富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

見上げる景色・・・縦貫道の開通と今更のサービスエリア

2015年05月16日 | Weblog

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想像力の問題ですが・・・・・・・・・
この7月には縦貫自動車道が開通し供用開始になります。
車列は遮音壁に視界が遮られながら、
この町のありようやたたずまいなど気にもとめないような速さで、
橋脚のうえや山間の高所ばかりをあっという間に通り過ぎていくのです。
・・・やがてみんなのあたまの中の地図からは、この地の地名やその位置的な情報も、薄らいでいくのでしょう。

そんな見離されて思うある種の恐怖感や切迫感にせきたてられ・・・
写真に見えるように、我々はかくも大量の土を盛って
「通り過ぎる人」のための一時的な休憩施設を作り上げ完成間近になりました。

一方で、わざわざてんこ盛りに盛った土の毎年毎時の沈下を計測し、
そのたびに特別な地盤の強化剤を注入しながら・・・・

構想の際に、気まぐれな縦貫道の通行人たちは、我々の住む場所の高さまでは、降りてはこないと、ふんだのでしょう。
こんな盛り土のてっぺんにある店頭スペースまで物売りに行くための道にもまた大量の盛り土が必要でした。
そもそも今更、京都市内から30分もかからない位置にあって、サービスエリアが
機能するのか、普段の縦貫道の利用状況を思うときにどれだけ利用者が見込まれるのか
あるいは、そのことよりも3つも現存する「道の駅」の行き先が見えているのか・・・
姿を現し始めた大げさな建物は、その疑問を倍加させる。

ここには、もうすでに景色の中に、見つけにくくなったけど
塩谷古墳群があり、かっては田園の風景に 融合して見えた古代の遺跡が・・・
今となっては盛り土の現況の一部に消え入るようにたたずみ、
かっての景観は記憶の中の話になってしまいました。
古びた郷愁や、物憂げなセンチメンタリズムでいうわけではありません・・・
道行く通り過ぎるものたちの思惑など、所詮一過性のもの・・・
我々の町の施策が こんな見慣れない場所にばかり集中して、
これをもって将来への町作りなどとでも、言われても
どう見ても、この施設は、住民のためのものではなく、「お客さま扱い」の通行人のためにある投資に過ぎないと思え、
彼らのお気に召さなければ、この図体の大きな施設の哀しい末路が見えてきます。
ここに住む人の期待は、縦貫道の開通によって、もたらされる空洞化のようなもっと足下の問題解消にあり、
トレーニングセンターもまた、自らの生活に直結して、根本の町の再生につながらないのなら
深刻に時間がこの町を時代から置き去ってしまう未来が予感されてならない。

だからこそ、僕らは僕らの手で自らの居場所を自らの手で再構築するんやと、もがこうとします。
何かを自分からしないと、自分がどこにいるのか見失いそうですから・・・


Windows Live Writer:「ひだまり」に告ぐ goo ブログの記事のコメントの許可

2014年03月04日 | Weblog

ひだまりの「コータ」、「なっちゃん」それに「マサマサ」へ
ブログの投稿について、ちょっとゆうとかなあかんことがあります。
マサマサ」が投稿した「こはちゃんのラブストーリ」に心が「ワサワサ」して、「ヒサビサ」に
コメントしてみようと思ったら、記事へのコメントができません。そこで、ぴーんと「キタキタ
たぶん、Windows Live Writer 使って、記事の投稿したんやろけど、その記事へのコメントの「許可」の
手続きせんままに投稿したんちゃうかな・・・って

都合の悪いことに初期設定のままやとgooブログへの記事の投稿は「コメント」を受け付けないようになってます
ということは、読者の直接的な反応が「マルマル」見られないことになるわけで、それもさびしい。
記事を投稿してしまった場合は、しゃーないし、「ワザワザ」gooブログの「編集」ログインして、記事の一覧から
該当の記事を探しだして、下図のように、その記事の「編集ページ」の下の方にある「コメントの設定」欄で
ガチャガチャ」と「許可する」ボタンをクリックして、次に「投稿する」ボタンを押して、記事の再投稿をせんとあきまへん!

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イチイチ」、こういうことせんとあかんのかというと、そうではなく
僕自身はずいぶん前に「コソコソ」と気がついてたんやけど・・・いうのわすれてた話があります。
WindowsLiveWriterで記事を書くときに
記事名を「チャラチャラ」入力したら、「セカセカ」とすぐに記事の内容に進んでるのが、通常と思うけど・・・その前に
ちょっと見にくいんやけど
WindowsLiveWiterの画面で、記事名の欄の右端に青字(たぶん)で「すべて表示」という文字があるので
それを「ガチャ」とクリックしてください。
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すると、下図のように「記事のプロパティ」というダイヤログが開きます。

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ここで、記事のカテゴリや、検索でヒットして欲しい「キーワード」や投稿日の設定・・・ができる。
このとき、コメント(M)という欄で「開く」を選んで
さらにFacebookなどと連動して「告知」するため、その下の「Ping」欄では「許可する」を設定しておきます。
できたら、記事を書く前にこうした設定をしておくほうがええで

こうすると、自動的に投稿した記事のコメントができるようになる。


モラルハザード:「フィッシングメール」の話

2014年03月02日 | Weblog

※この記事は、パソコンの話はちょっとだけ、相も変わらぬ身の程知らずの「政治批判」ですので
読み飛ばしていただいて、結構ですよ・・・・

 

春の陽気が感じられるようになって、ようやく暖かさとともに「季節の変わり目」を実感できるようになったと思ったら
PM2.5が中国からこの国に飛来して、先が思いやられる話が紙面におどる。
中国というモラルの欠けた国を声高に非難する人は多い。・・・・・けども・・・我が身に顧みて
放射能をまき散らしたこの国もどっちもどっちで、一方的に責任を問い詰めるモンでもない気がする。
政治は、いつの間にか「アベノミクス」というような一種の幻想におごり高ぶり、
すっかり「フクシマ」を置き去りにして、「オキナワ」に問題を押しつけて
「集団的自衛権」とか「教科書の改訂」とか、本来は国民も巻き込んでじっくり時間をかけて考えるべき話に色めき立っている。
3月11日を目前にして、改めて今の政権が何をすべきか見失っており、はっきり言って
品性そのものを疑ってしなうような人間たちを要職に就けた今の政府人事といい
馬脚を現した「底の浅さ」に、ある種の危惧さえ覚える。

とりあえず声高に自己の論理だけをいえばいいというような一元的で一方的な
雰囲気が、世の中をちんけな「右傾化」に導き、言うことすべてが「攻撃的」に聞こえてくる。
過去に縛られることは、前には進めない、けど過去を正視できなければ未来の知恵は生まれない。
お互いに対峙して、にらみ合うようなこの国といい隣国といい、今の政権はどっちもそれぞれに足りない。
ただ攻撃的な非難に明け暮れて、いかにも内向きすぎる。
図書館の「アンネの」本を破り、姿を現さない姑息な行為は、こうした流れと無縁ではない気がする。

