
たらこれない。吹雪の中でどうするのかとか。地震で地割れが起こって、
これないかもしれない。そんなもので対策をしたと言っているのが、不確
かなもので、対策をしているのが、過酷事故対策だ。これが原子力の安全
と言われている論議のものすごく瑣末な、情けない結論だ。

原発の安全性はそんなことにはない。炉心を溶かさないようにするには
どうしたらいいのかという技術的な問題。また溶けた後にそれを冷やせる
かどうかが勝負なのだ。そこに対しては部分的にやっているといっている
が、福島以前とその後で本質的に変わっているとは言えない。きちんと
できているとは言えない。

そういうことを、例えば溶けてきたものを水素爆発を起こさずに冷却でき
るようになっているかとか、水素がでてきたらそれに対してはどうかとか、
沸騰水型だったらチッソが入っているから水素爆発をしなかったが、加圧
水型だったら、格納容器の中はチッソがないから、水素がそのまま出てく
る。その場合、容量が大きいから爆発できないと、机上の計算だけで言え
るのか。そういう不確かな条件に頼っている安全性は信用してはいけない
と思う。

福島の事故でもそれがごまんとある。あれが機能しなかった、これが機能
しなかったと言われている。そうすると、そういうことをもって、過酷事
故対策はできているなどという議論は止めた方がいい。だから安全を考え
るならば、出てくる結論は、安全性が確認されていないのならば、稼動し
ないことだ。これ以外には安全な方法はないというのが結論だ。

以上





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明日に向けて(488)追悼!原田正純先生(社会的共通資本と水俣)中

2012年06月16日 10時00分00秒 | 明日に向けて(401)~(500)
守田です。(20120616 10:00)

原田先生との出会い、社会的共通資本との出会いについてのお話の続き
を書きます。

2004年になって、僕は京都精華大学を辞し、一時期、滋賀県の新しい県紙
として立ち上がらんとした『みんなの滋賀新聞』編集局に参加しました。
ある方から、日本のジャーナリズムを変えるために現場で奮闘すべきだと
説得されてのことでした。そこで僕はこの新聞社に飛び込み、非常に多く
のことを学びましたが、しかし新聞社は1年あまりで立ち行かなくなり、
やがて倒産し、解散してしまいました。

ちょうどその頃、宇沢先生が京都に講演に来られることになり、お会いし
にいきました。先生は僕のことをよく覚えていてくださり、当時、自らが
主宰しておられた同志社大学社会的共通資本研究センターに、フェローと
して参加するように求めてくださいました。拾っていただけたのでした。
そうして宇沢先生に直接学びながら、社会的共通資本に関する研究を深め
る日々が始まりました。

その宇沢さんがもっとも重視されていたのが水俣でした。宇沢さんはもと
もと、東大を出てアメリカの大学に研究生として招かれ、やがてシカゴ
大学などで教鞭をとられていたのですが、ベトナム戦争が激しくなる中で
アメリカと決別し、日本に帰ってこられて、東大経済学部に加わられた
のでした。

それまで宇沢さんは、日本のことを経済指標でしか見ておらず、高度経済
成長を続ける日本が、日増しに豊かになっていくことを喜びの目で見て
いたといいます。ところが日本に帰ってきて、宇沢さんが知ったのはこの
経済成長の影に隠れて、たくさんの公害が発生していることでした。ショ
ックを受けた宇沢さんは、これらの公害現場の一つ一つを歩き始めます。

とくに宇沢さんが強い関心を寄せたのが水俣でした。水俣を訪れた宇沢さ
んはそこで原田さんと出会われ、原田さんに伴われて、胎児性水俣病患者
さんのお宅などを回られました。そのときのインパクト、感動、そして胸
の痛みを、宇沢さんは、先に紹介した『日本の教育を考える』の中で、
切々と語っています。

「私が水俣の地を訪れたのは、熊本大学の若い医学者原田正純さんに連れ
ていっていただいたのが最初でした。原田さんは脳神経を専門とされる
お医者さんですが、早くから現地で、最初の胎児性水俣病患者をはじめ、
数多くの水俣病患者の診療に当たられるだけでなく、水俣病問題の社会的、
経済的、政治的背景について、洞察力に富んだ研究を数多く発表されたの
です。」(同書p153)

「原田さんに連れられて、水俣病患者のお宅を訪ねる度に、私はいつも感
動的な場面に出会いました。それは、胎児性水俣病患者をはじめ、重篤な
水俣病患者の方々が、原田さんを見ると、じつにうれしそうな表情をして、
はいずりながら、原田さんに近づこうとする姿でした。そして、原田さん
がやさしい言葉でいたわり、容態を聞く光景をみて、私は、医師と患者の
間の理想的な信頼関係をみた思いがし、原田さんこそ、現代医学の規範で
なければならないとつよく感じたものです。同時に、医学の道を志ながら、
途中で挫折した後、社会の病いを癒すという気持ちに駆られて経済学を専
門分野として選んだ私は、それまで研究してきた経済学のあり方に対して、
つよい疑問をもち、深刻な反省を迫らざるを得ませんでした。」
(同書p153~154)

