「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

「災害対応に防災の本質なし」「予防に勝る防災なし」

2015-04-22 23:37:42 | 防災学
前期の水曜1限は2年生向け科目「組織の災害対応」。

先週の第1回講義の際、
「今の自分、今の学びの延長で巨大災害でも狂わされない人生は可能か」という、
学年を問わず、学生に問いかけているテーマについて、A4×1枚のレポートを書け、
という課題を出していた。

21枚のレポート添削を何とか済ませ、総評用の1枚紙も作り、講義に向かう。
同じテーマを問うた新入生のレポートの出来に比べれば、もちろんかなりの手応えあり。
しっかり受け止めてくれたようで、科目担当教員としては「これはやり甲斐があるな」、と。

で、第2回講義では、防災の3本柱、「予防・対応・復旧復興」の理念を説明した後、
「災害対応に防災の本質なし」「予防に勝る防災なし」の話をする。

災害対応を教えようという科目にも関わらず「災害対応に防災の本質なし」とはこれいかに?
ではあるのだが、
この点をしっかりわきまえてもらわないと、戦略と戦術、戦闘を間違える話になる。

予防の基本は立地と構造。その背景にあるのは当然のことながら金。
「災害は貧しい者により辛く」「金持ちは死なない」

ベストの危機管理は危機に陥らないことであって、
被害を出さないためにどうやって知恵と金をかき集めるか、が、本来あるべき災害対策。
しかし、残念ながらその本質あるいは戦略を見抜いている者がどれほどいるか。
という訳で、「あんなところに○○を建てるなんて……」という事態が、相変わらず続く。

予防し切れればベストだが、被害が出てしまったからには、対応が求められる。
縦割り行政の中で、いかに関係機関を取りまとめ、人的物的資源を有効活用して、
避けられたはずの死を限りなくゼロに近づけるか。
これはこれで、洗練されたプロのセンスが求められる。

まぁ、センスというよりは、
関係する組織について「どのボタンを押せば何が出てくるか」の理解であり、
「誰に何を頼めば何ができるか」という人間関係がどこまで頭に入っているか、
の問題であるとも言えるだろうが。

災害対応に従事する組織といっても、国あり都道府県あり市町村あり、
消防、警察、医療、ボランティア等々、さまざまある。
それらのすべてを語り切れるというほど自惚れてはいないが、
それでも、理解している限りは学生にぶつけてみるつもり。

30名にも満たない履修学生数ではあるが、
嬉しいことに、積極的に学生が質問してくれる。
こういう手応えのある学生と議論を続けていければ、
そしてその学生が自分の足りないところに気付いてダブルスクール等で精進してくれれば、
何人かは社会人の卵として、面白い組織に勤められるようになるかもしれない。

それが、地方私大の教員にとっての教育者としての楽しみ、ということなのだろうなぁ。

嬉しいことにFB上にOBからメッセージが届く。
OBが後輩の4年生と共に食事をしつつ、進路の相談に乗ってくれたのだそうな。
この関係、何としても維持し続けなくては!

時事問題討論ゼミに新入生3名が出席&彼らと夕食を共にする

2015-04-21 23:32:27 | 小村ゼミ
「学びの雰囲気のない大学」と、自らが属している大学のことを言いたくはないが、
偏差値的に底辺にある地方私大の現実は、覆い隠しようもない。

ただ、そのような状況を「百も承知、二百も合点」の上で、
何とか前を向いて活動していきたい、と思っている教員もいる。
かつ、ありがたいことに、その思いをわかってくれている学生が研究室に入り浸っていてくれている。
現4年生M君がかつて言ってくれた「小村研究室は(まじめに将来を考えている学生にとっての)避難所」というのは、
最高のほめ言葉であった。

で、その、前を向いて「社会人の卵としてまともなスタート地点に立たせる」ため、
ボランティアで開講しているのが時事問題討論ゼミ。今日火曜日5限からスタートした。

毎度のことながら段取りが悪く、多くの学生にはまだ開講情報が行き渡っていない状況。
それゆえ何人が顔を出してくれるか、という話だったのだが、当方としても意外なことに、
新入生が3名顔を出してくれた。
(2年生以上は一体何をしているのだろう、というのは、まぁ、問わないことにしよう……。)