世の中に「振り込め詐欺」の横行は、やむことがない。そして、巧妙になり組織的になったと聞く。
これらの実体は、働かず、人を欺いて金をまきあげることに希薄な罪意識しかもたない若者が多数を占めるとも聞く。
姿を見せない手口といい、明らかに人としてのモラルが欠如しており
ことさら、中国という国のありようを特別視できるほど、この国の現状は正常とはいえない。
三菱東京UFJ銀行」を騙るメールが届くことはありませんか?
システムがどうのこうのとか、あるいは被害に遭った方がいるので、セキュリティ上パスワードを変更するだとか
を促すようなもっともらしいメールが、世の中に流布しているようです。
銀行が基本的にこうしたたぐいの守られるべき「個人情報」をネットで確認することは絶対にありません。
たとえ、どれほど技術が発達しようが、ネット上のあらゆるリスクを考えた時、こんなたやすい方法を信じてはいけません。
そのメールにあるURLをクリックするとあたかも、三菱東京UFJのウェブサイトのような画面に誘導され
口座番号とパスワードを盗み取る仕掛けのようで、
見た目の巧妙さから、判別がつきにくいようです。「振り込め詐欺」もまたそういう人の心理につけ込んでいます。
こういう場合は、自分だけで判断すること処理することは絶対にしてはいけません。
大事なことを電話やメールで片付けること自体が、「あやしい」「いかがわしい」ことなのです。
こんなことを企み、人をだますことにさえ鈍感な人間たちが、進んだ技術やパソコンを操っていることが
なんとも情けなく、まさに「パソコンができる」ということ自体を
ある意味で「ろくでもないこと」とさえ、疑ってしまいたくなるような残念ながら今日の実情の一端です。

  1. 翻って、「アベノミクス」の実体はどうなんでしょう?
    政府の喧伝とは裏腹に、我々の周りに明らかな景気回復の兆しがなかなか見えずにいます。
    経済をよくはわからないままに書き込むのははばかれるけど、日銀の量的緩和とかなんとか言いながら
    結局上がったのは、外国の資本のマネーゲームの果てに「株高」だけで、実体の経済が急に成長した訳でもなく
    そのせいで大資本の一部以外は、社員の給料を上げることをためらっています。
    円安を誘導したというけども、ガソリンや灯油をはじめ、物価だけはあがったまま、
    もうあと一月足らずで「消費税」が8%に上がってしまう。駆け込みで買い焦らされる庶民を横目に
    もうけたのは、ほんの一握りの資産家でおじいちゃんの時代から政治を継いできた現在のぼんぼん政治家が
    インサイダーで儲けてるだけちゃうんかと疑いもしたくなる。
    それにもかかわらず、いかにも政策をこなした気分で政権をになう「ほんのちょっと前、平気で政権を投げ出した」
    前科者のソーリやほんの3、4年前人のかいた原稿の漢字すら読めなかった「ザイムダイジン」や
    どう見ても気味の悪いバクのような「カンジチョー」の目は、いつも上から目線で
    彼らは明らかな勘違いと思い込みとで、この国の進路を危うくしてるように見える。
    「ヤスクニ参拝」の行為を「ソーリ」がすることがどこが悪いなどとうそぶくけど、
    ほんじゃ「どこがいいのか」などと言われたら、きっと返答に詰まるのだろう。
    荒ぶれた国の有様を嘆き、政治が「美しい国を作る」などと抽象的な表現をすることも
    政治はあくまでも具体的な政策を語るのであって、人それぞれが感じる「美しさ」は人それぞれによって違うもので、
    選挙カーでただただ「よろしく」と名前を連呼し、地元の利益だけを代表してることに明け暮れて
    政治とは何をし、何を語るものなのか、なにを提示するべきかの本質を結局わかってはいない。
    まして、憲法にしろ教科書にしろ、その時々の政権側が手をつけるべきものではなく
    「主権」のある国民を普遍的に守るものとして存在しているものだと言うことは、僕らは習ってきた。

    自民党は、6割を超える議席を与えられ、国民の支持を得ているとうそぶくけど
    本当にそうなのか?あれはまず、1票の格差を解消することなく違憲状態の選挙であったと裁判所が判決を下している中で
    の結果であり、彼らのおじいちゃんのころからずっと続いてきた中での政治不信は全く払拭されてもいない。
    民主党のていたらくで、解散したあとの先の衆院選の投票率は小選挙区で59・32%。戦後最低を記録した。
    政権交代を意味する選挙であったはずなのに・・・・多くの有権者は棄権を選択している。
    その意味を、都合よく考えてみようとはしないし、国会には敗北感と身勝手な高揚感で
    野党が与党におおいになびいて見える。
    中身をみると、実情は、より鮮明になる。投票率から考えてみれば全有権者のなかで、
    小選挙区で自民党候補の名を書いたのは全有権者の約四分の一、比例代表に至っては15・99%だった。
    決して民意が反映されたとは言いがたく、彼らの身勝手な選挙の仕組みで
    自民党だけが「議席」のうえで一方的に利をえた結果に過ぎない

    彼らがおごり高ぶるほどの支持など得てはいないのだ。与党に舞い戻って
    たぶんそのことを感じるデリカシーなどさらさら持ち合わせてもいないだろう。
    近頃は何を聞いても高飛車で、優先順位そこのけで、次から次に今しなければならないわけでもない
    政策を拙速に結論づけようとしている。お友達内閣とお友達人事を繰り出して・・・・

    またまた懲りずに「河野談話」の検証するぐらいなら、地震国のこの国に原発を作り付けたこと自体の検証が先決で
    原発をメーカーと一緒になってセールスする前に「フクシマ」の検証をしなければならない。
    「教科書」を自虐的歴史と言い放つ前に、ちゃんと教科書から学ぶべきは自分自身だと自覚しなければならない。
    安っぽい右傾化の考えを持ち出すのは、自分たちが為政者の側に生まれ育ったせいで
    過去の彼らの家族が戦禍にまみれることのなかった理由からくるんと違うのかとさえ疑ってしまう。

    道を外れたジャンクメールもヘイトスピーチもどこか、根っこにかび臭いものを感じています。
    日本にとって、そこが出発点であるべき3月11日・・・・また口先だけで
    「フクシマ」の復興なくして日本の復興はないと一つ覚えをとなえて、東京オリンピックの箱物の予算付けを
    次々するのだろう。「放射能は完全にブロックされている」と嘘を言い切ったように・・・・