宇沢さんはその後、阿賀野川、四日市、西淀川、大分、志布志、むつ・小
川原、伊達、川崎、千葉などを、公害問題の現場を歩き回られ、その中で
近代経済学の理論的枠組みの論理的矛盾、倫理的欠陥を超えるものとして
の社会的共通資本の考えに到達していきます。そして社会的共通資本を次
のように定義されました。長くなりますが引用します。

「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域が、ゆたかな経済生活を
営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力のある社会を持続的、安定的
に維持することを可能にするような社会的装置です。社会的共通資本は社
会全体にとって大切な共通の財産であって、社会的な基準にしたがって慎
重に、大事に管理、運営されるものです。社会的共通資本の管理、運営は
市場的基準、あるいは官僚的基準によって決められるべきものではなく、
あくまでも、一人一人の市民の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民
的自由が最大限に確保できるような社会を形成するという視点にたってお
こなわれるものです。

 大気、森林、河川、湖沼、海洋、水、土壌などの自然環境は言うまでも
なく、社会的共通資本の重要な構成要因です。公害問題は、産業的あるい
は都市的活動によって、自然環境が汚染、破壊され、その機能が阻害され、
直接、間接に人間に対して被害を与えるものです。したがって、公害を防
ぐためには、産業的あるいは都市的活動に対して、きびしい規制をもうけ
て、自然環境という社会的共通資本を傷つけることがないようにすること
が要請されます。そして、ひとたび公害問題が発生したときには、自然環
境を汚染、あるいは破壊した企業(場合によっては、特定の個人)の責任
をきびしく追及するとともに、社会的観点にたって、公害被害者の本源的
救済をおこなわなければならないわけです。」(同書p155~156)

このように読んでみると、まさにこの考えは、福島第一原発事故にそっく
りそのまま適用できるものであることがお分かりだと思うのですが、こう
した考え方を、宇沢さんは、原田さんに伴われて、水俣病患者さんの家を
周りながら、自らのうちに確固な信念として打ち立てられたのでした。


僕自身と言えば、若いときに社会主義思想、とくにマルクス主義によって
自己の世界観、正義感を形成してきました。とくに影響を受けたのは、
哲学者廣松渉さんの考察でした。廣松さんの考察は、部分的にはマルクス
主義を大きく越え出る要素をはらんでおり、その点については今も僕の考
え方の一角を形成していますが、しかしマルクスが例えば『共産党宣言』
などで提起した世界観に、僕は次第に疑問を強めるようになりました。

一番、ひっかかったのは、マルクスの提起が、「経済成長」にあまりに過
大な期待を寄せているように思えたことでした。またそのために、農の営
みが軽視されているように思え、環境問題などでさまざまに突き出されて
きた問題に、19世紀のマルクスの考察では、十分な答えがでないように
思えました。むしろ時代的制約の中を生きた一個人であるマルクスに、す
べての答えを見出そうとするほうが無理であると考え出し、マルクスの考
察の先にあるものを模索しはじめていました。

しかしそれは苦難の道でもありました。それまでの己の確信を解体し、再
創造しなくてはならない。深い心理的葛藤を伴い、またそれまでの仲間や
友人たちとの決別を含むものでもありました。そうした苦悩の繰り返しの
中にいたため、宇沢さんが、水俣に赴かれる中で、それまで己の確信とし
つつも、さまざまな懐疑を宿しつつもあった近代経済学の解体再創造に
取り組まれ始めたこと、それまでの同僚との関係をも苦悩の中で見直され
はじめたことに、僕は深い尊敬の念を抱きました。またそこでの考察は、
マルクス主義にも共通のものと僕には思われた経済成長の一面的美化への
内省を孕むものであり、社会的共通資本の考え方は、次第に、僕自身の
思想的葛藤を越えでる大きな可能性として感ぜられるようになりました。

かくして、まさに己の信念を再創造し、いかにして「豊かな社会」の実現
をめざしていくのか、またそもそも「豊かな社会」をいかなるものとして
捉えるのかという思想的確信を磨きあげる作業が、僕にとっての、同志社
大学社会的共通資本研究センター客員フェローとしての研究テーマになり
ました。

そんな僕に対して、宇沢さんは懇切丁寧に、社会的共通資本の考え方を
レクチャーしてくださいました。同時に、きわめて厳しい論文指導を繰り
返し受けました。まるで柔道の高段者に素人がポンポンと投げられるよう
な日々で、けして楽ではありませんでしたが、その中で僕は僕の思考を少し
は磨きあげることができたように思っています。

宇沢さんはまた折に触れて、社会的共通資本を考えるものにとって、水俣
は聖地であると語られていました。そしてある機会をとらえて、僕を熊本に
連れて行ってくださり、原田さんとも会わせてくださいました。その縁で
水俣をも訪れることができました。僕にとって始めての水俣でしたがこれ
ほどに思考をめぐらせて訪れた場はそれまでにありませんでした・・・。

続く












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