証言者は法廷でで揺れ動く「証言」を指摘され、母の自責の念にかられた「遺言」を書き変えるという。
沖縄と言う密閉された言語空間では、マスコミは自分達にとって「不都合な真実」を封殺しようと必死になる。
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沖縄タイムス 2007年8月14日(火) 朝刊 24面
宮城さん、原告を批判/「集団自決」訴訟で報告会
大阪地裁で七月にあった「集団自決」訴訟の証人尋問の報告集会が十三日、那覇市内であった。被告・岩波書店側の証人だった宮城晴美さんが、自著「母の遺したもの」について「話しを聞きやすかった女子青年団からの取材で、日本軍寄りでこの本を書いてしまった」と振り返り、「言葉が足りなかった部分は書き改めているところ」と語った。
同訴訟は、沖縄戦時の慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、住民に命令をしたと著作に記されて名誉を棄損されているとして、旧日本軍の戦隊長らが作家の大江健三郎さんと岩波書店に出版の差し止めなどを求めている。
集会で宮城さんは、著書で当時の兵事主任(助役)が住民に「集団自決」を命じたとしたことについて「助役には申し訳なく、遺族に迷惑を掛けたことを反省している」と強調。座間味島の戦隊長だった原告の梅澤裕氏には「兵事主任や手榴弾を配った部下が悪いと、自分に都合のいいことばかりを言っている」と批判した。
報告集会は、被告・岩波側を支援している「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」の主催で約五十人が参加。
裁判を傍聴した沖縄国際大の安仁屋政昭名誉教授は「原告側の証言はピント外ればかりだった。『集団自決』にはさまざまな背景があるが、住民が軍の強制と誘導によって死んでいったという『集団自決』の言葉の中身を、しっかりと伝えていく必要がある」と語った。
また九月十日に那覇で予定されている所在尋問(出張法廷)が非公開とされていることについて、参加者から公開を求める声が次々と上がった。
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自分のついたウソの証言に自責の念にかられた宮城初江氏は「真実」を綴ったノートを娘に託した。
娘はそれを『母の遺したもの』として出版した。
それが係争中の裁判の原告側の証拠として提出された。
娘は故人となった母の代わりに証人尋問の証人として出廷し証言した。
だが、「平和活動家」になっていた娘にとって「母の遺したもの」は「不都合な事実だった。
ちなみに証言者宮城晴美氏はサヨク学者安仁屋教授の教え子である。
証言者は、亡き母の証言を否定し『母の遺したもの』の内容を書き変えて改訂版を出版すると言う。
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宮城氏の証人尋問で次のことが明らかになった。
①宮城氏が、軍による自決命令があったと見解を変えたのは、わずか1月前の本年6月だということ。
②そして宮城氏自身が今も、梅澤さんが自決命令を出したと主張しているわけではなく、
<軍に責任があり、そうであるなら部隊長の梅澤さんに責任があると考えるようになったに過ぎない>と言うこと。
宮城氏は戦後生まれであり、本来なら「集団自決」の証言者の資格はない筈。
だが、母である初枝氏が座間味島「集団自決」の唯一の生き残証人でその証言を死ぬ前にノートに綴っており、
それを娘の宮城氏が『母の遺したもの』として出版した為、証言者となった。
従って、本人の証言というより「母の証言」についての証言者である。
証人尋問で唯一本人の意見としての証言は
「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」という証言。
「そもそも軍としての命令はあったと思う」と言うことはその場に居なかった者の推量であり証言とはいえない。
しかも、そう考える(推量する)ようになったのはわずか1ヶ月前の事。
『母の遺したもの』の中で実際に自決を命令したと記述のある村の助役の妹が一月前、自分の兄である助役を庇う証言を下。
それを聞いて宮城氏は自説(母の証言)をいとも簡単に変えたのである。
助役の妹の証言とは、県議会の現地調査の時に出てきた証言である。
これにについて、裁判長が「本当にその証言でよいのですか」と聞き返したことは「母の遺したもの」の母の証言を、裁判の僅か一ヶ月前に翻したことへの不信感の表れなのでしょう。
ちなみに宮城氏が証言を変えた助役の妹の証言の出た県議員団の「現地調査」が、いかにデタラメな噴飯物だったかは次のエントリーに詳しい。
【新聞が報じない現地調査の実態!】 県議団調査団の醜態この調査には沖縄タイムスの「ねつ造記事」に対する「お詫びと訂正」というオマケ迄付いたいわくつきの調査である。 |
又しても沖縄タイムスが捏造記事訂正 証言続出の「集団自決」
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ところで宮城証言の根拠である『母の遺したもの』の母初江氏の証言はどうなっているのか。