ブログは引っ越ししました。

2012年05月04日 | Weblog

→新「富田パソコンサークル」のブログ

文句と問い合わせいただきました・・・

このたび「富田パソコンサークル」のブログを
丸ごと引っ越ししました。
上の文字に引っ越し先のリンクがはってありますので
「上記のリンク」をクリックして、新しいブログにお越しください。
基本的に、記事は丸ごと移動してあります。

お気に入り・ブックマークの変更もお願いいたします。



 


決意:ブログの引っ越し

2012年04月28日 | Weblog

決意とか決別とか・・・それほど大げさな話ではありませんが
やりたいことに限界があったり、心機一転という意味もあり、
このたび、慣れ親しんだ「gooブログ」から、ブログ丸ごと引っ越しすることを決断し
おおかたの記事が引っ越しが出来たんですが・・・・
カテゴリーっていうのか記事の分類が未整理になってしまっています。
なんせ、1000をも超える記事の山ですので、片付けが大変で、いつ終わるともわかりません。

ただ、画像の表示などはたぶん早くなり、FC2というブログサイトにはいくつかの機能が付加されていて
サークルの会員さんに開放するなどという試みも実現できそうです。

この記事を最後に、新しい場所に移動しますので
このサイトをブックマーク・お気に入りに登録いただいている方々には
お手数ですが、下記のURLの登録を更新お願いします。

なお、記事は以前と変わりませんので、ご心配なく・・・しばらくここも閉鎖はしませんが
記事の投稿は、新しい方にするつもりです。


→ 新「富田パソコンサークルのブログ」

 

 


ひだまりスプリングコンサート

2012年04月22日 | Weblog

4月22日 天理教高原分教会で行われたひだまりのスプリングコンサートは
とてもいい雰囲気・・・で行われて、来場いただいた人たちの心に思いが届く素晴らしいイベントになりました。

ともすると「介護」の世界は、受ける側もそのサービスをする側にも寄せられる視線が特別視され
敷居の高い思いが同居しています。
けど、「ひだまり」のスタッフ全員が持つ思いとありのままに表現する思いが
すべての人に介護の重々しさを振り払うような気さえしました。
安心して、くたばれる気持ちこそが、これからの生きる手立てとさえ思えてきます。

テレビを見ても新聞を読んでも、繰り返しているのは気を重くするばかりのニュースですけども
うつむいていたらただ流されるだけ、前を向いていくと・・・こんだけ気持ちが温かくなるのなら
何かやってみようという「ひだまり」の心意気が痛快でした。

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仕事始め2012

2012年01月04日 | Weblog

仕事始めの出鼻をくじくような、この重たい雪はたぶん明日の朝にも積もって
辺り一面を白く閉じ込めそうに・・・・しんしんと降ってます。

正月早々、何なんですが・・・・テレビでも堂々と「おくりびと」を放映してるぐらいやし・・・

そのぉ、なんとなく今年に限って年の初めの変わらない賑わいに違和感を感じる正月でして・・・
とりわけ「今年は明るい、いい年に・・・」とかいうコメントやそういったアンケートに答える人たちの言葉が
素直に受け入れられない気分がどこかにあります。・・・

日本の文化って言うのか、日本人的なというのか
何となく年越しで物事を切り替えることがありがちです。
去年の暮れには「忘年会」とか年忘れって言う言葉がいかにもおかしく思えたのは
たぶん2011年3月11日から始まったすべての事柄は、いまだにその行き先も見えずに
10ヶ月が過ぎて、10ヶ月目が2012年の年の始まりだったに過ぎないと思えるからなんでしょう。
10ヶ月過ぎても変わらない現状と一方でどんなことも起こりうる現実。
忘れてはいけないこと、切り替えようのない物事があって
あの日を境に物事に対する考え方を変えないと始まらないものがある気がします。

もちろんそれを灰色にした未来ととらえることもあるでしょうが
そういうことでもなく・・・・
今まで信じてきたこと、もうちょっと言うと「信じようとしてきたこと」
見過ごしてきたことと「見ないようにしてきたこと」も含めて
もうちょっと物事に前向きに真正面から向き合っていかないと何も始まらないと思うのです。
あの日からまだ10ヶ月・・・もう10ヶ月

物事変えていかんとあかんのんとちゃうやろか・・・と仕事始めの一日です。


さらば2011・・・2012の昇り龍

2011年12月30日 | Weblog

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忘年会とか「年忘れ」というのも、もう明日まで・・・けれどもよくよく考えると
こういう習わしっていうものが、悪い癖のように思われるこの1年でした。
水に流すとか忘れてしまってはいけないことが多い一年でした。

いままで、信じてきたもの・・・今までなんとか信じようとしてきたもの・・・見ようとして見過ごしてきたもの
あるいは、わざと見てこなかったものまで全部を奪い去った気がした大津波は
かけがえのない命とともに、この国に住むものが寄りすがってきた多くのものが、もろいものだと言うことを
知らしめるように、あの日あっという間に押し寄せて、根こそぎ奪い去って行きました。

この年を忘れることはできないし、忘れてはなりません。
この年から始めることがたくさんあって、これからが本当の正念場なのかもしれません。
ここまで生きてきたもの、これから生まれてくるものすべてにとって
たとえわずかで小さくても、前に踏み出さなければ始まらないのが2012年なのだと思い知ります。

昇り龍がみんなの背中で吠え始めています。


最近のわっかりにくいコトバ

2011年10月16日 | Weblog

ネットの環境があると、ないとではずいぶん違うやろなって思うのが
ちょっと困ったり、探しもの、調べ物があったり、わからんコトバに出会ったときに、
あれやこれや本とか辞書、辞典をひっくり返してみても、とりわけ
カタカナ交じりの最近の言葉になると、分厚い大辞典にも・・・載ってないわけで
そのうちあきらめてしまうのが・・・・オチ・・・

ところがネットとなると、コチョコチョと言葉を入力して、検索ボタンを押せば、なんとか調べがついてしまう。
物事を調べる時間ってずいぶん短縮されたことに今更ながらに気づきます。
今頃になって、今更な話ですが・・・・言葉そのものをピンポイントで調べたいときは、どうしたはります・・・
Google検索の検索語のあとに「●●●●●とは」ってすると、言葉の意味を指すサイトが優先して現れますよ
・・・・とっくに知ってる・・・感じですよね・・・

☆TPP・・・ティピイピイ

Trans‐Pacific Partnership(環太平洋パートナーシップ協定)
ピイピイと・・・・腹下してるわけやないんやろけど、テレビも新聞もやたらとうるさい・・・・
明日にも決めなあかんような切羽詰まった言い方する連中も、その真向かいで目をつり上げて
「絶対に反対」と息巻く奴らもいる。けどもなかなか中身がわからへん。
協定結んでも、結ばんでも、日本はおかしくなるというどっちつかずの理屈が飛び交う・・・・けれども
政治がこういう大変革の話の前に国民に丁寧に説明する必要があるのだが、いっこうにその気配がない
ないのは、要するに政治やってる連中がどっちの側にあっても、どうやら自分たちが一番「わかっていない」ようで
彼らがいっかどいってる話は、彼らの後ろ盾につつかれてしゃべってるそれぞれの利益団体の代弁に過ぎない。
わかってない連中が話を進めるほど、いい加減な話もないけど・・・聞けばアメリカの圧力だという。
時代の変わり目に立っていながら何とも貧相なはなしで、心許なく頼りない。
「ティピイピイ」は、その程度のことしかわかっていない、どうにも値打ちのない
国会議員とかいう連中に発せられたイエローカードの笛の音に聞こえてくる。

