富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

改めて思うこと・・・サークルとは

2016年11月12日 | パソコンサークル

ひさしぶりに書き込みたいと思いついたのは、
この間のサークルの冒頭で申し上げた自分の思いからです。
メンバーも新しい人が加わって、またあたらしい感じが生まれるのかしらと
漠然と思っていましたが、何とはなしにモヤモヤした「違和感」っていうのを感じるようになり
サークルに対して自然と自分のモチベーションが維持できないこともあったことを告白します。
・・・けども今一度初心を思い起こして、この際思い切って、
自分の思いを述べておかないと
自分自身は何となく今後はもう続かないかなって思うほどでした・・・ので
意を決していうたつもりですが、時に独りよがりに思いばっかりが先走り、つんのめってて、
何を言うてるのかわからなかったこともあったと思います。そのせいで
中には、通じてないかなって思う返答も帰ってきたので、くどいのはわかって
この投稿に至っています。


パソコンサークルは決して「パソコン教室」ではありません。
パソコンを「勉強ごと」にして考えることは、正直僕には受け入れられません。

パソコンは、道具の一つです。文書や表やウェブサイトを閲覧したり
ものを調べたり、困ったときに料理のレシピを検索したり
時に遠くに出かけて変えない買い物したり、あるいは
遠くに出かけるときに宿を手配したり、その場所を調べたり
離れた家族や友とのコミュニケーションの手段としたり・・・

つまりパソコンとは、いわば木を切る時ののこぎりや、もの書くときのペンと同じ
で、何かを作ったりするときのツール(道具)なのでパソコンそのものが
できるかできないかそのことは全く問題ではありません。
車でもそうでしょう。車の運転を覚えようとするのは
どこかへ行くためであり、運転そのものが目的ではありません。

つまりパソコンの操作が、パソコンの目的ではなく
パソコンを使うことによって、それまでは、できなかったことを
できるようになるためのツール(道具)だということです。

僕自身が、この地でパソコンサークルを主宰しようと
志したのは、まさにそこのところで、世代間に横たわる段差のような
隔たりをパソコンを通じて同じ区にいながら、世代も違いそれまで交わる機会のない人が
交流し、様々な人の新しい一面に触れて、また刺激され新しいことに
チャレンジするような機会にすることでした。

だからこそ、この集まりは「サークル」と呼ぶ集まりであり、あくまでも自分が前向きに
なってそれぞれの個性に向き合うことが重要であって、
この国にありがちな「決まり事」のように
誰かに一方的に学ぶというような「受け身」の姿勢で存在する「教室」のような
ありようでは、パソコンを学び合うような機会と位置づけたとしても、
僕自身は、はじめからアレルギーを持っていましたし
パソコンで教室ごっこするのはいやでしたし、画一的で押しつけがましい
「知ったかぶり」では、誰のためにもならないし
結局そういう形では、長く続かないとも考えていました。
それは今も信念として持ち続けています。
現実に「パソコン教室」に通って継続する人はどれだけいるでしょう。
金を払いながら、インストラクターをセンセイと呼び、次々に出される課題に
わからない自分を卑下していては、できないことばかりが増えるだけで
結局続けるモチベーションがなくなってしまいます。
道具を使うのは、自分の工夫であって、人に技能を強いられるものではありません。
自分なりに使えればいいことで、人に教えを請うのは二の次の話です。
自分が自分のために使わなければ、結構なお金を使って買い込んだパソコンも
無駄遣いに終わります。
「勉強」のための道具ではありません。自分に役立つものでないと意味のないことです。
「脳トレ」のつもりでされるのなら、わからないことにばかり時間を費やすのであれば
むしろストレスでその効果は半減します。

たとえば、この国では僕らの世代でさえも、中学、高校と
6年間も「英語」という勉強をさせられます。好むと好まざるとに関わらず
なぜかこの国の大学を受験するときに、必須科目として「英語」の
勉強を強いられます。
英語を勉強にして、習得されたとする「先生」という人たちに教わって...

