たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

アンティオキア包囲戦

2018-12-11 15:28:20 | 世界史

 

1097年の夏の終わり、十字軍はシリアに入り、アンティオキアに向かった。

アンティオキアの住民はアルメニア人、ギリシャ人、シリア人であり、彼らはキリスト教徒であった。城主はセルジューク・トルコの軍司令官ヤギ=シヤーンだった。彼はキリスト教徒に対し寛容だった。

1085年セルジュークトルコはアンティオキアを占領した。その3年後(、スルタン(マリク・シャー)は配下の武将ヤギ=シヤーンにアンティオキアの統治をまかせた。

イスラム教徒がシリアを占領するまで、アンティオキアはシリアで最も重要な都市だった。イスラム時代になると、アンティオキアは東ローマ帝国とイスラム帝国の最前線となり、この都市の争奪戦が繰り返され、荒廃した。

ヤギ=シヤーンがアンティオキアの支配者になるまでの、この都市の歴史について要約する。

 

    〈シリアの中心都市アンティオキア〉

ヘレニズム時代、アンティオキアはセレウコス朝シリア王国の首都だった。ローマ時代にはシリア属州の州都として栄えた。アンティオキアはシルクロードの出発点でもあった。アウグストゥスの後継者であるティベリウス帝の時代に、ローマの属州ユダヤにおいてイエス・キリストが活動した。イエスはユダヤ属州総督ピラトによって処刑された。初期キリスト教の時代、パウロはアンティオキア拠点として異邦人に布教した。アンティオキアはギリシア文化が根付いており、この地のキリスト教はギリシア文化の影響を受けた。

キリスト教がローマ帝国に公認されるようになると、アンティオキアは五大総主教座の一つとなった。他の主要な総主教座はローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、エルサレムにあった。アンティオキアはシリア地域の政治・経済・宗教・文化の中心地として栄えた。

6世紀、東ローマ皇帝ユスチニアス1世がアンティオキアの城壁を強化した。

 

 

 

7世紀イスラム帝国が成立し、シリア全域がその支配下に入った。シリア北端のアンティオキアも陥落した。ユスチニアス1世の城壁によって守られていたにもかかわらず、アンティオキアが陥落したのは、城内に裏切る者がいたからである。

 

 

 

アンティオキア陥落から300年経過し、969年東ローマ帝国はアンティオキアの奪回に成功した。

 

 

 イスラム世界に対する最前線に位置するアンティオキアを再び失うことがないよう、東ローマ帝国は要塞を強化した。東側のシルピウス山の頂上に城塞が築かれた。山のふもとから城塞まで城壁が続いており、敵が東側から侵入することは不可能となった。東側には見張りを巡回させるだけで十分であり、守備隊は北側の守備に専念することができた。また最悪の場合この山城に拠って抗戦を続けることができた。

 

  

 

 アンティオキアの防備が完璧だったにもかかわらず、1085年東ローマはセルジューク朝によってアンティオキアを奪われた。今回もアンティオキア城内に裏切る者がいたからである。

 

    〈十字軍、アンティオキアを包囲〉

 

1087年からヤギ=シヤーンがアンティオキアの支配者となっていたことは最初に述べた。ヤギ=シヤーンは十字軍が近づいていることを知ると、城内の住民が裏切るのではないかと恐れた。市民の大部分がキリスト教徒だったからである。そこで彼は策略を用いて,市民を場外に出した。「敵が近づいているので防御のために濠(ほり)を掘ってくれ」と市民に言った。穴掘りの仕事が終わると市民は城内に帰ろうとしたが、門は閉ざされていた。「十字軍との戦闘が終わるまで、待ってくれ」と衛兵は城主ヤギ=シヤーンの言葉を伝えた。

ヤギ=シヤーンは周辺の地方政権に援軍を求めた。最も近いアレッポの支配者リドワーンには断られたが、ダマスカスのカドゥカークとモスルのケルボガは支援を約束した。バグダードのスルタンはヤギ=シヤーンへの応援をケルボガに一任しており、ケルボガの軍は強力な援軍だった。

ヤギ=シヤーンは援軍を依頼する一方、十字軍の攻撃に備え城内に補給物資を集めた。

 

一方の十字軍はアンティオキアの近くまで来ていた十が、彼らは弱っていた。夏の暑さの中、ニカイアからアンティオキアまでアナトリアを縦断するのは困難な行軍だった。食糧が不足し、兵士や馬が飢えて死ぬこともあった。十字軍の指揮官たちは援軍が到着する春まで攻撃を延期することにした。十字軍とともに行軍してきた東ローマの助言者タティキオスは968年に東ローマがアンティオキアを奪還した時と同じような作戦を提案した。それは19㎞離れた山中に本陣を置き、アンティオキアを包囲することだった。トゥールーズ伯レーモンはこれに反対し、直ちに攻撃することを主張したが、他の指揮官たちの意見を受け入れた。