☆ストロンチウム

マイクロシーベルトとかミリシーベルトとかまるで音楽室の壁に貼ってあった昔の音楽家でもあるまいし
初めて耳にした放射線量の単位やと聞かされ、それがどれほどの単位かもわからんままに報告されるものの
線量が増えたの減ったのと振り回され続けたこの7ヶ月、原発協議のやらせメールに至るまで僕らが教えられた情報は
ほんまに正しいのか、未だに真実を語っているのか・・・疑いは晴れない
電力会社の都合のよい情報ばっかりで、心底から信じられへんし正直「放射能汚染」の奥深さに、よりどころがない。
見えないチリのような悪魔の汚染は果たして、「除染」程度のことで片付くのかというとそれも実は怪しい
まして、よく聞かされたセシウムというのは、人間が感知しやすい放射能であって、本当に恐ろしいのが
このストロンチウム・・・カルシウムに似た性質があり、体内に入るとカルシウムと間違って骨に取り込まれやすく、
骨に入り込んだら最後、体内で放射線を出し続け、やがては骨のがんや白血病の原因になる恐れがあるとされる。
これが横浜で検知されたと聞く・・・それはあの水素爆発の時に発せられたものだ・・・だとすればその情報はどこに置き去りにされているのだろう。
今頃になって、さらすような情報ではない。どこまで深刻なのかと、また途方に暮れる。

☆スマホ

スマートフォンの普及は我々の生活を一変させるかもしれない。
あまりの進化に「もうついて行けへん」と嘆く年配者の声がする・・・・けれど実はスマホは
年寄りにこそ、大きな効果を発揮すると予測する・・・・パソコンのキーボードで四苦八苦され
やたらと英語混じりの用語について行けず多くの決まり事に悩まされ続けた世代は
スマホの使い勝手に開放されるに違いない。すべてをタッチパネルで解決できるし見た目で操作できる機能と
パソコンを超える持ち運び良さ、多機能ぶりは携帯電話という枠どころか、パソコンとかデジタル機器を
凌駕して、必ず取って代わるに違いない・・・・スマホは、老後の生活を便利に彩る決め手のツールになるだろう。
そして、公民館のFreespotが間違いなく重宝する日が近い


最近の「コトバ」

2011年09月11日 | Weblog

「コンプライアンス」・・・

それほど、日本人の中でこなれてはいないはずのこの外来語の直訳は「法令遵守」であり
法外な利息を取り立てていた消費者金融がばたばたと倒れ始める前にしきりに口にしていた言葉でした。
ただ法令を守るという意味だけではなく、企業や公的な立場にあるもののがとるべき「倫理」までもを指し示しています。
このほど、一人のタレントがテレビの前から去りました。
彼のことを才能アルタレントであるとか、言葉の天才などと持ち上げて、その引退を惜しむ声すらありますが
やくざや暴力団は法外の行為をはばからない集団であり、不当な利益のために何でもするでしょう。
その集団とつながりを持つことだけでも彼がおおやけにテレビで話す資格を持ち合わせてはいなかったし
彼がそういう連中に媚をうり、彼らの存在を肯定し彼らが「助けてくれた」と言うのなら
彼らの行為にも荷担していたことは事実である。
彼がいっかどそうに、テレビで説いて見せたこと、美談ですら「見せかけ」に過ぎないことを意味しています。
その種の団体は、「ボランティア」と真逆にあって、法外の利益に動く反社会的集団です。
そういう連中に「顔が利く」などという虎の衣を振りかざしていたのでしょうが・・・
「その程度」の見識しかなかったことが、情けない。
彼が関わりをもったことで、我々には直接見えなくてもヤクザに「見返り」が与えられたことは容易に想像がつく・・・・
テレビの中の世界すら、やっぱり闇の世界と結びつけた罪は相当に重い。
テレビはあの「なでしこ」の活躍をも映し出す、社会に開いた窓である。
彼は「この程度」のことで「引退する」のではなく、コンプライアンスに反してその責任から当然退場させられ
罪の深さに悔いるべき立場にあると断じる。

「引責辞任」・・・

またまた「ハチロなにがし」かの経産相が就任直後に「死のまち」だとか「放射能をうつす」などという
軽々しくも情けない見識の発言からやめる羽目になったと・・・マスコミはやかましい。
あいかわらず些末な話に多くの人々は「またか」と落胆してしまう。
もうこんな話は懲りたはずやし、ええ加減いやになる・・・マスコミの焦点がそこに集まるほど
国の行政もなにもかも停滞する。・・・見過ごせる話やないけど、この手の話は聞き飽きてしまった自分らがカナシイ
外務大臣の発言も大差なかった・・・「踏まれても蹴られても誠心誠意沖縄と向かい合っていく」
踏まれて蹴られているのは、どっちだという認識と
あくまでも「沖縄」とは対峙する側に立っている外務大臣は「沖縄」をどうとらえているのか?
日本の向こうに感じているように思えるのは僕だけだろうか・・・
県民の「基地をなくしてほしい」という「コトバ」を踏んだり蹴ったりしているととらえているのか・・・
言葉尻をとらえていたらキリがない・・・結果些末な問題に時間をとられて何も進まないのがオチだ・・・

そもそも「この程度」の見識で大臣になれることが間違っている。
彼はその失言から責任をとって、辞任するという。・・・・失言と言うよりも議員としての見識がない
見識のなさから来る、彼にとっては「当たり前」の発言にも見える。
もしもいっかど「責任」という言葉を軽々しく使うのなら、とっとと国会議員をやめてしかるべき「発言」であると思う。
増税を議論する前に、議員を徹底的に減らすことの方が急務にも思えてくる。

