富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

XPよさらば、・・・Windows7のノートに買い換えて・・・

2011年05月31日 | パソコン

長らくつきあってきたXPには、当初わからないことが多くて苦労したことも
あれやこれややってるうちに乗り越えた達成感を味わったりと、いろんな思いもあって
このままPCは、ずっとXPでいくんやと心に誓ったはずが、
それこそ長い間のつきあいで、何度もHDDの交換やらドライブを換装したりして
愛用のDELL inspiron 510mに、老いが忍び寄り、決断を余儀なくされてきました。
最近HDDの異音やスロットの故障が相次ぎ、これ以上の応急処置や治療に限界があるうえに
バックライトが切れかけた画面の暗さには、さすがに老眼の進行が著しい僕の目にも厳しく
自分なりに決断を下して、財政的に苦しいながらも、まだ愛機が働ける間に、この際新しいPCを買う選択をしました。

買うとなってからは、その選択にはいくつもの考える「ツボ」があります。
まずOSをXPでいくのか、いっそWindows7に変えるということと
その際にシステムを32ビットか64ビットかに選択するということも
わからないながらも思案と勉強して考えねばならないポイントでした。
そもそもOSはこなれてから買うものだという言い伝えから
出だして間もないWindows7にいささかの疑念もあったものの
どうせ買い換えるのならWindows7という気概も少しはあったので
ちょっと分厚い「7」の本を買い込んで自分なりに知識を備えて買い物に踏み出すこととしました。

あんまりにもお節介にあれやこれやと使いもしないソフトが入ってしまっている
量販店のパソコンには全く興味がないので、実際の購入は
いつものことながらネットの直販のDELLのサイトで買うことにしたのです。

※そもそも、32bit、64bitとは何なのか?まったく小難しい話なんですが・・・
コンピュータの計算は2進法で「0と1」の組み合わせで成り立っています。
最小単位の1bitというのは「0と1」を使って「1桁」で表せる状態です。
つまり0か1しかないので、2通りしかありません。
それなら、8bitはどうでしょう。
8bitは 8桁ですから「2×8乗」で計算できます。
すると「0と1」を使って256通りの組み合わせで表現できるわけです。
同様に、 32bitは「2の32乗」、
64bitは「2の64乗」となり、プログラムの幅が広がっていくのです
また64ビットなら3.5GBというメモリの限界を突破できて
処理能力も大幅に改善もされそうです。

が、悲しいかなVistaの時代には、64ビットのシステムに対して
動作するソフトがないことから、多くの場合64Bitパソコンの良さを
知りながらも32bitパソコンやシステムを選択して64ビット対応のPCを窮屈に使ってきた経緯があります。

これを解決したのがWindows 32-bit On Windows 64-bitいわゆる「WOW64」という技術です。
元々ほとんどの人が手を出さなかったWindowsXPの64ビット版にあった機能なんですが
正直その理屈を説明するには、僕のスキルがあまりにも貧弱なので割愛させていただきます。

ただ、64ビット上の環境で32ビットのアプリケーションを動作させる仕組みで、
WOW64では32bitプログラムで作られたアプリケーションを検出すると、
CPUを32bitプログラムが動く「Compatibility Mode」に変更します。
実際に32ビットアプリケーションを手順に沿ってインストールすると
自動的にProgramFilesx86という32ビット用のカテゴリーにインストールされ
従来のソフトが苦もなく動作してくれます。
ただし、仮想ドライブなどのデバイスに関わってくるような類のソフトは無理だと思うけれど・・・
むしろ32ビットのアプリケーションは64ビットのシステム上でより快適に動作して思えます。

んなこんなで、少しは考えて清水の舞台から飛んで
DELLのInspironRのエントリーノートを買い込んだところ
舞台の上からKよこちゃんやらAkiraちゃん、果てはNacchanまで飛んできて
いっそ4台もまとめ買いする羽目になりました。
ちゃんと使えるかな?・・・設定はしたものの
その後のサポートに少し戸惑いながらも、新しいPCにわくわくもしています。
Windows7もことのほかよく仕上がってる感じがして、今んとこ満足しています。
XPのこともどこか遠くに感じ始めたのかもしれません・・・

