Chimney角屋のClimbing log

基本的にはクライミングの日記ですが、ハイキング、マウンテンバイク、スキー、スノーボードなども登場するかも・・・。

3月11日

2016-03-12 00:41:13 | 災害ボランティア クライマー派遣

今日(今の時間では昨日になってしまいましたが)、午後2時46分。ここ品川区でも防災放送が流され、1分間の黙とうがささげられました。私も妻と長男のお嫁さんと3人で黙とうをささげました。

あれから5年。「もう5年」なのか、「まだ5年」なのか、人によってさまざまだと思います。被災者にしてみれば「5年たったということなんて、何の区切りでもない」と感じている方もおられると思います。それはそうでしょう。まだ復旧の真っただ中だという人もいるでしょうし、町や生活は平常に戻りつつあっても、心の中はあの時のままという人もいるでしょう。心の底からそういう方に寄り添うことができたらいいなあと思います。

去年は被災地を訪れることができませんでした。今年はまた行ってみたいと思います。現地に行ったって私にできることはないと思います。でも多少なりともかかわることができた所に、私はまた行きたいのです。人に会いたいし自分にとっても思い出の場所ですから・・・。私はもうなかなか現地に行けなくなったけれど、決して忘れているわけではありません。私のようになかなか現地を再訪できない仲間も、「申し訳ない」と思っています。みんなできることなら「また行きたい」と思っていると思います。「ご無沙汰して申し訳ありません」という言葉はよく使うけど、ここでは本当に心からそおう思ってます。

今日は風呂屋の会合でした。毎月11日に行われているので、5年前の3月11日もこの会合が開かれていました。その年、会合が終わって私は自分の家に戻り、金春湯で掃除をしていた時にあの地震が起こったのです。みんなあの時の状況は忘れることはできませんし、今日もみんな口々にその時のことを語っていました。我が家の銭湯は、電気系統にお湯がかぶり、営業が開始できない状態でした。煙突が倒れないかと不安な気持ちで見守り、出かけている家族の安否を確かめようにも携帯電話もつながらず不安で、交通機関はマヒしていて出かけている家族を迎えに車で家を出ても道は車を走らせられる状態ではなく、あきらめて家に戻るしかありませんでした。家では何とか銭湯の復旧を図り、いつもより3時間遅れて店を開けました。こんな状況だから店は休もうかとも思ったのですが、その時点で周りのオフィスでも帰宅困難者が多くいることが分かっていたので、会社に泊まらなければならない人のためにも店を開けようと思ったのです。家の前の普段は人通りの少ない通りも、原宿の竹下通りのような状態でした。店を開けるとビジネスマンの方々がどっと押し寄せました。中には「家に帰れないから泊めてもらえないか」という人もいました。みんな店のテレビにくぎ付けでした。面識のない御客さん同志でも情報を交換し合い、これからどうしたらいいかを話し合っている光景がありました。

翌日でしたか、私は妻と長男と3人でテレビのニュースに見入っていました。信じられない光景が映し出されています。津波に家も車も、町ごと流される。建物の屋上で必死に救出を待つ人々。町全体が炎に包まれ燃えている光景。これからここはどうなるのだろうと思っていました。自衛隊や警察のヘリが現地の上空を必死に飛び回り、救助を待つ人のところに向かう。孤立した避難所にどうやって物資を届けるのか。助けたくてもそこは日常の世界ではない。こういう状況をみて妻が言った言葉に動かされたのです。「あなたたちみたいに、いつも山に行ったり岩を登って面白がっているひとが、もし人の役に立つのならこういう時しかないんじゃない」。

そうです。私達クライマーと呼ばれる人は、準備さえしていけばどんなところでも自活できるのです。私の元勤め先のYMCAが岩手県の宮古市にボランティアセンターを立ち上げることになり、まず私にコーディネーターとして行ってくれないかという話でしたが、そうなると最低でも1ヶ月くらいになるので無理。でも仲間のクライマをたくさん集めて、現地で自活して作業が行える人を送り出すことはできると思ったのです。仲間は集まりました。最初はあまりにも悲惨な状況の中で、われわれ一般人には手が付けられない状況、というより手伝わせてもらえない状況。力は有り余っているのに何もさせてもらえない状況。地道な御用聞きから始まるのですが、なかなか地元の人にも受け入れてもらえない状況に、かえって心に被災を抱えて帰ってくる仲間が続出しました。しばらく活動が続いて安定してからのゴールデンウィーク。ボランティアが殺到しすぎて、その対応や現地ボランティアの生活の乱れの問題。募金の使い道についての議論。もっと活躍したいボランティアの不満など。いろいろな問題が湧き上がりました。実は私はボランティアをしに現地に行くということはなく、こういう問題が起きた時に出向くだけでした。それでも2011年には6回行ったのですから、どれだけ現地でボランティアをすることが大変なことか分かってもらえると思います。それを束ねるコーディネーターはなおさらです。

でも一つだけ言えるのは、みんな遊びに行って問題を起こしているのではないということでした。みんな一生懸命であるからこそ起こる問題なのでした。(生活の乱れ以外は)

いまでも現地に通い続けている仲間がいます。頭が下がります。自分もそうしたいけど、今はよろしくお願いします。

いい街なんです。私は好きです。品川から800kmも離れていなければいつでも行きたいのです。本音を言えば町の人と被災者として会うのではなく、友達として会いたいのです。現地のかたも今置かれている状況はさまざまですから、一言では言えませんが、「いつでも希望を持っていただきたい」。「喜びも苦しみも分かち合いたい」。


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