「被災地」・・・

東北の震災からもう半年が過ぎようとしている。遅々として進まない「復旧」から
その先にある「復興」のかけらも見ることができないまま「被災地」の秋が訪れようとしている。
国の先端で行政を行うもの、政治家や官僚の顔が見えずに、その責任を実感しているものは皆無に等しい
東電に至るまでとるべき責任のありどころにいるものすべて、あちこちに視線を向けて、よそ見を装って見えてくる。
そうした中で、豪雨にさいなまれた紀伊山地の惨状は、半年前にテレビで目撃した「大津波」に匹敵していて
コトバを呑み込む・・・・「この程度」の行政で対応できるのか・・・・
災害は場所を特定しない。今「被災地」とはどこを指すのか、東北や紀伊半島
国中に「被災した」地が広がっていくようにさえ感じられる。
予想に反して、被害の出なかったこの地で胸をなで下ろすどころか、「明日は我が身」を心底思う。
国の根幹が揺らいでいるときの大災害は、経済を壊し、社会に危機をもたらしている。
本来なら半年くれた「被災地」に復興需要があって、雇用が生まれ、前を向いていなければいけない時だったはず・・・・
深層崩壊したのは山の斜面ばかりではなく、国の根幹にもアルのではないか・・・


言えたもんやない気がする。

2011年07月30日 | Weblog

中国の高速鉄道の事故は、「あり得ない」人災であり、その後の対応や
当局の処理にしろ、マスコミへの統制、あろう事か遺族に対する圧力など
一党独裁の閉鎖的体質と危うさは、世界第二の経済大国にして無残な話である。

原発によってもたらされた最悪の渦中にあるこの国でも
毎日、繰り広げられる行政や政治の失態に国力そのものを非力に感じて
沈んで思える・・・・それを「なでしこ」が救い、少し前向きに顔上げたタイミングでの
この事故・・・「新幹線」を我が物顔に国産と言い放った中国の事故を 日本のテレビでは、
「我が国では考えられないことだ」と言い張る「専門家」がニュースで論評する。
それは、自分らのことを棚に上げて、これ見よがしに責め立てて気安めしてるようにも見える。

ひるがえって、我が国の話になると、今度の保安院の「やらせ」の仕込みの話には・・・・言葉が見あたらない・・・
あわせて佐賀県知事の言動は、彼が否定するほど保安院の本質と違っているとは思えない。
「おまえもか・・・」と脱力感ばかりがおおう。どっちを向いてるのかはっきりした。
彼らにはよほど組織が大事であって、守るべきは「組織の論理」であって
彼らの意識にある「住民」とか「市民」というのは、組織に対する単なる「相手」でしかない・・・

人類的危機でもある原発事故を今を持っても終息の期を示せない・・・それどころか
その当の本人の一員であるはずの「保安院」の意識と見識にあきれ果てる
物事の本質に至ることでさえ、平気で「作ろう」とする組織の体質が厳然とあって
未曾有の危機の際に、そんな彼らのコメントの何を信じられるというのだろうか・・・
それがそもそもこの国の行政のありようであり、政治の立ち位置だとするのなら
「民意」などと言うのは、かき消されていて単なる建前の言葉でしかない。
共産主義であろうと、無かろうとどこかで同じことをやってる気がしてならない。

・・・・えらそうに、中国のことを言えたもんやない気がする
ええ加減な「民主主義」がこの国にあって、原発にしろ大津波にしろ
この震災を3ヶ月半をすぎてなお、全く手がつけられていないし
多くの絶望を救うこともできないでいる。 税金をむさぼるけれども
「おかみ」は、民のために働くものではないのだろうか・・・
ここに至ってやたらと「国は・・・」とか「国としてもお金を・・・」と口にする
税金を納めるものにとって、「国」は預け先の呼び名でしかない
けれども多くの政治家や官僚はまるで、「国」という組織があって、「国」という名の
財源は「国」という名の組織の金だと大いに誤解している。困窮するものに
すぐに手わたるべき納税者のお金を、ふところ深く持ち逃げしようとしているのは、誰なのか・・・

ここに、その衝撃のあまり、ネット上で見つけながらずっとパソコンにしまっておいた一枚の写真がある。
沿岸の松原を遙かに超えるほどの大津波が 集落に迫り来る瞬間をとらえて、その恐怖は計り知れないし
どれほどの命をいともかんたんに呑み込んだかを思うときに、言葉もない・・・
自分への戒めとこれからの警鐘として、あえてこの時期にこのブログでの
公開をしたいと思う。・・・自分がしっかりしていないと自分たちが守れない・・・

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今更、今頃、今になっても・・・オーストラリア紀行

2011年05月21日 | Weblog

Sydney Pano

豪州訪問から帰ってから、もう2ヶ月半が過ぎても「震災」のその後の状況は、
とりわけ原発の問題は、身勝手な情報操作もあって、より見通しが暗くなり
進展どころか、深刻さは日に日に増しているのではないかという思いが募ります。
いとも軽々に「メルトダウンというのなら、それで結構です。」などと記者会見でいまさら
よくもいえたものだと情けなかった。メルトダウンとは、原子炉の破壊と再臨界につながるもので
「チャイナシンドローム」の恐怖を現実のものにする言葉であり
あまりにもいい加減な見通しと甘い想定、この期に及んでの覚悟のなさと他人事のような
あしらいに、嫌悪感を感じる・・・あとの3つの原子炉も同じだとすれば
今横たわる危機は一基の原子炉が崩壊したチェルノブイリの4倍に相当するのではないのか・・・
本当のことを知りたいのは、意味もなく同心円で囲われた避難区域の住民だけではない。

その上で、今更オーストラリア紀行なんていうたぐいの記事もないのですが
思い立って書きためていた草稿を起こしてみました。

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大陸の地にたっていることで、直感的に何が違うのかと言えば、それは目に入る「景色」なんかもしれません。
そのことの善し悪しの問題でもなく、オーストラリアで見る景色のどれもがパノラマのように
見渡す限り、はるか遠くまで広がっていて、大きな景色を目にするたびに深呼吸させられるほどです。
この大陸に暮らすものの多くがこの雄大な眺望を求めて暮らしているようにも思えます。
そこには、ただ雄大に繰り返す大きな自然のダイナミズムが存在があり、その大きさに畏敬の念を抱いているのです。

対して、日本に暮らしに寄り添う景色は、そこに山があり、家並みがあり、切り取った「箱庭」のように
存在していて、その中で繰り広げられる季節の移ろいを愛でて、味わいを求める暮らしぶりがあります。
スケールは小さいけれど、その分きめ細やかな変化を見てとり暮らし向きに取り入れてきました。

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いいか悪いかの話やないんやけども、どうしたってそういう環境では、僕らは
自分以外の他人と肩があたるほどにせまっくるしくて、人とこすれあって、
人の顔色をうかがう生活になりがちです。誰かと同調することを求められもします。
職場であれ、住まいの近くであっても人の気に障るとたちまち息苦しさに包まれもします。
むしろ、それが故に微妙な言い回しや心の揺れ動きを映すようなきめ細やかな文化も生まれてきました。
その点、大陸に住んで暮らすと目に入る景色に比べて自分自身の大きさがあまりにも
小さくて、人との関わりなど第二義的な問題で、むしろ一人一人が独立して
どう強く生きるかを問われてくるようです。従って誰かと同じなどという考えすら存在しようがありません。
どこの組織や会社や団体のどこにいるかとかいうことが問題ではなく
自分というものがはっきりしていなければ、受け入れない社会を形成しています。

