狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「長崎の鐘」は「原爆しょうがない」の歌

2007-08-10 16:32:25 | 県知事選

8月10日付 よみうり寸評

 ―こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ……。詞 サトウハチロー、曲 古関裕而のヒットソング〈長崎の鐘〉の歌い出しだ。長崎原爆忌の夏にいつも口ずさむ◆62回目の忌を迎えた長崎の昨夜は、この歌がひとしお心にしみた。犠牲者を悼むたいまつ行列の先頭に「被爆マリア像」が、初めて加わっていた◆〈長崎の鐘〉は昭和24年のヒット曲。原爆症で亡くなった長崎医大教授・永井隆博士の同名のベストセラーを映画化した際の主題歌で、歌詞には「召されて妻は 天国へ……かたみに残るロザリオの 鎖に白きわが涙」◆「ミサの声」「十字架」「貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様」……。各節の結びは「なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」のリフレインだ◆被爆マリア像は爆心から約500メートル、浦上天主堂の祭壇にあった像。がれきの中から焦げた頭部だけが掘り出された。長崎の被爆を象徴し今に残る◆被爆者健康手帳を持つ人が25万、うち原爆症認定者はわずか2200。こよなく晴れた青空がいつまでも悲しい。

2007年8月10日14時15分  読売新聞)
 
                     ◇
 
>「召されて妻は 天国へ……かたみに残るロザリオの 鎖に白きわが涙」
 
>「ミサの声」「十字架」「貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様」……。
 
>各節の結びは「なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」のリフレインだ。
 
『長崎の鐘』は原爆に対する日本人の「原爆しょうがない」の歌である。
 
4番の歌詞には次のような「懺悔」のくだりもある。
 
<こころの罪を うちあけて>

<貧しき家の 柱にも
   気高く白き マリア様>
 
マッカーサーは原爆に関する情報を一切封殺して、反省する内容のみ許可した。(沖縄空手の必殺技 「マッカーサーの三年殺し」
 
「原爆投下はしょうがない」・・・・この久間発言をとがめる資格のある人は少ないはずだ。
 
原爆投下4年後の昭和24年、日本中で「長崎の鐘」は歌われ、<心の罪を打ち明けて>と、「しょうがない」どころか「懺悔」をしていたのだ。
 

以下【再掲】

「NHK・BS2 ビッグショー」 反省の歌「長崎の鐘」

昨夜のNHK・BS2の「ビッグショー」の話題。「蔵出しエンターテインメント」と言う過去にNHKで放映された映像を再放送する番組で、昨夜の主人公は作曲家の古関裕而で後半は「今週の明星」でゲスト歌手は藤山一郎、伊藤久男、二葉あき子、岡本敦郎の声自慢歌手が勢ぞろい。先ず伊藤久男が「イヨマンテの夜」、続いて岡本敦郎が「高原列車は行く」、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」の次にオオトリで . . . 本文を読む

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三ヶ月ごとの「県民大会」は多すぎるでしょう

2007-08-10 12:21:55 | ★集団自決

県民大会 超党派で/「集団自決」修正 (沖縄タイムス2007年8月9日)

(略)六月に教職員を中心に県民大会を開いた高嶋伸欣・琉球大教授。「中央政府と地方という力関係にひるまない、沖縄県民のゆるがない確信を感じる。主権在民のお手本で、『集団自決』への日本軍関与の記述復活とともに、記述復活のための県民の運動も教科書に掲載させたい」と、県民大会開催に向けた動きを評価した。

                      ◇

六月に教職員を中心に県民大会を開いた高嶋伸欣・琉球大教授。

これを見て、先々月にも「県民大会」が行われていたと知り驚いた沖縄県民もいただろう。 

しかも同じテーマで。

県民が知らない間の「県民大会」。

集団自決に関る教科書検定と言う同じテーマを掲げて三ヶ月ごとに「県民大会」が行われる異常な空間が沖縄の現状である。

地元両紙は動員人数を主催者の発表をそのまま参加者3500人と報じたが、

独自に取材した共同配信は1000人と報じていた。

実際に目撃した人の話では500人程度だったとか。

「県民大会」と称するには余りにも低次元の参加人数で、結局は県民不在の「知られざる県民大会」に終わった。

主催は左翼学者高嶋教授を中心にした教職員各団体だった。

これでは仲井真知事が「大衆運動」と断じ、副知事も「偏った政治運動」と懸念するの当然だ。

この「大衆運動」をオーバーに1面で報じる沖縄タイムス記事。(2007年6月10日 朝刊 1面 )

歴史歪曲 3500人抗議/「集団自決」修正【写真】


「集団自決」の記述から日本軍の関与が削除された教科書検定の撤回を求め、ガンバロー三唱をする参加者ら=9日午後、那覇市・県民広場(大野亨恭撮影) 
 