ところが、それほど勉強しても
この国の英語力は、現実には世界を見渡しても100位を下るほどの英語力だと評価されます。
いまこの国の首相は実にたどたどしい英語のスピーチに終始します。
アメリカの留学経験があるといいながら、あの程度の英語力でしかありません。
英語とは「言語」であって、人とのコミュニケーションのためのツール(道具)であるのに
勉強してきたはずの人々は、「ディス イズ ア ペン」とは書けても
困ってる外国人を見かけても、「May I help you?」と話しかけようとはしません。
交流するといいながら、何が何でも「作り笑顔」だけで済ましているから
彼らは、日本の中で本当の意味の「トモダチ」を見つけられずにいます。
いったいこれは、何のための「勉強」なんでしょうか・・・・
「勉強ごと」にしてしまうと、ついつい人と比べて自分を比較して、そして
人からの評価に気を巡らせ、時に当てにします。
そこからやたらと「失敗」をすることを恐れて、「間違い」というものに
神経をとがらせてしまいます。
やがて、わかっているくせに、間違うことが恥ずかしくてチャレンジしたり
前向きにいることすら、出しゃばりと決めつけて、困ってる人の前でさえも
能ある鷹は爪を見せようともしないのです。
この国には「謙譲の美徳」なるものが厳然としてあり、謙遜するのが習です。
できるくせにできないということが良いことのように、慎ましやかに装います。
できれば人前でミスをしたくないので、予防線をはっているのです。
こういう断言は一方的ですが、僕らが知ってる「教室」とは
ものが使えるように学び合うのではなく、勉強ごとにしてどれだけ知ってるかの
評価を競い合ってるようにしか見えないのです。
それに反して海外の人たちの多くは、学ぶということを現実的にとらえて見えます。
できなくてもやったことがあることを隠しもしないし、少ししか知らないことでも
たどたどしい有り様でも、物事へチャレンジして見せ、その失敗の繰り返しから
自分の経験値にして、自分のスキルを上げることを小さい頃から教え込まれています。

どちらが正直に自分を表現し、物事に向き合っているか自明の話です。
何事も習い事まで「勉強ごと」というものに目的化してしまう、この国の習性がもたらす
最たる「失敗」だと僕は考えます。
元々、この国の「教育」という本質が、「勉強ごと」に終わってしまってることを
学生時代から思い続けてきました・・・ほんまのこというと、自分が勉強をサボる口実ですが・・・
けれども今となっては、結構的確に真実のような気もしてきます。

一概に国民性を論じるのは、はばかれますが・・・・・
人をむやみに「先生」と呼ぶのも、僕には大いに抵抗があります。
中学の時に、僕は自分の家族との関係や家族への不信感を感じて
思い悩んで、職員室の教師をしてる人に相談に行きました・・・・
そして、僕の悩みに対する彼の返答のはじめの言葉が「先生はな・・・」ということに
ものすごい嫌悪感を感じたものでした。自分は自分なりに随分思い悩んで
それでも一念発起して、自分をさらけ出したのに、彼はあくまでも
職員室というか学校側として意見を述べるように、人格のない「先生」と自分を称したのです。
その瞬間に、ものすごく距離感を感じて、「先生」という言葉にも嫌悪感に似たものを
感じたものです。

欧米かぶれの自分ですので、それが正しいことだという意味で述べるのではありませんが
彼らはスクールであろうが、ましてプライベートであって
教師を職業としてる人を「先生」などという呼称で呼ぶことはありません。
ちゃんと名前を呼んでその個性をこそ親しみます。そして
ためらわず、臆せず彼らに問いかけ、自分のスキルを自分で磨こうとします。
そしてチャレンジして犯す間違いを決して笑うこともありません。彼らの話す
日本語などおおよそ、片言で日本人が気にしすぎる「文法」などに照らせば
「間違い」だらけの日本語です。
けれども彼らはひるまずに「オイシイ」「オオキニ」ぐらいの日本語力でも
話しかけること、交流することの道具として懲りずにカタコトの日本語使い続けます。
ここに何のために学んでいるのかの本質があります。
失敗を「恥」とするのか、チャレンジする一歩として、失敗を糧にするのかは
大きな違いです。パソコンに置き変えれば、失敗やミスを恐れて
何もしなければ、道具がさび付くだけで得るものは何一つないでしょう。
ただ、何のためにパソコンを動かそうとするのかを見失うことがなければ
失敗を恐れずに、チャレンジを繰り返します。
そういう雰囲気は、従来の「学校」や「教室」をなぞった有り様からは
残念ながら決して生まれないと断言できます。みんながのびのびとパソコンという
道具を使いこなすのに、サークルという「よってたかる」場所が必要だと思います。
わかることは、すすんで教え合い、わからんことを気軽に聞き合う場所でないといけません。
だからこそ、そこに「センセイ」などというものは必要ありません。
努めてこういう雰囲気を作るのには皆が横に並んでいて醸し出されると思うのです。