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そこんところが意外にも自分がなじみやすく、どっちかって言うと
クレーマーみたいに、人と違うことをひけらかして見える僕のありように向いているのかと思えてきます。
子供のころから、しきりに「センセイ」にいわれた「みんな、おトモダチになりましょう 」という言葉に
どうしても引っかかり、違和感のうちに「みんなと何でも一緒は無理やろ」と言葉を飲み込んできた自分がいます。
「仲間はずれ」とか「付き合いが悪い」果ては、大人になると持ち上がる「人並みの」という
基準が、多くの人にのしかかるのです。

ところが、彼らは必要以上に群れません・・・何かのグループに入ることに安心はしないのです。
自分の評価をまず自分でしようとするから「人並み」というものさしに意味がなくなる。
彼らは常に1対1の関係で人と対峙します。そのときに相手のキャリアや
金持ちか貧乏か、ええしの出かそうでないかとか、バックボーンの家柄も地位も
全く気にもしていません。従って「敬語」という厳密な意味での言葉もほんの少ししか存在しないのです。
老いも若きもその点で場面場面では対等であるかのようです。
そして、そういうありようを通して自分以外の個々人を尊重し、あくまでも
人はそれぞれに違っているという前提が、特に多様な人種で構成されたオーストラリアの
現在の本質です。

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英語と日本語の会話の決定的違いは、「主語」と「述語」の明快さにあります。
僕らが普段使っている自分たちの言葉を、「翻訳」して伝えようとするときに思い知らされます。
僕らの言葉に、「主語」と「述語」があいまいで、言葉の「責任」が全く消えていることを・・・
「我々は・・・」とか「私たち日本人は・・・・」とか、ひとくくりにして言う言葉も目立ちます。
裏返して言うと、それは「私は・・・」とか「僕は・・・」という主体を隠したり、省いてしまって
結果として、「責任」や「自分なりの結論」というものを避けた言葉にしています。
中学のころに思い余ってある教師に相談を持ちかけて、どう思うかを問うた時に
多くの教師がそうであるように「先生はな・・・」と彼は切り出しました。
僕は彼自身の率直な意見や考えを聞きたかったのであって、職員室の意見が聞きたかったわけではない。
そこには、「私」という存在が見えずに、結果信頼できなかった思いがよみがえる。

福島原発の問題でも、どの連中からも発せられるコメントは、政府であろうが、東電であろうが
あってもなくてもどうでもええような「保安院」であろうが、他人事に聞こえてしまうのは
自分がどう考え、どうするかという主体的な考え方を一切排除して、責任が及ばない言葉を選んでしまうからだと思うのです。
それは、責任を回避しているどころか、責任を取らないことこそが第一義で、組織を守ることが前提で
住民に対する事柄が二の次になっているように見えて仕方ないし、
原発事故の現場の必死の声を決して代表してはいないと思えてしまう。
少なくとも英語の世界では、まずはじめに「IとかYou」を言わなければ会話になりません。
時には、攻撃的で日本語のように多様な表現がないので 言葉の端々に思いやりがかけていて、
私たちにとってはあまりにもストレート過ぎることも往々にしてあります。
たとえば料理を出されて、口にあわないときに「おいしくない」などと言われると多くの人は
気分を害してしまいますが、英語の世界にそんな遠慮はありません。
彼らは覚えたての日本語で「マズイ」 と言い切ります。


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一方、日本語で「あの人は賢いから・・・」と言えばその言葉を素直に受け取り、
その言葉に潜む日本語の裏側の「皮肉」を深読みして、感じ取るものは 少ないだろうと思います。

責任が及ばないように当たり障りのない主語のない言葉を連発するもの
その反対側で深刻な危機に際しても、依然として言葉の揚げ足をとろうと思うもの
挙句の果てに、政治ごっこに引きずり込んで、
今何をすべきかを完全に見失ったこの国の政治の現状を目の当たりにして
誰に代わったところで、同じ穴のムジナと絶望感にさいなまれます。

はっきり言うことを、「煙たい」としてきた文化をしみじみ考えさせられます。
目に見えない放射能の恐怖は、最悪の事態を想定して対処すべきことなら
あらかじめさじ加減した情報など何の役に立たないどころか、むしろ恐怖に陥れます。
確かに絶対的な危機に出くわしながら、整然と対処したこの国のありようは
世界から驚嘆されましたが、ひょっとしたら本当の恐怖や現実を隠された情報であったが故に
ある意味危機感を薄められていた側面もあるんやなかろうかとさえ今は思ってしまう。

人の気持ちを思い、気遣いすることを決して否定はしないし、
それこそが育ってきた文化で大事なことやと考えるし、
何もかもオーストラリアがいいってことではない、ついこの間まで
「白豪主義」が存在し、先住民のアボリジニらは決して恵まれず、裕福な支配層のような
白人社会が一方で現存し、アジアのような有色人種の多くも冷遇されている現実はあるけど
それでも多くを感じ取ることはできる。
あっけらかんと、ありのまま伝えすぎる言葉だとしても、主語と述語のはっきりした言葉を望みたいし
人の顔色をうかがいながら、生きようを使い分けすることが、こういう時期だからこそ、賢明とは思えません。
誰かがどうしたこうしたということを気にしすぎず、誰かがどう思うかにとらわれずに
自分は自分という考えをベースに自分自身をはっきりさせて、自分自身の考えを表にする。
そうする人々を尊重し、それぞれの人格が尊重されることが望ましい。
震災という大きな危機にあって、とっくに昔とは違って家族制度を崩してしまっており
政治の崩壊で能力がないことがわかった今は、
それでも公に寄りかかるのはむなしい。今までのありようを続けていても変わりようがない。
それならばこの際、今までの殻をぶち割って、僕は生きていこうと考えます。
それがオーストラリアでの滞在を経て持ち得た僕自身の得たもののひとつだからです。


Special Wedding(スペシャルなウェディング)

