それは、突然の知らせで、思いがけないものでした。年末から体調を壊されたとはいえ、
普段の「元気さ」が脳裏に焼き付いてた自分にとっては、板谷一男氏の訃報に一瞬言葉を失いました。
人は、「物忘れ」を繰り返し、近しい人でさえ亡くなれば、いずれの日にかその名を口にすることが
少なくなり、いないことを気にしなくなる生き物です。
「パソコンサークル」を考えるときに僕はこの人のことを決して忘れることはありません。
だからこそ、自分のためにも「板谷一男」という名前をWeb上に刻んでおこうと思います。
どこかの誰かが、「検索」すれば、いつかこの場所にたどり着くように・・・・・・
思えば、区という小さな範囲の中に「サークル」のような活動を、公民館の活用を目的に
思いつき、「パソコンサークル」などという提案をしたものの、僕自身の人望もこの区の中では
全くないし、あてもないし自信もないまま・・・おそるおそる「板谷」さんちの呼び鈴を押したものでした。
けれども彼の反応は、その僕の不安のような思いを一瞬にどこかへやってしまうほど好意的で
彼の歓迎と協賛はどれほど勇気づけられたことかわかりません。
今でもあのときのことを鮮明に振り返ることが出来ます。
僕のチカラだけでは、とてもサークルは立ち上がらなかったでしょう。 彼の後押しとリードがなければ始まらなかったのです。
このサークルを起動させた功績の多くは、板谷一男氏の尽力に大いに依存しています。
何かと相談するとき彼は僕を受け入れ、胸襟を開き、年の差を超えて、親しく話せるようにもなりました。
「区」なんていう単位の「社会」は、ほんまにちっぽけな区分でしかありません。
ただ、それほど小さな単位で有りながらも「世代」間にある隔たりは、相当大きく
遠目に「あの人誰?」と訊いて名前を知る人もこのわずか150戸の集落に、「知らない人」が存在して
います。
考えてみれば、パソコンサークルを通じて話すようになり、親しくなった人たちも
それまでは名前は知っていても「どう考え、どういう人か」知らない人たちで近くにいながら遠い存在で
あったのかもしれません。
今は、サークルの人たちとに年代の垣根を感じることなく、親しくさせていただいてることを
つらつら考えるときに、それらの多くが「板谷一男」という人が「きっかけ」だったことを思い知ります。
板谷さんはあの年代で常に前に出ようと「前向き」で、新しいものに臆さず、 アグレッシブに取り組み
チャレンジしてきた先進的な方でした。「気分屋」などと言う他人の評価は、考えてみれば
そういう人を含めて、誰にも当てはまります 。
それより何より、あらゆる世代と分け隔てなく親しく話すことが出来て
積極的な生き方を実践できる人でした。それほどの思いを持ちながら・・・・彼の顔を見ることもなく
まま「行事」を優先して、葬儀に参列して「見送る」ことの出来なかった自分自身に、
どこかに申し訳なさを感じずにおれませんが・・・
あっという間に逝ってしまわれた「板谷一男」という人を、今更ながら若輩の僕が「友」と呼ばせていただいて
このブログでこれまでいただいた好意に感謝しつつ「惜別」の思いを書き残させていただきます。