あの愛すべきXPの510mは事務所に置き去りにしてきました。
もうちょっとだけ働いてほしいので・・・

ところで何でもかんでも菅がアカンでも、変えたらそれでええのんとは違いまっしゃろ・・・
今やるべきこと報道すべきことは、政治がどうのこうとは違う。
この時期にのんきに、しかも東京くんだりで、もう数え切れもせんほどの年をとって
誕生会をするノー天気な政治家気取りは、こともあろうに「シカト」などという禁句を
テレビカメラの前で言ってはばからない情けない見識でその時点で人格を疑う。
焼き肉やのおばちゃんからちょっとのお金もらって、いっかどそうに理屈をゆうて、危機のさなかに逃亡した
某若手実力者もぬけぬけと時季外れの「誕生会」に出向いて、二人を持ち上げてスピーチする
その2まい舌を政治というのなら、あのパフォーマンスが茶番に見える。何やってるんやろ・・・
また、2世議員の烏合の衆の「自民党」は自分らの親の世代からの無責任さと、ええ加減さが
招いたこの原発危機にも鈍感で、何を変え誰が何をするのかを言うこともなく
ただただ、やめろと連呼している。自分らが支持されているのではない
おまえたちが「ていたらく」だからこそ、変えた政権をおまえたちが代われるはずもないことに自覚もない。
そこにこの国の絶望があり、政治の無力があまりにもむなしい。

せめて、自分らが被災地でできることをたったの一つも思いつかないのか・・・背広でがなる姿がむなしい・・・
政治の世界の話とかいう適当な言い分は通用しない。政治に不信ををもたれていることを自覚するのなら
東京でじっとしているのではなく自らが被災地に行って、何かをやってこそ自分の思いを発信すべきであり
政治をいう前に人としての人格があらゆる国会議員から欠落している。
代えようにも代わりがない。日本にある危機は原発と無力な政治の現状だと断言できる。


今更、今頃、今になっても・・・オーストラリア紀行

2011年05月21日 | Weblog

Sydney Pano

豪州訪問から帰ってから、もう2ヶ月半が過ぎても「震災」のその後の状況は、
とりわけ原発の問題は、身勝手な情報操作もあって、より見通しが暗くなり
進展どころか、深刻さは日に日に増しているのではないかという思いが募ります。
いとも軽々に「メルトダウンというのなら、それで結構です。」などと記者会見でいまさら
よくもいえたものだと情けなかった。メルトダウンとは、原子炉の破壊と再臨界につながるもので
「チャイナシンドローム」の恐怖を現実のものにする言葉であり
あまりにもいい加減な見通しと甘い想定、この期に及んでの覚悟のなさと他人事のような
あしらいに、嫌悪感を感じる・・・あとの3つの原子炉も同じだとすれば
今横たわる危機は一基の原子炉が崩壊したチェルノブイリの4倍に相当するのではないのか・・・
本当のことを知りたいのは、意味もなく同心円で囲われた避難区域の住民だけではない。

その上で、今更オーストラリア紀行なんていうたぐいの記事もないのですが
思い立って書きためていた草稿を起こしてみました。

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大陸の地にたっていることで、直感的に何が違うのかと言えば、それは目に入る「景色」なんかもしれません。
そのことの善し悪しの問題でもなく、オーストラリアで見る景色のどれもがパノラマのように
見渡す限り、はるか遠くまで広がっていて、大きな景色を目にするたびに深呼吸させられるほどです。
この大陸に暮らすものの多くがこの雄大な眺望を求めて暮らしているようにも思えます。
そこには、ただ雄大に繰り返す大きな自然のダイナミズムが存在があり、その大きさに畏敬の念を抱いているのです。

対して、日本に暮らしに寄り添う景色は、そこに山があり、家並みがあり、切り取った「箱庭」のように
存在していて、その中で繰り広げられる季節の移ろいを愛でて、味わいを求める暮らしぶりがあります。
スケールは小さいけれど、その分きめ細やかな変化を見てとり暮らし向きに取り入れてきました。