2011年04月30日 | Weblog

Will&Kate のRoyal Wedding(ロイヤルウエディング)で
世界が華やいだ一日。
「ロイヤル」を垣間見て、それはそれはスペシャルな
MichaelとElizabethの結婚式を思い出し、その場に立ち会えた興奮と
すばらしい感動がもう早ひとつき前にもなるのに、僕の心に鮮やかに甦りました。
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「ウェストミンスター」ではなかったけれど、シドニーの閑静な場所にある教会は
清楚に白くたたずみ、ただそれだけで心洗われる雰囲気に包まれていました。
ブライドの明るい笑顔、迎えるグルームの優しいまなざし
それはどこかで見た映画そのものに思えて、心がふわっと浮き上がって
その場の雰囲気と儀式の荘厳さに酔うように包まれていた気がします。
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思えば、マイケルが我が家に来たときそれは17年も前の話ですが・・・
出会った瞬間には、お互いの文化の違いに戸惑いながらも(カルチャーショック)
あっという間にその距離を縮めて、心から通じ合えるのに、それほどの時間はかかりませんでした。
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当時15歳だった彼から、僕自身は多くのことを学び、考え方において
一つの転機になるヒントを与えてくれたような気がします。
マイケル以前の僕と、マイケル後の僕は、家族もそうであるように
大きく違った気がします。
人に比べて自分を見るのではなく、自分をちゃんと見つめて
ただ、自分自身のベストを尽くすというあり方は、今僕の気持ちの大部分を占めています。
ともすれば、あの人はどうのこうのと、ちいさく仕切った世間という器のなかに
人も自分も閉じ込めて、物事を推し量るありようは、窮屈でやがて息苦しくなります。
人は違って当たり前で、そのことを自覚すれば、自分自身を大事に思い
自分以外の人格も物差しなしにちゃんと見つめ尊重できるのです。
どうやらそれまでの僕は「・・・あの人しっかりしたはるわ・・・」などという表も裏側もある
どうでもええような言葉につきまとわれかけていましたが、マイケル後に
そんなことがどうでも良くなった自分を取り戻した気がします。
人が自分を評価するのではなく、自分を評価するのは自分自身なのです。
人がどう見るのかということに気をとられる人は、その時点で自分を見失いがちです。
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マイケルは、遠く離れたお互いの家族の架け橋にもなりました。
僕らの子供達とマイケル達の兄妹達はまるで家族のように交流でき
掛け値なしに、僕らにとって、マイケルの両親であるIanとGeniaは心から通じ合える親友です。
今度の結婚は、マイケルへの祝福というのが大前提でしたが
彼らの喜びを、彼らと共に同じ空間で共有できたことが何よりの喜びでした。
彼らと過ごした数日は、かけがえのないすばらしい時間となり、
彼らの暮らし方、彼らの生き方にはいつも素敵な印象持つことができ、
自分たちにとって大きな刺激にもなり、尊敬に値します。
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なかなか立ち上がれないほどの大災害に見舞われ、被災地のみならず
僕らも、ある意味津波をかぶったように、先を見失っています。
今まで、物にあふれた生活に便利ばかりを貪ってきて、その消費によって
経済を支えてきたと今更ながらに振り返る・・・何もかも失ってなお、
みんなが「物を買おう」と口をそろえる・・・
まるで、物を消費することが豊かな生活 の本質だとでも言いたげに・・・
物にあふれた時を取り戻すことが「幸せなこと」の形だとも言いたげに・・・・
唯一無二の被爆国でありながら、便利と裏腹の浪費の挙句に多くの原発を
地震の巣の海沿いに、国策としておびただしく建設し続けた経緯が現実としてある。
どうやら巨大地震と大津波によって、そのパンドラの箱がひっくり返って
どうもしようのない暗雲がこの国にたちこめていて、晴れ間が見えないでいる。
それでも、物を買うことで救われると念を押すセリフがテレビに飛び交う。
それしかないのか・・・となぜか立ち止まりたくもなる。
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彼らの生活に触れて直感的に思うこと、それは家の中に物が少なくて
必要なものを最小限にしていて、けれども一つ一つに意味を持たせていること。
いずれ必要などといって買い置きすることは、一週間分の食べ物以外に見あたらない。
物がないことが貧しく見えないし、むしろ豊かに暮らしが彩られて見える。
今自分にふさわしいものが、基準となって生活を演出する。
決してあれもこれもと飾り立てず、いい物を自分にふさわしい物だけを手に入れて
自分らしさを演出することを忘れず、ナチュラルでいて
それが美しい・・・・・

あっという間に大津波に襲われて、家族の命も家も家財すべてを失って
途方に暮れる・・・失ったものは何なのか、
再生すべきものは、何なのか・・・そう思うときに
僕らが「物を買う」ことで得られるものがすべてではないと思えてくる。

僕がオーストラリアの友人達の暮らしに触れて、見たものに答えがあるような気がしてならない。


国難・・・・・一部チェーンメールに関して訂正します。

2011年03月14日 | Weblog

我々は、今までもそして願わくばこれから先も見ることのない光景を
テレビを通して、毎日毎秒目にして、全身が震えてくる寒気を覚えてしまう。
1995年の1月の阪神・淡路大震災に続いて17年しか経たないうちに
未曾有の震災に見舞われた・・・思えばあの日を境に、国の形の一部が壊れ始め
今に至る沈滞が始まったことを今更ながらに実感して、途方に暮れる被災者の心に共鳴する。
これは、ある種、この国が抱える第二次世界大戦の敗戦までに至った戦禍に等しい「国難」だと実感もする。
想像を絶する大津波に蹂躙された入り江の町という町は、なすすべもなく泥の下に沈みこみ
人々の生活のあらゆるもの、生きる証をすべて奪われた現実は
そこに住む人たちが、これほどの仕打ちを受ける理由もなく
漁業を中心にこの国を支えてきた人たちであることを思うと
悲しさはむしろ自分のことと思わなければならない。

電気がない事情は携帯の充電を不能にして、ケーブルの断線は情報を遮断している。
空撮して映し出す映像は、無残さ際立たせるけどもその一方で、ただ「SOS」の文字を
報道するだけで、そこにヘリをを飛ばす意味を持つのかと思わせて、歯がゆい
一万人をはるかに超える行方不明の現実は、神が与えた試練ならば、あまりにもむごい。

原発の放射能漏れとメルトダウンの恐怖は、世界中の目が注がれ
もはや人類の危機として世界からはとらえられ始めている。
どの国の新聞やメディアのトップを占めるのは、放射能の除染をする写真であり
原発の処置や放射能汚染の行方と情報に多くの紙面をさいています。

正確な情報と正確な意思表示、迅速な対処が着の身着のまま命からがら逃げ延びた人の
心にせめて伝わるだろう。
この国難に対して、一人一人が何ができるのか
我々が乗り越えることができるのか・・・日本中の誰にも与えられた試練だと思う

※こうした状況にあるにもかかわらず、とりわけネットや携帯を通じて
様々なチェーンメールやある種の不安をあおるデマが飛び交っていると聞きます。
阪神の時にも経験したこうした不正確な情報は、時に懸命な救難・復旧の作業に支障を及ぼします。
冷静に対処しましょう。
名前や機関を名乗らない寄付の呼びかけは、被災者に届く保証がありません。
節電の呼びかけも、残念ながら西日本と東日本の電気の周波数が60/50HZの違いがあることから
送電するには、まずこの周波数の変換をかけなければならず
たとえフル稼働して変換できたとしても、せいぜい原発一基分に過ぎないもどかしい現実があるのです。
実は、テレビで呼びかけない理由がそこにあるのです。
まずこうした話を自治体や関電のはっきりしたパブリックコメントがないことにも思いをはせて
一旦冷静になって、署名がないメールを転送する際には、自分だけではなく多くのメールアドレスを公開することに
対処しなければなりません。チェーンメールはやがて、メールサーバーに障害を及ぼし
結果として、携帯のつながりにくさを助長し、被災地の情報をますます孤立化させてしまいます。
「節電・節約」は、国難を前にしている今は、取り立てて伝言しあわずとも各自が自覚しているありようです。
ただ、送電がかなわない事実は事実として受け止めて、手の届かない現実を直視しなければなりません。

