富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

これで最後のサッカーコラム(1):日本完敗

2014年06月29日 | サッカー

ぐうの音も出ないとは、こういう状況を言うのだろう。    テレビを始めあらゆるメディアを通じて
あおりにあおりたてた「サムライブルー」は、世界のサッカーの前に全く歯が立たずにあっけなくブラジルをあとにした。
戦いそのものは、この国で、いっかどそうにサッカーを語ることも気はずかしくなるほど、世界のレベルとはあまりにも違いすぎた。

・・・そのためにもうサッカーのことを記事にするのは、これで終わろうとおもう。 
自分の知ってると思っていることもまた同じように「井の中の蛙」の戯言にしかないと思い知らされたから・・・

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すべての言い訳は、結果の前にむなしい。
多くの反省の弁から「自分たちらしいサッカーができなかった」というものの、
では僕らが自分たちのサッカーがどんなものかと言えるほど
僕らは代表の試合からそれを一度もはっきりとは、見たこともない気がする。
中には選手の一人のコメントに「記録のためにゴールキーパーの交代したことは屈辱的だった」というのもあったけども・・・・
振り返ってみれば、そういえるほどの 自分たちの側にそれだけのスキルがあったのかというと、今となっては身の程を知らない話だと思う。
あの程度の守備を相手に決勝トーナメントのシュミレーションにもならなかったわけで
逆にコロンビアの側に言い返されても仕方ないほどの レベルでしかなかったことは、映像が物語っていた・・・・・    
攻撃は通じなかったし、守備は情けないほどに遅くてもろかった。

所詮は、大手スポーツブランドのサッカービジネスによって、日本の「作られたスター」はいずれもあの程度だったか・・・
ミランの10番も、マンUのユニフォームも結局こうしたビジネスライクのセールスパフォーマンスだったことに気づく。
彼らが今は、クラブではベンチにいることの意味を納得する。

胸筋も体格も違う。突破するときのスピード、スピードに乗りながら止まらないステップとドリブル、
選手のすべてが局面ごとに共有できるパス。
正確なシュート、パワーにあふれたミドルシュート、守備と攻撃が一体化したアグレッシブな本当の意味での連動
想像力 メンタルの強さ、瞬時の判断力と沈着さ、自立した個の力・・・・どこにも比べるものなどなかった気さえしてくる。
パスは、常にただ放たれているだけの無責任な球離れにさえ見えた。
コロンビアの戦い方は、我々が見てきた「日本代表」の「自分らしさ」などと言う思い込みごと、すべてを粉砕した。

体育の延長線上のサッカー・・・わかったような顔して解説する、かっての実業団世代の信じて疑わない
システムという名の「サッカーの教則本」、おもしろさと相容れない大学スポーツの決まり事のようなサッカー
サッカーのおもしろさを知らない旧世代の仕切るサッカー協会
基礎とか言いながら、スポーツの精神の基礎をまだわかっていない育成という名の押しつけ
・・・一から作り直さねばならないものがいっぱいある。

長らく高い壁だった「アジア予選」をカズやラモスによって、ようやく突き抜けるメドがたったこの国のサッカーの実力は
残念ながら、Jリーグ20年を経ても、実はそれほど進化していないのが本当のところだった気がする。

ただサッカーは、この世界では英語と並んで共通の文化である。
コートジボワールなど言う国の文化にしろ歴史にしてもサッカー以外に触れることなど普段の生活にはない。
だからこそ、「代表」という意識の中にサッカーだけは国の文化を背負うものだと、もう40年以上ワールドカップを見てきて実感する。
「国民性」などというものを語るつもりはない、一人一人が違うのに、人間を十派一絡げにして語る文化は世界にはない。 
意識が違って思えた。 背負うものの大きさがよその国とは大きく異なって思えた。
震災後の「なでしこ」にははっきり見えたそういう意識が、まだ3年しか経っていないのに今度の代表には見えなかった。
  
この期に及んでまだ、懲りずにと自分らの知ってる物差しでワールドカップを解説している
「オカダ」や「ヤマモト」たちが今は哀しく見えてくる。 彼らが評論するすべてがむなしく響く。
予選での日本に「敗因」などなかった。ある意味で当然の帰結のような今は気がする。

自虐的に言えば、あれほど知ってるような気でいたくせに、負けた日でさえ渋谷でハイタッチしていた「にわかサポーター」
帰国した選手たちに  「夢をありがとう」などとぬけぬけと言える連中と同じように
ひょっとしたら勝てるかもしれないと、結果的にメディアに踊らされていた自分がやっぱり気恥ずかしい。
足下を見つめ直して、やはり「アジアで一番」を目指すところから戻るべきではないかとまで思う。

実は・・・あらためてこのブログで「サッカー」というカテゴリでわかったようなことを書いて来たことを読み返してみたら
今から8年前の2006年に、全く同じことを書き込んでいた・・・自分が繰り返していることも
あきれてしまうけど・・・・なんも変わってないことに、またショックが倍加された気がしてくる。

「これが日本代表です」2006年6月23日

ここに、ただ唯一日本のサッカーの本質を見ていた「セルジオ越後氏」のコメントを引用させていただく。

【セルジオ越後コラム】負けたからこそ得るものがある

怒りと失望、あるいは2戦に比べればよくやったという反応もあるかもしれない。コロンビアに1─4で惨敗し、
日本はブラジルから去ることが決まった。ファンのみんなには様々な感情が浮かび上がっていることだろう。
この4年間を振り返れば、1分け2敗という結果は、起こり得るべくして起こったものだと思っている。
これが現実。それを改めて突きつけられたということだね。
日韓W杯が開催された2002年以降、日本代表におけるビジネス的要素はどんどん比重が増していった。
泥臭く、低予算の中でW杯出場を夢見ていた時代は終わり、日本代表は文字通りドル箱になった。
メディアは煽り、スポンサーは群がった。純然たる強化試合よりも、日本より弱い、
それも2軍、3軍を平気で送り込んでくるやる気の低い相手を国内に呼び、その勝利にメディアの一面が踊る。
代表戦はまるでコンサート会場のようになった。
そのツケが回ってきたということだね。非常にドメスティックで、知らず知らずのうちに井の中の蛙になってしまったんだ。
海外組はブランドになり、選手は神格化された。W杯に出れば、対戦相手はみんな“海外組”だというのにね。
その中で、代表チームは実態以上に大きくなり、期待は必要以上に大きくなってしまった。
井の中の蛙がW杯に出て、惨敗するべくしてしたのだ。試合に負けたのは、選手たちだけの責任ではないね。
協会にもメディアにもファンにも責任がある。みんな反省するべき時がきたんだよ。
負けた今だから言っているのではないよ。僕はずっと言い続けてきた。それが辛口だなんて言っている時点で甘かったんだ。
この日感じたことを次に生かさなければならない。負けたからこそ、得られるものもあるはずだよ。


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