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いいか悪いかの話やないんやけども、どうしたってそういう環境では、僕らは
自分以外の他人と肩があたるほどにせまっくるしくて、人とこすれあって、
人の顔色をうかがう生活になりがちです。誰かと同調することを求められもします。
職場であれ、住まいの近くであっても人の気に障るとたちまち息苦しさに包まれもします。
むしろ、それが故に微妙な言い回しや心の揺れ動きを映すようなきめ細やかな文化も生まれてきました。
その点、大陸に住んで暮らすと目に入る景色に比べて自分自身の大きさがあまりにも
小さくて、人との関わりなど第二義的な問題で、むしろ一人一人が独立して
どう強く生きるかを問われてくるようです。従って誰かと同じなどという考えすら存在しようがありません。
どこの組織や会社や団体のどこにいるかとかいうことが問題ではなく
自分というものがはっきりしていなければ、受け入れない社会を形成しています。

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そこんところが意外にも自分がなじみやすく、どっちかって言うと
クレーマーみたいに、人と違うことをひけらかして見える僕のありように向いているのかと思えてきます。
子供のころから、しきりに「センセイ」にいわれた「みんな、おトモダチになりましょう 」という言葉に
どうしても引っかかり、違和感のうちに「みんなと何でも一緒は無理やろ」と言葉を飲み込んできた自分がいます。
「仲間はずれ」とか「付き合いが悪い」果ては、大人になると持ち上がる「人並みの」という
基準が、多くの人にのしかかるのです。

ところが、彼らは必要以上に群れません・・・何かのグループに入ることに安心はしないのです。
自分の評価をまず自分でしようとするから「人並み」というものさしに意味がなくなる。
彼らは常に1対1の関係で人と対峙します。そのときに相手のキャリアや
金持ちか貧乏か、ええしの出かそうでないかとか、バックボーンの家柄も地位も
全く気にもしていません。従って「敬語」という厳密な意味での言葉もほんの少ししか存在しないのです。
老いも若きもその点で場面場面では対等であるかのようです。
そして、そういうありようを通して自分以外の個々人を尊重し、あくまでも
人はそれぞれに違っているという前提が、特に多様な人種で構成されたオーストラリアの
現在の本質です。

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英語と日本語の会話の決定的違いは、「主語」と「述語」の明快さにあります。
僕らが普段使っている自分たちの言葉を、「翻訳」して伝えようとするときに思い知らされます。
僕らの言葉に、「主語」と「述語」があいまいで、言葉の「責任」が全く消えていることを・・・
「我々は・・・」とか「私たち日本人は・・・・」とか、ひとくくりにして言う言葉も目立ちます。
裏返して言うと、それは「私は・・・」とか「僕は・・・」という主体を隠したり、省いてしまって
結果として、「責任」や「自分なりの結論」というものを避けた言葉にしています。
中学のころに思い余ってある教師に相談を持ちかけて、どう思うかを問うた時に
多くの教師がそうであるように「先生はな・・・」と彼は切り出しました。
僕は彼自身の率直な意見や考えを聞きたかったのであって、職員室の意見が聞きたかったわけではない。
そこには、「私」という存在が見えずに、結果信頼できなかった思いがよみがえる。

福島原発の問題でも、どの連中からも発せられるコメントは、政府であろうが、東電であろうが
あってもなくてもどうでもええような「保安院」であろうが、他人事に聞こえてしまうのは
自分がどう考え、どうするかという主体的な考え方を一切排除して、責任が及ばない言葉を選んでしまうからだと思うのです。
それは、責任を回避しているどころか、責任を取らないことこそが第一義で、組織を守ることが前提で
住民に対する事柄が二の次になっているように見えて仕方ないし、
原発事故の現場の必死の声を決して代表してはいないと思えてしまう。
少なくとも英語の世界では、まずはじめに「IとかYou」を言わなければ会話になりません。
時には、攻撃的で日本語のように多様な表現がないので 言葉の端々に思いやりがかけていて、
私たちにとってはあまりにもストレート過ぎることも往々にしてあります。
たとえば料理を出されて、口にあわないときに「おいしくない」などと言われると多くの人は
気分を害してしまいますが、英語の世界にそんな遠慮はありません。
彼らは覚えたての日本語で「マズイ」 と言い切ります。


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一方、日本語で「あの人は賢いから・・・」と言えばその言葉を素直に受け取り、
その言葉に潜む日本語の裏側の「皮肉」を深読みして、感じ取るものは 少ないだろうと思います。

