(44)函館公園の歌碑 昭和28年4月建立(『一握の砂』より)
啄木歌碑
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
啄木
明治40年5月5日、啄木は函館に着き、函館商工会議所で働いておりました。同年6月11日、函館弥生尋常小学校の代用教員の辞令を受け、同年7月に妻子を呼び寄せ、青柳町に新居を構え、同年8月、母と妹を迎え、父を除く5人が揃いました。同年8月には代用教員のまま、函館日日新聞の遊軍記者になりましたが、8月25日夜、函館大火があり、学校、新聞社は焼けてしまいました。
裏面の宮崎郁雨の碑文
「石川啄木が苜蓿舎に迎えられて青柳町に住んだのは、明治40年5月から9月に至る短い期間であったが、此の間の彼の生活は、多数の盟友の温情に浸り、且久しく離散していた家族を取り纏める事を得て、明るく楽しいものであった・・・」
歌碑案内板
案内板(説明板)
この歌碑は、啄木の青春のあしあと、青柳町時代を記念して昭和28年(1953年)4月に建立された。全国に数多く点在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの歌碑は、啄木の自筆を集字拡大したものであり、エキゾチックな風情とロマンをもつ街・函館をうたった歌として、広く市民に愛誦されている。
薄幸の詩人、石川啄木が函館に逗留したのは、明治40年(1907年)5月から9月にかけての僅か132日間にすぎない。この間、文芸同人苜蓿社の諸友に囲まれ、文学を論じ、人生を語り心安らぎつつも、自らの若さと夢を思い悲しんだ。
啄木日誌・函館の夏(明治40年9月6日記) 5月5日 函館に入り、迎へられて苜蓿社に宿る事となれる。
5月11日より予は澤田君に促がされて商業会議所に入れり、予は一同僚と共に会議所議員選挙有権者台帳を作る事を分担し毎日税務署に至りて営業税納入者の調をなせり。
6月11日 予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生れて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち12円なりき、
7月7日 節子と京子は玄海丸にのりて来れり、此日青柳町十八番地石館借家のラノ四号に新居を構へ、
8月2日の夜 予は玄海丸一等船室にありき、そは老母を呼びよせむがため野辺地なる父の許まで迎へにゆくためなりき、三日青森に上陸、翌早朝老母と共に野辺地を立ち青森より石狩丸にのりて午后四時無事帰函したり。
8月18日より予は函館日々新聞社の編輯局に入れり、予は直ちに月曜文壇を起し日々歌壇を起せり、編輯局に於ける予の地位は遊軍なりき、
(大火)8月25日
此夜十時半東川町に火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり、学校も新聞社も皆やけぬ、友並木君の家もまた焼けぬ、予が家も危かりしが漸くにしてまぬかれたり、
8月27日 曇 市内は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、焼失戸数1万5千に上る、