※自分自身が7通のチェーンメールを受信したのが夜中の3時、
地震の起こった夜に東京の娘となかなか連絡もつかず、イライラしながら、もどかしく夜を過ごしました。
そのうえ原発の臨界を心配している折、
何事かしらと飛び起きてメールを開いてみました。同じような内容のメールに、眠さもあって憤慨したものです。
関電や自治体のパブリックコメントがあってしかるべき内容のメールが名前の記載のない
メールとして送られ続けていること、そしてすこしずつ内容に手が加わって、変形し始めていることに・・・・
僕宛に転送してくれた人は、それぞれ善意の人で、この大震災を心底深刻に受け止められる人たちです。
何もできない歯がゆさを僕と共有する人たちだとも理解できます。だからこそ、こうしてチェーンメールを信じて送ってくれたものと思います。
けれども僕に届くのさえ数時間かかってしまったのです。人の善意に乗じて、結果的に弊害を引き起こしました。
想像すると一人が何人かに送り、送られた人がまた数人に送るそれを繰り返すだけで
あっという間に広がり、サーバーに支障を来します。金曜の地震の夜のように・・・・

そういう理由でこうした問題もこの記事にもして、「発信元」の安直な姿勢に警告したつもりですが
僕の書いた内容に対して、送ってくれた大切な友達に「傷ついた」というコメントが寄せられました。
思い上がって自分の意見を押しつけるなと言う指摘も受けました。
確かに一方的な書きようが傷つけるに至ったことと、善意をアタマから否定するような言い方も僕自身の姿勢の誤りです。
改めて、こんな言い訳を書き添えて、深謝したいと思います。
無論、傷つけたことが、それほど簡単に修復はできないとも思います。・・・・
・・・・こうしたことになってしまうことも、メール文化の中の「チェーンメール」のある意味で弊害だと身にしみます。
関電サイト  

チェーンメールについて

東京などの関東圏では電力不足で「輪番停電」という緊急措置がとられます。
それは誰も経験したことのない計画停電です。まさにオール電化で、電気万能のこの時代に
あらゆるものに大きな影響を与えるでしょう。関西に住む我々が他山の石とするのなら
国力をそいでしまうでしょう。原子炉のメルトダウンの危機は刻々と増しても思え
事態は深刻です。

身に起こった国難に自分がどうしていくか考えないと、自分だけではなく自分の子供達の
未来をふさぐことになりかねません。
阪神の際に、教えられた「まず自助・次に共助・そして公助=7:2:1」という災難に対する
対処の考え方があります。
自分を守るのはまず7割が自分であり、次に惜しみなく助け合い、その上で公助を期待するのです。
この国難を自分事に考えるとき、一人一人が自分を強くすることが
ある意味での答えであるのかもしれません。


どこ見て、何をしてるつもり?

2011年03月06日 | Weblog

明けてもくれても、誰かの揚げ足とりばかりで、
重箱のはしをつつく、政治家同士のありようは、与党も野党も見ていていやになる。
民主党の未熟さを、さもわかったように小突き続けることに終始する自民党の残党も
どれもコレも、二世の議員で、ここに至った政治の体たらくは
そもそも自分たちの存在や自分たちの前世代のせいだという自覚もないのだろうか・・・
いちいちわかったような言葉にされると、かんに障って不快感が増してくる。
政権交代することが、今の自民党に戻ることなら、元も子もないのに・・・・
民主党も政権につく前の勇ましい論理もまったく、付け焼き刃で
どう見ても旧態依然たる政治屋にすぎないオザワなるものの始末さえ、ろくに自分でできないでいる。
未熟と言うことと、勉強不足は甚だしく、期待を完全に裏切っている。

だから置き去りにされた国民は、いっそ全部を解散させて、いまある国会を構成するものすべてを
できれば総入れ替えしたいとさえ思えてしまうのだ。
いっそ、コストに見合わない政治なんてものこそ置き去りにしたいと思えもする。
芸人崩れのソノマンマとか居酒屋の大将が自分らの政治レベルが同じかそれ以上のレベルだと
思い込むほど、幼稚すぎるし、軽すぎる。

予算を決めるこの時期に誰かの政治献金の出先をとやかく言い合って、政策を置き去りにする 余裕もくそもない・・・
今時政治家になろうとしたものがそれほど高潔で立派な人だと国民は誰一人思ってないし
政治してる人みたいに、高給とっていながらそんなことばかり言い合うほど
今は平和ではないことを国民は実感してるし、のんきに暮らしてるわけでもない。
ままごとみたいな政治のおかげで、世界の潮流に遅れ、相手にもしてもらえず
自慢の経済も逼迫して、あげくに生活の水準を押し下げられ、領土も取り返しもかなわないどころか
浸食もされかけていて、手も足も出ない。
福祉をいうもの達の、年収はどうなのだろう・・・いっかど理念を口にしながらも
彼ら自身の豊なくらしに、将来の不安などかけらもなくて、結局他人事にむなしく聞こえて届かない・・・

どこを見て、何をすべきかをまともに考えられるものは一人もいないのか・・・
何百人もの国会議員を作り出しながら、これほどの無駄もない。
在日の外国人から献金うけたマエハラをさして、こういうことを許すと「国益」を損なう?
機能しない国会そのものが、国益に反していルのではないのだろうか・・・
それをいっかど潔く辞めることで責任をとるのなら
本筋としては、国会議員そのものを辞めてしかるべきものだと思う。
・・・それとも言い訳ばかりに明け暮れる政権がいやになって、離脱することが目的やと勘ぐりたくもなる。
もうええ加減にしとかんとあきまへんで・・・どいつもこいつも
チュニジアやらエジプトやら、リビアの反動が他人事やない・・・
北朝鮮や中国の体制を批判するのも勝手やけど、この国の政治も貧しい状況です。

ナントカ仕分けも結構やけど、政治の中身をまず仕分けして
役にも立たない「議員」という数を徹底的に減らした後、仕分けする役目を認めてもらった上で
ようやく「仕分け」という意味が飲み込める。
何をエラそうに言ったところで、手元や足下ばっかりみてるものに
何が無駄か何をすべきかわかるはずないやん・・・レンホウさん・・・