時事問題討論ゼミといっても、特段のテーマを考えてのことではない。
自腹で取っている朝日、日経、静新の今日夕刊の1面トップ記事から1つを選び、
そこから話の拡がるままにおしゃべりをしただけ、だったのだが……。

静新の4月21日夕刊の一面トップは、静岡茶市場の「新茶初取引」。
というので、話の始まりはお茶だったが、メモによれば、
茶道・華道・道・修行・假屋崎省吾・千利休・クールジャパン・テーブルマナー・
外国人に教える前に私達自身が知っているか・学ばずの罪教えずの罪・
「何かわからないけれど凄そう」というのをどれだけ提供できるか・
「面倒くさい」の一言で片づける者・思考放棄との闘い等々、
意外なほど話は面白く展開した。

防災研究者としての「旅の坊主」として、やるべきことがある。
それを、新入生相手の茶飲み話で誤魔化していてよいのか、との思いも、ない訳ではない。
(誤魔化すなどと言うと、学生には申し訳ないが、本気での集中を要する時間ではない、
という意味で、ご理解願いたい。)
その時間があれば「モノを書け」ということが問われている、と、一方で思いつつ、
またそのほうが、大学教員としては「賢い」生き方なのだろう、ということも理解しつつ、
それでも、研究室に学生を招き入れての議論が好きな「旅の坊主」であった。

妙な勢いで、昨日に続き、いつもの!「丸天」に連れて行くことになった。
途中、英語科のS先生を呼び出して、5人での夕食となる。

思い起こせば26年前の春から数年間、何かあれば夕食に誘ってくれた方がおられた。
その方とお会いできたからこそ今の自分がある。このことは間違いない。
いつの間にか、その当時のその方の年齢に「旅の坊主」も達してしまっている。

そのことを思う時、学生たちに対して、「この人との出会いがあったからこそ今の自分がある」、
そう言ってもらえるだけの活動を、どこまでやれているだろうか。

自らに問うべきは、やはり、そのような活動を出来ているかどうか、なのだろうな。

新入生2名を丸天デビューさせる

2015-04-20 23:52:18 | 小村ゼミ
土日が学部新入生との新人キャンプ、今日月曜の3限に1年生向け「災害と人間社会」、
さらに5限に下級生向け日本語力補習講座(注「天声人語」の書き取りをみんなでやろうという時間)と、
1年生と一緒の時間を過ごすことが続いていた。

5限終了後、今日の書き取りの「ノルマ」達成までもう少し、という1年生が2名いて、
で、小村研究室に場所を移して天声人語の書き取りを続けるよう声をかけた。
(教室を清掃して下さるおばさま方をお待たせしては申し訳ないので。)

考えてみれば、こちらから声をかけたこととはいえ、
入学から2週間で、大学教員の研究室を自習室代わりに使おうというのだから、
ある意味、凄いことなのかも。
まぁ、それが出来るのが本学のような小規模大学の持ち味。
聞けば、二人とも自炊を始めたばかりで、まともに食事を作っていない模様。
それじゃぁ、ということになり、ノルマ終了後、いつもの丸天に行くことになった。

小村ゼミ&拡大小村ゼミ御用達の魚河岸丸天。
この店に通うようになって16年目になろうというのだから、月日が経つのは早い。
卒業式の後、卒業生2名を送る会を持ったのも、この丸天だった。
学生との、また教員仲間との、思い出の舞台となっているこの店。
県内ではあるが、在来線で片道2時間近くかかる場所が実家の新入生2人にとって、
もちろん今日が丸天デビュー。

自炊メニューと比べれば、そりゃまぁ丸天の食べ応えは十二分。
しっかり食べている若い世代を見ていると、こちらも良い気持ちになる。

嬉しいことに、入学式からわずか2週間の新入生なれど、
「自分を高めたいならば、小村先生の講義を受けるように」という風評はあるそうな。
「頑張らなくては」という自覚はあるようで、それゆえ天声人語の書き取りの会にも参加したし、
研究室で作業を続けないかという声掛けにも物怖じせずに反応した、ということらしい。

