ラッカのイスラム国 AP GAZIENTEP
「イラク・レバント・イスラム国」は、6月にイラクでの大躍進以後、「イスラム国」と短く呼ばれることとが多くなった。これから書くことは、さかのぼって1月のことであるが、イスラム国と呼ぶことにする。
イスラム国は、2013年4月にシリアに現れて以来、他の反政府軍グループと衝突し、対立してきた。反政府軍の間では、「イスラム国はアサドと戦うより、反政府軍と戦っている」と言われている。これは事実であり、アサド政府軍に勝利して支配地を獲得するのだはなく、反政府軍の支配地に友軍として入り込み、その地域の支配権を奪い取ってしまうことが多かった。イスラム国は他のグループの戦闘員と絶えず衝突した。
自由シリア軍系の「シリア革命戦線」はイスラム国を激しく糾弾した。「イスラム国は400名以上の戦士を誘拐し殺害した。現在も2000名以上の戦士を拘束している。」
イスラム国は、北部の反政府軍にとって死活問題である、トルコからの供給路を独占支配しようとした。同様に、石油産出地域など、経済的に価値の高い地域を支配下に置こうとした。
このような経緯から、ほぼ全ての反政府軍は、イスラム国を敵視した。
彼らの中には、「イスラム国にはアサドのスパイが浸透しているのではないか。イスラム国はアサドの別動隊ではないのか。」あるいは「イランの革命防衛隊に指導されているのではないか」と疑う者さえいた。
シリア国民連合は、2014年1月2日、「イスラム国はアサドと結びついており、アサドの利益のために働いている」と非難した。
またイスラム国は支配権を打ち立てる過程で、ライバルのグループの支持者である住民を殺した。地域の支配権を握ると、厳格なイスラム法を住民に押し付け、従わない者を厳しく処罰した。
<反政府軍とイスラム国との戦闘>
2013年12月31日、イスラム国に対する憎しみが極限に達する事件が起きた。イスラム主義グループ「アフラール・アル・シャーム」の指揮官のひとりがイスラム国によって殺害され、無残に痛められた遺体が返されてきた。殺されたフセイン・アル・スレイマン博士(医者)は、多くの人々から尊敬され、信頼されていた。
「アフラール・アル・シャーム」はヌスラと肩を並べる大勢力であり、寄合組織「イスラム戦線」の中心グループである。
この事件が引き金となって、「アフラール・アル・シャーム」はイスラム国の拠点を攻撃し、本格的な戦闘が開始された。同時に他の反政府軍グループも、一斉にイスラム国の各拠点を攻撃した。「イスラム戦線」に結集するグループは当然のこと、自由シリア軍そして最近結成されたばかりの「シリア革命戦線」・「ムジャヒディン軍」も攻撃に参加した。
アフラール・アル・シャーム BBC
<元気な姿を見せたイドリス将軍>
移動中の自由シリア軍の中に、イドリス参謀長の元気な姿もあった。全自由シリア軍のトップに立つイドリス将軍であるが、12月7日、イスラム系グループによって自由シリア軍の武器庫が襲げきされ、彼の信用は地に落ちていた。全自由シリア軍に命令する「最高軍事評議会」は消滅したのではないか、と私は考えていたが、将軍の元気な顔を見て、まだ存在しているのか、と少し考えなおした。
イスラム系に飲み込まれない、自由シリア軍はまだ相当数残っているが、どれも弱小で、ばらばらである。イドリス将軍はそれらをまとめる人間として期待されたが、結局期待に応えられなかった。2か月後、2月27日に、彼は参謀長を解任される。「サウジアラビアにとって都合の良い人間に代えられた」とも、「彼はトルコに出かけることが多く、『戦わない参謀長』と批判され、部下によって罷免された」とも言われる。
<全ての根拠地を失ったイスラム国>
イスラム国に対する一斉攻撃は、周到に準備された作戦ではなく、各地域での不満がそれぞれに爆発したものであったが、同時的だったことが致命的となり、イスラム国はほぼ全ての根拠地を失い、逃走した。
イスラム国の戦闘員は約8000人であるが、支配地が広がっているため、ひとつの拠点での人数が少なく、同時攻撃に対応できなかった。イスラム国は、最大の根拠地ラッカさえも失った。
ただ、イスラム国の敗北は一時的な後退にすぎず、遠からず失地を取り戻すだろう、という見方が一般的である。
ラッカでは、ヌスラでさえイスラム国を攻撃した。ヌスラのリーダーがあわてて、戦闘を中止するよう声明を出した。他のイスラム主義グループとは異なり、ヌスラのリーダーは、いち早く、苦境にあるイスラム国の側についた。
ハサカ県の内紛は特殊である。クルド人組織YPGの部隊に対し、イスラム国・ヌスラ・イスラム戦線の三者が、協同して戦った。
1月の時点で、イスラム国はシリアの失地を回復することを目標としており、半年後に、大進撃を行ない、イラクの三分の一を獲得するとは、私には予想もできなかった。
反政府軍の支配地 (イスラム国が根拠地を失う前)
(説明) ’(地図)BBC
①青色の地域が、反政府軍の支配地。
②北部の薄茶の地域は、クルド人の支配地。
③緑色で示された都市に、イスラム国の根拠地がある。
④黄色で示された都市では、反政府軍どうしが衝突している。
⑤トルコとの国境の青の地点は、検問所を自由シリア軍が管理している。
(参考にしたサイト)
貼り付け元 <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-25678996>
<イラク・レバント・イスラム国またはイラク・シャーム・イスラム国>
英語訳はISILとISISの2通りある。最初の3文字ISIは「イラクのイスラム国」という意味。最後の一文字は、アラビア語の発音では「シャーム」であり、英訳すれば「レバント」または「グレイト・シリア(大シリア)」である。
シャーム地方とは、シリア・レバノン・パレスチナ・ヨルダン含む広い地域の呼称であり、現在のシリアと区別して「大シリア」と呼ばれる。
古い時代から、大シリアはメソポタミアとエジプト・地中海・アナトリアを結ぶ通商路の結節点として発展してきた。また数少ない穀倉・農耕地帯であることも、この地域の発展に寄与した。肥沃な三か月地帯の西半分がこの地域にある。半月にならないのは、しリア砂漠があるため。
ウマイア朝の首都がダマスカスにあったことはよく知られているが、それ以前の歴史も古く、エジプトとメソポタミアと歩を同じくして、高度な古代文明を生んだ。
現在の国境は人為的なものであり、「大シリア」こそが本来のシリアであるという考え方があり、ISISはそれを取り入れた。
昨年から今年春までは、英語メディアはISILという表記が多かったが、6月以後ISISが一般的になった。発音しやすいということが理由らしい。
<イスラム国がヌスラをシリアに送り出した>
ヌスラ戦線はイラク・イスラム国が資金の半分を与えてシリアに送り込んだ。シリアで反政府闘争をやれば、アラブ富裕層や政府から資金と武器の援助が得られる、と皮算用した。これは的中した。ヌスラには多くの資金と武器が流れ込み、反政府勢力の中で最強のグループとなった。
2014年6月以降のイスラム国の急成長も、イスラム国がシリアでの一年間で力をつけたことによって可能になった。
ヌスラはイスラム国の弟分であり、従属的な立場にある。しかしヌスラは遅れて乗り込んできたイスラム国との合同を拒否した。この時アルカイダのトップであるアイマン・ザワヒリが裁定を下し、ヌスラは独立の組織のままでよい、とした。その後もザワヒリは一貫してヌスラを支持し、イスラム国を破門した。
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