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後藤健二のイドリブ取材  2012年3月

2018-03-10 13:30:21 | シリア内戦

後藤健二さんが2012年3月半ばから4月にかけて、イドリブを取材している。シリアには入らず、トルコに避難した人々を取材している。シリア政府は外国メディアの取材を規制しており、自由に取材したいならば、反対派に案内されて非合法的にシリアに潜入しなければならない。この時の後藤健二さんは慎重だった。後藤さんのイドリブ取材の1か月前(2月22日)、米国のベテラン女性記者メリー・コルビンがホムスで死亡している。

メリー・コルビンの死の半年後(8月20日)、山本美香さんがアレッポで死亡している。

後藤健二さんが訪れた難民キャンプが地図に示されている。

後藤さんは最近トルコに避難したばかりの男性とともにキャンプを出て、男性が住んでいた町が見える場所に向った。

シリアが見渡せるその場所から目と鼻の先ほどの近くにあるジャヌディーヤという名前の町が、彼の故郷だという。

 

 

地図を見ればわかるように、ジャヌディーヤの少し南にジスル・アッシュグールがある。9か月前(2011年6月4日)、ジスル・アッシュグールで武力衝突があった。このころはまだデモが中心であり、激しい戦闘は珍しかった。シリアでは抗議デモが比較的長く続き、その後ようやく武装反乱が始まった。2011年3月ー11月は平和なデモの期間であるが、ときおり武力衝突が起きた。ジスル・アッシュグールの事件はこうした武力衝突の最初の例である。これが最初の武装反乱武装反乱とされている。ただし、6月-11月の武装反乱は鎮圧されて終了し、支配地を獲得するに至らなかった。この点で2012年以後の反乱と異なり、2011年3月ー11月は武装反乱への助走の時期である。

後藤さんをシリアが見渡せる場所に連れて行った男性は、故郷ジャヌディーヤでのデモの様子を携帯電話で撮影していた。彼は2011年4月から2012年3月までのジャヌディーヤを撮影しており、貴重な資料となっている。後藤さんがNHKで紹介したのは、その一部である。

ジスル・アッシュグールで起きた6月4日の武力衝突についての映像・写真はなく、衝突前のデモの様子もネットでは見つからない。ジャヌディーヤはジスル・アッシュグールに非常に近く、ジャヌディーヤの抗議運動はジスル・アッ・シュグールと連動していたに違いない。ジャヌディーヤについてのドキュメントはジスル・アッ・シュグールとの関連で興味深い。

後藤さんが最初にインタビューしたのは難民キャンプの女性たちである。彼女たちの出身地は明らかでない。おそらくイドリブ県北部だろう。続いてジャヌディーヤ出身の男性が話す。これが後藤さんの取材の大半を占める。

 

====《混迷のシリア市民が記録した弾圧の実態》=====

          <https://www.youtube.com/watch?v=YK4HUZX8Wd8>

            YouTube :LunaticEclipseArab3  NHK     2012年4月

            【後藤さんの語り】

戦闘を避け国境を越えてくる難民が急速に増え初めています。すでに1万3千人がキャンプで暮らしています。さらに毎日250人のペースで増え続けており、キャンプはすでに満杯です。

 

シリアから逃れてきたばかりの男性に出会いました。ベヘル・ハジ・ユセフさんです。ベヘルさんが暮らしていたのは、難民キャンプから目と鼻の近さにあるジャヌディーヤという小さな町です。15000人の人口の半数がすでにトルコなどに逃げ出したそうです。ベヘルさんは反政府勢力の自由シリア軍に加わり、政府軍と戦ってきました。しかし武器が底をついた上に、けが人が続出し、10日前遂に町を脱出。大勢の市民を連れてこの難民キャンプにやってきたのです。

     

           

              【ベヘルさんの話】

政府軍は村の入り口をすべてふさぎ、攻撃してきました。がれきの下には子供たちの遺体が埋もれていました。住民を攻撃から守るために、彼らを連れてトルコに避難してきたのです。

 

              【後藤さんの語り】

ベヘルさんは携帯電話の販売店を営んでいました。彼はこの一年町で起きたことを克明に記録してきました。シリアの主要都市で始まり、あっという間にシリア全土に広まった反政府デモ。ベヘルさんの町でも去年4月アサド政権の独裁に反対する住民数百人が抗議デモをしました。

大都市から離れた小さな町での抗議行動でしたが、政府は見逃しませんでした。すぐに戦車などの強大な武器を送り込み、住民で組織された反体制派を徹底的に抑え込んだのです。

         【ベヘルさんの話】

治安部隊は銃で発砲し、逃げ場を失った大勢の人が拘束されました。私もそのうちの一人で、拘留所では地面に押さえつけられ、暴行されました。虐待されている人たちの叫び声が四方から聞こえてきました。暴行に耐えきれず気絶し、病院に運ばれたり、亡くなった人もいます。

 

         【後藤さんの語り】

ベヘルさんは、捕まった市民が実際に虐待されている映像を入手していました。市民が弾圧されていることの決定的な証拠だ、と彼はその映像を私に見せてくれました。

 反政府デモに参加していて、政府軍に拘束された若い男性。数人の兵士が男性を囲み、むちを使って尋問を行っています。

許しを請う男性に対し容赦なく暴力をふるい続ける兵士たち。驚いたことに、この映像は虐待をおこなっている兵士辰が撮影したものです。一般市民に対しこうした暴力行為をおこなっても、政府軍の兵士は罰せられません。

ベヘルさんは驚くべき凄惨な場面を撮影していました。地面に横たわっているのは、一般市民25人の遺体です。仕事に行く途中で、政府軍によって逮捕され虐殺されました。両手を後ろに縛られ、自由を奪われたまま虐殺されました。遺体は町の空き地に投げ捨てられました。

武器など持たない一般市民、さらに女性や子供たちにですら、政府軍は弾圧を加えていました。拷問や虐殺を見せしめに使い、暴力と恐怖によって政府に逆らう行為を抑え込むのです。

 アサド政権による残虐な弾圧を経験してきたシリアの人々。私が滞在している間も、難民キャンプではアサド大統領の退陣を求めるデモがますます激しさを増していました。

 

しかしベヘルさんは「国際社会の軍事的支援がなければ、市民の力だけでは政権に対抗できない」と限界を感じています。

ベヘルさんは政府軍の攻撃により重傷を負った幼なじみの友人を見舞い、励ましあい、希望をつないでいます。「必ず、自由なシリアで一緒に暮らすんだ」

 

           

              【ベヘルさんの話】

シリア国民は皆、国際社会が力を貸してくれることを望んでいます。この悪夢から目覚めることを、みなが夢見ているのです。

 

最初の頃、デモの要求は改革とか、自由な社会とかだった。これに対し政権はこれまで通り暴力と弾圧で対抗してしまった。友人が殺され、家族が殺されたことにより、アサド大統領への憎しみが増大していった。これは政権にとって大きな誤算だった。

===============================(NHK終了)

後藤さんは1年後、イドリブの激戦地(マーラット・アンヌマーン)に潜入している。イドリブ市の南方に反政府勢力の支配地が広がっている。マーラット・アンヌマーンはその拠点都市のひとつである。イドリブの戦闘については、まとめて書くつもりなので、その時2013年の後藤さんの報告を紹介したい。


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