 

10971020日、十字軍はアンティオキアから19㎞手前、オロンテス川の橋に到着した。橋は防備され、守備隊がいた。フランドル伯ロベール2世とピュイ(Puy-en-Velay )の司教アデマールが守備隊を攻撃し、これを追い払った。

南イタリアのタラント候ボエモンの軍が先頭になり、十字軍はオロンテス川の南岸に沿ってアンティオキアに向かった。1021日はアンティオキアの北側に到着した。その後部隊ごとに3つの城門を封鎖した。

 

 

南イタリアのボエモンは市の北東側の「聖パウロ門」に宿営し、その西隣に、北フランスの3諸侯が布陣した。(①ヴェルマンドア伯ヒュー1世 ②ノルマンディー伯ロベール ③ブロア伯シュテファン2世)

 

南フランスのトゥールーズ伯レーモンとピュイ伯アデマールは北の「犬門」の前に布陣した。下ロートリンゲン公ゴドフロワは西の「公爵門」の前に陣を張った。

 

 

南西の「橋の門」と南側の「聖ゲオルゲスの門」は封鎖されなかった。「橋の門」の前をオロンテス川が流れており、橋を渡って攻撃するのは危険である。また橋の手前で封鎖するにしても、城壁の上から放たれる矢が届かないところまで後退しなければならい。遠巻きに封鎖するなら多くの人数が必要である。もし少人数で遠巻き封鎖するなら、城内からトルコ軍が出てきて奇襲される危険がある。このような理由で、十字軍は「橋の門」の封鎖をあきらめた。聖ゲオルゲスの門の前は小川が流れており、門の周囲は崖だった。十字軍は同じ理由でここの封鎖もあきらめた。

ボエモン軍の騎士が次のように書き遺している。

「我々は3つの門を完全に封鎖した。しかし残り2つの門を封鎖することはできなかった。そこは高い山のふもとで、急斜面だったからである」。

十字軍の封鎖には穴が2つあいており、城内の守備軍に補給が続けられた。

当時の記録には「十字軍がすぐに攻撃したら失敗しただろう」と書かれている。例えば、トゥルーズ伯レーモンの従軍牧師は次のように書いている。

「アンティオキアはよく防備されており、機械を用いたとしても攻略はできない。最強の軍隊でも不可能だ。それだけでなく、城内には精鋭の騎士2000人と通常の騎兵5000人、それと1万人の歩兵がいた」。

実際には城内の守備兵の人数は非常に少なかったのであり、十字軍の想定は事実とかけ離れていた。

 

11月になっても十字軍が攻撃してこないので、ヤギ=シヤーンは安心した。それまで彼は十字軍の攻撃が始まることを恐れていたが、安心すると積極的になり、十字軍の不意を衝いて攻撃してみることにした。彼は騎馬隊を出撃させ、十字軍を攻撃した。

トルコ軍は犬の門から出撃し、オロンテス川に架かる橋に向かった。最初トゥールーズ伯レーモンとピュイ伯アデマールの軍は門の前に布陣したが、その後オロンテス川の対岸に後退していた。トルコ軍が橋に向かっているのを見て、橋の反対側に布陣していた十字軍はあわてて橋を壊そうとした。ハンマーとつるはしで橋を壊そうとしたが、橋は堅固にできており、びくともしなかった。そんなことをしていると、トルコ軍の矢が飛んできた。橋が破壊でないと知った十字軍は、今度は移動式の防護柵を橋のたもとへ持って来た。しかし橋を渡り終えたトルコ軍は移動式の柵を撤去してしまった。十字軍への威嚇攻撃が成功し、トルコ軍は城内に帰った。

十字軍がトルコ軍と戦おうとせず、橋を壊そうとしたのは、トゥールーズ伯レーモンとピュイ伯アデマールの部隊のほとんどが略奪に出かけており、留守番の部隊しか残っていなかったからかもしれない。十字軍にとって食料不足が深刻であり、食糧を得ることが第一の課題となっていた。それにしても留守番兵のうろたえぶりは普通でない。

 