63団体が県民大会/検定意見撤回求め決議
 文部科学省の高校歴史教科書検定で、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に日本軍が関与したとする記述が削除、修正されたことに抗議する「6・9沖縄戦の歴史歪曲を許さない!県民大会」(主催・同実行委員会)が九日、那覇市の県民広場で開かれた。約三千五百人(主催者発表)が参加。文科省に対し、検定意見の撤回を求める大会決議を採択した。
 六十三団体でつくる実行委員会を代表し、あいさつした高嶋伸欣琉球大学教授は「生徒がこの教科書を使う来年四月までまだ時間がある。県民の声を文科省にぶつけて検定意見を撤回させることは一九八二年の前例もあり、十分可能だ」と強調。「会場の熱気に勇気づけられた。来週予定している伊吹文明大臣との交渉では、過去の経緯などを含めて厳しく追及し、成果につなげたい」と力を込めた。 (略)

                    ◇

「県民大会」の仕掛け人・高嶋教授は、この時の失敗に懲りたのか9月9日の「県民大会」には当初の発起人である高教組と沖教組をを実行委員から外し、大会から日教組のニオイを消し去った。

そして女・子供・年寄りの最強トライアングルを全面に立てて「市民運動」の臭いも消して世論を欺くつもりらしい。

一部のグループを操って「県民の総意」だとか「県民大会」といった言葉を軽々しく使うのは県民にとって迷惑な話だ。(「検定意見書撤回」  県民の総意とは迷惑な

そもそも教科書の記述は高度に専門性を要するもの。

「県民の総意」や「県民大会」で決めるものではないはず。

仲里副知事が言った「専門家や学者らから成る組織を立ち上げ、事実を検証すること」。

これこそ教科書記述の要諦ではないのか。

同じ姓で紛らわしいが、この仲里副知事と、「県民大会」執行委員長の「毒入りおにぎり」の仲里県議議長とが別人であることは言うまでも無い。(毒入りおにぎりを渡された県議会議長

 

参考エントリ:

「集団自決」 “県民大会”の次は「署名活動」ですか

 自民党の見識、 結論先送り/「集団自決」意見書

 

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原爆遺構と沖国大の“壁”

2007-08-10 06:28:02 | 未分類

原爆遺構と沖国大の“壁”  (琉球新報・「南風」8/9 16:10)

8月6日、広島に原爆が投下されて62年の日、テレビは広島の平和祈念式典を映し出す。
 唯一の被爆国として、世界の指導者たちに核廃絶を厳しく訴える秋葉市長の平和宣言、「原爆の恐ろしさを伝え続け、平和の灯で世界の人々の心をつなぐ」と誓い合う子供代表、私は胸を熱くして聴き入った。
 長崎被爆は8月9日だ。私は古びた画帳を取り出してみた。広島の原爆ドームや長崎の原爆遺構をスケッチしたものだ。公園の片隅に移設された浦上天主堂の壁の残骸(ざんがい)、熱線で黒ずんだマリア像も悲しい。
 おりおり訪れる長崎はその都度新しい発見がある。ある時、長崎平和公園は浦上刑務所跡だったことを知る。
 1992年、平和公園の地下駐車場建設工事中、浦上刑務所の死刑場跡が発見された。その後、刑務所に関する数々の悲劇が解明されていった。職員もその家族もすべてが一瞬に消滅、中国人、朝鮮人の犠牲者も多数あったという。
 長崎では、こうした苦しみ悲しみをともないながら原爆遺構の掘り起こし、保存、継承がねばり強く続けられている。
 過日、那覇市民ギャラリーで「壁、1000の記憶―2004年8月13日沖国大米軍ヘリ墜落事件の写真展」を観(み)た。私も墜落現場をスケッチしたが、このたくさんの人の目の写真は実に生々しく当時の状況を再確認させてくれた。企画した若者たちの明るい瞳に未来を感じてうれしかった。
 次は“壁”の永久保存を確実なものにしたい。あの“壁”は戦争につながる一切の武器、沖縄の軍事基地の危険性を告発し続けてくれることだろう。沖縄戦の無言の語り部、あの“戦跡壕(ガマ)”のように―。
(宮良瑛子、沖縄女流美術家協会会長)

(8/9 16:10)

                      ◇

主義主張を通す為に例え話を多少誇大にするの良くあること。

沖縄戦の被害、そして米軍基地の被害を多少誇張して訴えるのもウチナンチュとしては大目に見よう。

だが、それも度が過ぎると針小棒大のヨタ話として本来の意味さえ疑われかねない。

沖国大構内に墜落した米軍ヘリコプターの油煙跡の残る壁を保存する運動には理解も出来る。

だからと言って、幸いにして一人の死傷者も出なかった事故の“壁”と、死者20数万にも及ぶ広島、長崎の原爆遺跡とを同列に扱う神経を疑う。

基地被害を訴える余り「事故」と「大惨劇」を同列に扱うことは広島、長崎の被爆者に礼を失すると言うものだろう。

原爆遺跡と沖国大の“壁”を実際に見た者として、その余りにも大きな“意味”の差に、この文章をコラムとして報じる琉球新報に怒りさえ感じる。

 

 


 

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