それによくよく考えてみれば、この国で「せんせい」などと呼ばれている人の、
結構多数の人が怪しいものでしかありません ・・・センセイ呼ばわりの
最たるものが政治家で、医者を「センセイ」呼ばわりすることにも僕には抵抗があります。

わざわざこのことを持ち出すのも、10年を超えるほど続いてきたこのサークルに対する思いからです。
ずっと長い間、はじめからどちらかというと操作の仕方を「聞かれる」立場にあり
会員のみんなに「課題」を作ってみてといわれてきた経緯からでしょうか・・・・
センセイと呼ばれる方もおられました
その都度、僕は「先生」ではないと言い続けてきました。
けどもパソコンができるということは、仕事をしていれば誰もが仕方なくこなせることであり
自宅で使っておられる方とは、大いにそのスキルに違いがあるのは当たり前のことですし
エクセルやワードができて仕事になるのですから、
それを尊称のように「先生」などと呼ばれると
むしろ違った意味にさえ聞こえてしまうほど、内心ひねくれてもいました。
僕は交流の場であると考えているので僕を勝手に「センセイ」などと持ち上げて
区別されてしまうことも大いに心外なのです。

だからこそ、これを機にサークルのすべての人に改めて
自覚してほしい。サークルは「パソコン教室」ではありません。
パソコンはツール(道具)であって、できるようになったことが目的ではありません
パソコンで何をやったかということがすべてです。
英語のように「勉強ごと」にしてみても、話すことに使わなければ
本来の意味をなしません。
だからこそ、僕自身は僕が「課題」などというものを出すこと自体にも違和感があります。
課題は、できてもできなくても、僕には興味がないのです。
だから作ったとしてもみんながやろうと取り組むきっかけになればいいことで
できたかできなかったかということでもなく、サークルの時間をそのことに使う意味をあまり感じないのです。
それよりか、それぞれの人がまちまちでも、何か新しいことができたとか、こういうことがしたいと思ったとか
聞くことが何より楽しいことだと思います。

サークルが始まった頃は、僕を含めてみんなが、できようができまいが
同じ視線で集って、あぁでもないこうでもないというやりとりがあり、
たとえば運動会でバザーしてみよう、ついでにパソコンでTシャツにプリント
して、とかアイデアが伸びやかに飛び交って
できまいが何かをやってみようと気分が充満してた気がします。

パソコンがツール(道具)である以上、集まった人の目的は
十人十色で違います。それぞれの目的のために手伝いができたらなと考えています。

くどいようですが、僕は「センセイ」などと呼ばれても
心外ですし、僕ではなかったとしても、誰かを「センセイ」として
従来のこの国の習わしを引きずるように「勉強ごと」にして
パソコンサークルを「パソコン教室化」してしまうと本来の意味を見失うどころか
パソコンの操作を覚えることの障害になってしまうと考えます。
みんなが同じことがやりたいわけでないので、同じことを覚える必要もないし
自分ができないということが、誰かの足を引っ張っているなどいう発想に
陥る意味すらありません。

「センセイ」というのが、呼びやすいという人もいるかもしれませんけど
それは結局できない自分を自ら作り上げて、しまっていることでもあります。
何度も繰り返しますがパソコンができないことは、恥ずかしいことでも何でもないんです。
以上の理由で、この際改めて、これらのことを心して
みんなをお互いに名前で呼んで今一度初心に立ち返るように
それぞれの個性に目を向け自分なりのパソコンを使いこなしましょう


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