117日、13隻のジェノア船がシメオン港に到着した。ジェノア船は十字軍への援軍を運んできた。シメオン港はアンティオキアの西14kmに位置しており比較的近い。にもかかわらず、ジェノア兵はアンティオキアに向かう途中でトルコ軍の襲撃を受け、犠牲者が出た。

ジェノア船が到着したころ、アンティオキア北東部の聖パウロの門を封鎖していたボエモンは、城内のトルコ軍からの奇襲に対抗するため、近くの丘に砦を築いた。

ジェノア軍に続き、タンクレドの軍が到着したので、十字軍は増強された。タンクレドはボエモンの甥であり、ボエモン軍の西に布陣した。

 

12月になると十字軍の食糧が不足し、ゴドフロアが病気になった。1228日、ボエモンとフランドルのロベールは2万の兵士を連れ出し、食料の調達(=略奪)のためにオロンテス川上流地方に向かった。

 

アンティオキア城主のヤギ=シヤーンは十字軍の3グループがまとまりを欠いていることに気づいていたので、ボエモン軍が食糧調達に出かけたのを知ると、翌日の夜再びトルコ兵を出撃させた。トルコ兵は聖ゲオルゲス門か出て、オロンテス川を渡り、再びレーモン軍を襲撃した。不意を突かれたレーモン軍は混乱したが、態勢を立て直し、トルコ軍を城門まで追撃した。前回と違い、今回の戦闘では、双方から死者が出た。

 

この頃ダマスカスの支配者であるドゥカークがアンティオキア守備軍の救援に向かっていた。食料調達に向かっていたボエモン軍・ロベール軍とダマスカスから北上してきドゥカークはアンティオキアの東方で偶然に鉢合わせをした。

 

 

両軍は知らずに接近していたが、ドゥカークが先にこのことを知った。住民が情報を提供したのである。1231日ドゥカークの軍は十字軍のほうに向かって進み、両軍はアル・バラ村で衝突した。

地図にあるように、ボエモンとロベールの軍はアンティオキアからかなり離れた地点に来ていた。

ボエモン軍の前を進んでいたロベール軍がいきなり攻撃を受けた。ボエモン軍もすぐに戦闘に参加し、キリスト教軍はダマスカスから来たトルコ軍を追い払った。しかしキリスト教軍の損害が大きく、略奪を再開する余力がなかったので、アンティオキアに引き返した。戦闘の前、キリスト教軍は略奪した多数の家畜を連れていたが、戦闘中に多くの家畜が逃げてしまった。アンティオキアに持ち帰得ることができた食糧は不十分だった。

アル・バラ村で戦闘があった1230日地震があり、その後の数週間寒く雨の降る日が続き、十字軍にとって災難だった。信心深い十字軍は「雨と寒さは神様に見放された証拠だ」と考えて落ち込んだ。ピュイのアデマールは土地の住民から略奪したことへの天罰だと考え、罪が許されるようにと、3日間の断食を命令した。いずれにせよ十字軍の食料不足は深刻になっており、間もなく7人のうち一人が餓死するようになった。

雨と寒さはトルコ軍にも影響を与えた。アル・バラ村での戦闘の後、ドゥカーク軍はハマまで退却したが、そこで待機し再び十字軍を攻撃するつもりでいた。しかしひどい悪天候が続いたので、ドゥカーク軍はダマスカスに帰っていった。

 ボエモン軍とロベール軍の略奪遠征が半ば失敗に終わったので、十字軍の食糧不足問題は解決しなかった。地元のキリスト教徒が食べ物を持ってきたが、法外な代金を要求した。飢えのため馬も死に、700頭だけになった。十字軍の食糧難がどの程度だったか、正確には分からないが、エデッサのアルメニア人(Matthew of Edessa )は次のように書いている。

5人に1人が飢えで死んだ。死者の多くは貧しい者だった」。

 

このような状態で、十字軍の士気が落ちた。10981月には逃亡する騎士や兵士が出始めた。聖地奪回の必要性を訴える演説で民衆に感銘を与え、民衆十字軍成立の立役者となった隠者ピエールも離脱した。スペインにおいてイスラム教徒と戦ったことで有名なフランス人貴族「大工のウイリアム」も同様である。ボエモンは逃亡者を逮捕するため部隊を送った。ピエールとウイリアムは逮捕されたが、許された。ウイリアムは厳重に注意され、2度と逃亡しないと誓約させられた。ウイリアムは大工と名乗っているが、貴族であり、戦力として期待されていたので、厳しく注意された。

 十字軍の状況は日を追うごとに悪化した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルーム・セルジューク朝と東... | トップ | 十字軍 アンティオキア戦② »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

世界史」カテゴリの最新記事