責任が及ばないように当たり障りのない主語のない言葉を連発するもの
その反対側で深刻な危機に際しても、依然として言葉の揚げ足をとろうと思うもの
挙句の果てに、政治ごっこに引きずり込んで、
今何をすべきかを完全に見失ったこの国の政治の現状を目の当たりにして
誰に代わったところで、同じ穴のムジナと絶望感にさいなまれます。

はっきり言うことを、「煙たい」としてきた文化をしみじみ考えさせられます。
目に見えない放射能の恐怖は、最悪の事態を想定して対処すべきことなら
あらかじめさじ加減した情報など何の役に立たないどころか、むしろ恐怖に陥れます。
確かに絶対的な危機に出くわしながら、整然と対処したこの国のありようは
世界から驚嘆されましたが、ひょっとしたら本当の恐怖や現実を隠された情報であったが故に
ある意味危機感を薄められていた側面もあるんやなかろうかとさえ今は思ってしまう。

人の気持ちを思い、気遣いすることを決して否定はしないし、
それこそが育ってきた文化で大事なことやと考えるし、
何もかもオーストラリアがいいってことではない、ついこの間まで
「白豪主義」が存在し、先住民のアボリジニらは決して恵まれず、裕福な支配層のような
白人社会が一方で現存し、アジアのような有色人種の多くも冷遇されている現実はあるけど
それでも多くを感じ取ることはできる。
あっけらかんと、ありのまま伝えすぎる言葉だとしても、主語と述語のはっきりした言葉を望みたいし
人の顔色をうかがいながら、生きようを使い分けすることが、こういう時期だからこそ、賢明とは思えません。
誰かがどうしたこうしたということを気にしすぎず、誰かがどう思うかにとらわれずに
自分は自分という考えをベースに自分自身をはっきりさせて、自分自身の考えを表にする。
そうする人々を尊重し、それぞれの人格が尊重されることが望ましい。
震災という大きな危機にあって、とっくに昔とは違って家族制度を崩してしまっており
政治の崩壊で能力がないことがわかった今は、
それでも公に寄りかかるのはむなしい。今までのありようを続けていても変わりようがない。
それならばこの際、今までの殻をぶち割って、僕は生きていこうと考えます。
それがオーストラリアでの滞在を経て持ち得た僕自身の得たもののひとつだからです。


パソコンサークルの5・6月カレンダー

2011年05月06日 | パソコンサークル

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暖かくなったら、やにわに農繁期で、田んぼに畑に庭草に
お外の仕事が忙しくなりました。体いたわって、がんばってください。
ほんで、会費の件ですが・・・会員さんの休会が相次いで、少なくもなり
また一方で新規に参加された会員さんも増えましたが、
今後の経費を考えて、年間3,000円を提案させていただきます。
上記のカレンダーは5・6月のサークルのカレンダーですが
6月25日(土)はどうやら「集金常会」にかぶりそうで、日程の変更を余儀なくされそうです。
追って、この件も相談申し上げたいと考えてます。

雑感:ロイヤルウェディングで世界が華やいで、ついでに日本も一瞬ぱっと明かりが
差し込んで思えたというのに、アメリカのしでかした話に水をぶっかけられた思いがした。
確かに「ビンラディン」は、悪魔に等しい存在だったかもしれないし、
憎しみは計り知れないとは思うけど、「殺害」を伝えられて議員ともあろう者どもが
誰彼なく拍手するデリカシーのなさと傲慢さに辟易とさせられた。
アメリカの意に沿えばいいってもんやない・・・いつも「鵜呑み」にしてきたこの国のありようを
今更ながらに感じたし、何でこんな時期にこんな荒くたいことやるねんって思えた。

あの焼き肉えびすの社長・・・芝居がかって、うさんくそうて
ニュースでコメント聞くたびに耐えられんほどの「嫌気」がさす
なんで、こんな男が「社長」やってるん?って思うだけで、このチェーン店がそもそも
まともに見えないのは僕だけやろか

いつまでもへたってはおられんし、春が来た日本にいて
もうちょっと前向きの話がないと、やってられません・・・わ