時間をしばし巻き戻そう。
「集団自決」から37年後の、昭和57年6月。
元座間味守備隊長梅澤さんが座間味島で宮城初枝氏(宮城晴美氏の母)に再会した。
その際、初枝氏は、長年一人で抱え続けて来た苦しい胸の内を一気に吐き出し次のように語った。
「隊長は、自決してはならん、弾薬は支給しないと明言しました。そのことを知っている唯一の生き証人です。」
そして初江氏は、梅澤さんに何度も謝罪した。
そして、その翌月の7月。
初枝氏から梅澤さんに、次のような手紙が送られた。
<真実の歴史を残すためには此れから私のやるべき事が残っております。
あの悪夢のような二十五日の晩のでき事は五人の中、私一人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。
後、一人は生きていて欲しかったのでございます。
誰と話す事なく一人で悩んでいる訳でございます。
私の戦後は終っておりません。
今後、下谷さんが悲劇の座間味の本を再発行する事になりましたので好い機会ですので訂正させて頂き度いと思います。当時の島のふん囲気の軍命を出し、誰がも(誰もが)知れない真実を自分一人で知り乍ら、忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。
何時も私の心境は梅沢様に対して済まない気持でいっぱいでございました。しかし、村の方針に反する事はできませんでした。
お許し下さいませ すべてが戦争のでき事ですもの。>(沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会より)
その後、更に初枝氏から梅澤さんに、『とっておきの体験手記』と題する手記の写しも送られて来た。
それには、弾薬を渡すよう村の助役が申し出たことに対し、梅澤さんがはっきりと拒んだことが書き綴ってある。
又集団自決を命じた村の助役の実弟宮村幸延氏が、梅澤元隊長が命令したと証言したことに対して梅澤氏に詫びており、詫び状まで書いている。
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以下は宮城氏地震の筆による「悪用された」とされる『母の遺したもの』、『母の遺言』の抜書きである。
事実はそうではなかった。母は自分の“証言”がもとで、梅澤元部隊長を社会的に葬ってしまったと悩み、戦後三五年経ったある日、梅澤氏に面会して「あなたが命令したのではありません」と〝告白〟しました。しかしそのことが思わぬ結果を招き、母は心身ともに追いつめられることになるのです。
改めて事実を記した手記を出版することで、母は“証言”をくつがえそうとしました。しかしそれだけでは、また別の意味で誤解を生じさせかねません。そこで母は、私にノートを手渡しながら、「これはあくまでも個人の体験なので、歴史的な背景や当時の住民の動きを書き加えてから発表してね」と言い、私も軽く引き受けたのです。でもその時は、そんなに早く母が逝ってしまうとは、夢にも思いませんでした。
『母の遺言』http://www.zamami.net/miyagi.htm
VOL.2 「玉砕」は島民の申し出 援護法意識した「軍名」証言
母は、どうして座間味村の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったのか、その真相について私に語りだしたのは、確か1977年だったと思う。戦没者の33回忌、いわゆる「ウワイスーコー」ど呼ばれる死者のお祝いを意味した最期の法事があると私は聞き、「島の人は何を考えているのだろう」という気持ちから座間味島の取材に出かけたときのことである。
「援護法」とのはざまで
話は1956年にさかのぼった。
沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座簡味村では1953年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから3年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。
この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用習されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのである。つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるという論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。
その「隊長命令」の証人して、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。
母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材・財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。
島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。
それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。
軍と運命を共に
(略) 日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊との交流は欠かせないものになっていた。その交流の中から「戦陣訓」を学び、そしで在郷軍人(退役した地元出身の軍人)からは、中国戦線で日本軍が中国人を相手にた行った残虐な仕打ちが伝えられ、敵につかまったときの惨めさが語られた。
忠魂碑の前に
1945年3月25日、三日前から続いた空襲に代わって、島は艦砲射撃の轟音に包みこまれる。方々で火の手があがり、住民は壕の中に穏れていても、いつ砲弾が飛び込んでくるか、ただおびえているだけであった。
そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令の声が届いたのである。伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している、有力著の一人から一緒に来るように言われ、意味もわからないまま、四人についていったのである。
有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんぱかりのショックを受けていた。
VOL.3「集団自決」時の社会的背景 戦争は「終戦」では終わらない
島の有力者たちがやってはきたものの、いつ上陸してくるか知れない米軍を相手に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返していったが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ぬ前に仲間たちと軍の弾薬は運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。
軍国主義の象徴
伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。
「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へと導いたといってもいいだろう。
海を一面に見下ろせる場所に建てられた忠魂碑は紀元2600年(昭和15年=神武天皇即位以来2600年にあたるという)を記念して、座間味村の在郷軍人会、青年団によって1942年に建立されたものである。
この忠魂碑というのは、「天皇に忠節・忠義を尽くして戦死した者の忠君愛国の魂を慰め、その事跡を顕影する」(『沖縄大百科事典』)ものといわれ、靖国神社と密接なつながりをもち、日本軍国主義思想のシンボルといわれたものであった。
太平洋戦争の開戦日(1941年12月8日)を記念して毎月八日に行れれた「大詔奉戴日(たいしようほうたいび)」の座間味島での儀式の場所であった。これは住民の戦意高揚をはかるのが目的で、儀式の内容は、宮城遥拝「君が代」「海ゆかば」斉唱、村の有力者や在郷軍人会による、戦勝にむけての訓話などであった。
元隊長との再会
この場所に集まれというのだから、住民としてはすぐさま「自決」ど結びつけざるを得なかった。結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、翌日、上陸した米軍を見て住民がパニックを起こして家族同士の殺し合いが始まったのである。
それは「生きで捕虜になるよりは、死んだほうがいい」という戦陣訓と、「敵につかまると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺される」という、皇民化教育や在郷軍人会の教えによるものであった。
母とともに、梅澤隊長のもとを引き揚げ四人全員が「集団自決」で亡くなってしまったため、、戦後、母が“証言台”立たされたのもやむを得ないことであった。
1980年の暮れ、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出で以来、彼の戦後の生活が惨澹(さんたん)たるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分が生きているうちに、本当のことを伝えたいと思っていたからである。
皇民化教育の本質
(略) 母は「事実」を元隊長に話したことで島の人との間に軋礫が生じ、悩み苦しんだあげくとうとう他界してしまつた。(略)
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母の真実の声綴ったノートを元にを出版した『母の遺したもの』。
これを「真実の解明」に利用したら沖縄のサヨクにとって『不都合な事実』が浮かび上がってきた。
これを称して「悪用に責任感じ」とはこのお方、かなり混乱なさっている模様で琉球新報記事も支離滅裂で意味不明。
著書「悪用に責任感じ」 「集団自決」訴訟 (琉球新報 8/14 16:04) <同著が原告の主張の根拠となっていることについて「意図しない形で悪用された。『集団自決』は隊長命令ではなく島の住民が勝手にやったことと責任を転嫁して裁判が起こされ、責任を感じる」と述べた。>