啄木は明治31年3月、盛岡高等小学校を卒業し、同年4月、盛岡尋常中学校(後に岩手県立盛岡中学校に改称)に入学しました。担任教諭は数学の冨田小一郎先生です。2年次には野村胡堂、3年次には金田一京助がおりました。盛岡中学は大正6年、盛岡市上田の地に移転、現在は岩手県立盛岡第一高等学校となっています。
(18)盛岡第一高等学校の啄木歌碑
盛岡第一高等学校の啄木歌碑
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名もしらず
啄木
盛岡第一高等学校
当時の盛岡中学跡には、現在、岩手銀行本店が建てられており、そこには、次の啄木歌碑が建立されています。
(19)盛岡中学跡の啄木歌碑
岩手銀行の啄木歌碑
盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ
石川啄木
岩手県立盛岡中学校濫觴の地
また、盛岡中学の図書庫跡地は岩手医大循環器センーになっており、玄関わきに次の啄木歌碑が建立されています。
(20)盛岡中学図書庫跡の啄木歌碑
岩手医大循環器センター玄関前の啄木歌碑
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名もしらず
啄木
盛岡中学では宮澤賢治も学んでおり(明治42年4月入学)賢治の次の碑も建立されています。
宮澤賢治の碑
宮澤賢治碑
生徒諸君に寄せる
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
盛岡第一高校から道路をはさんだところが岩手大学で、かって、この地に啄木の妻・節子の家がありました。岩手大学では、節子が産湯につかった井戸に屋根と蓋を設け、その蓋に啄木と節子の歌を刻みました。
(21)岩手大学構内の啄木・節子の碑
ある日、ふと、やまひを忘れ、
牛の啼く真似をしてみぬー
妻子の留守に。
啄 木
ひぐるまは焔吐くなる
我がうたにふと咲き出でし黄金花かな
節 子
啄木と節子の歌の碑(井戸の蓋)
ある日、ふと、やまひを忘れ、
牛の啼く真似をしてみぬー
妻子の留守に。
啄 木
ひぐるまは焔吐くなる
我がうたにふと咲き出でし黄金花かな
節 子