早稲田大学の校歌に「集まり散じて人は変われど」という一節がある。
「仰ぐは同じ木」ならぬ「集う(食す)は同じ店」ということ、か。

大学教員として、学生教育の分野では何が出来るか。

我々の思いを継いでくれるような大学人を育てるのは、本学学生の水準では厳しいかもしれないが、
それでも、防災と地域貢献にセンスある人材ならば、ゼミから送り出せるかもしれない。
中米からの帰国後を新生小村ゼミと考えれば、今日丸天デビューした学生は6期生となる。
願わくば、彼らの後をついで、しっかりと育ってもらいたい。
そのためにも、まずは先輩と触れ合う場を作らなくては、ではあるな。
上級生諸君、新1年生には面白い学生が2人はいるようです。

今年も学生に内田樹著『下流志向』を読ませようと思う

2015-04-19 23:38:23 | 小村ゼミ
週明け月曜は2限に2年生向け「現代社会と安全」、3限に1年生向け「災害と人間社会」、
そして5限にボランティアで担当している「天声人語書き取りゼミ」の3コマ。

「現代社会と安全」は、本当ならば、これから先の人生を安全・安心に過ごすための、
全般的な教養をみにつけさせるための科目であるべき、とは思っている。
ではあるのだが、地方私大&偏差値的に底辺にある本学の現実を考える時、
彼らが人生を安全・安心に過ごすためには、まずもって、まともな職に就けるかどうか、
これが、決定的な重要性を持つ。

という訳で、学生には、ひたすら、現実を直視させるような資料を読ませ、
格差社会がどのようなものか、それでいて学びから逃走している若者は何なのか、
社会人経験もないのに世の中のすべてを判断できると思っている愚かさとは何なのか、
等々を、資料を読ませ、レポートを書かせ、議論するような講義を行っている。

ここ数年、初回か2回目かの講義の際、
内田樹先生の『下流志向』(講談社文庫)の一部を抜粋して読ませている。
印象深いフレーズが幾つもある。

*****

「学びからの逃走」は先人の民主化と人権拡大の営々たる努力の歴史的成果としてようやく獲得された「教育を受ける権利」を、
まるで無価値なもののように放棄している現代の子どもたちのありようを示す言葉である。
彼らはこの「逃走」のうちに「教育される義務」から逃れる喜びと達成感を覚えているように見える。(10頁)

「仕事をするか、しないか、それは私が自己決定することだ。法律でがたがた言われたくないね」と
ほとんどの人は思っているはずである。しかし、……労働は私事ではない……。
労働は共同体の存立の根幹にかかわる公共的な行為なのである。(10~11頁)

弱い動物はショックを受けると仮死状態になります。
そのように心身の感度を下げることで、外界からのストレスをやり過ごすというのは生存戦略としては「あり」なんです。
おそらく、現代の若者たちも「鈍感になる戦略」を無意識的に採用しているのでしょう。(32頁)

教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、
教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、
言うことができないということにあります。(55頁)

二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが世の中には無限に存在します。
彼は喩えて言えば、愛用の三十センチの「ものさし」で世の中のすべてのものを測ろうとしている子どもに似ています。
その「ものさし」では測れないもの、例えば重さとか光量とか弾力といったことの意味を「ものさし」しか持たず、
それだけで世界のすべてが計量できると信じている子どもにどうやって教えることができるでしょう。(90頁)

*****

全員が全員、反応してくれるかどうかはわからない。
下手をすると、半数以下しか反応してくれないかもしれない。
それでも……。

「都合の悪い現実はないことにする」というのも、弱い人間の生き方としては「あり」かもしれない、
と、頭のどこかでは思いつつも、
これでは、巨大災害が予定されている人生の中で、たくましく生き抜いていくことは出来ない。
これは明々白々なこと。

「ほめて育てる」というのもあるらしいが、本当の実力は試練に耐えてこそ身に着くもの、
と「旅の坊主」は考えている訳で、
たかだか文庫本の、それも数十頁を読ませることは、試練という言葉に値するレベルではもちろんないが、
でも、これをぶつけてみた時、学生諸君がどういう反応をするか、
そこはしっかり見ておきたい、と思っている。

障害を持つ者が当たり前に在宅で生活できる地域づくりと、彼らの防災への誘い(その5)

2015-04-18 23:33:45 | 障害者防災
先週日曜日午前の障害者防災についての濃いぃ議論、まだ紹介し切れていない。
というので、もう少し、この話題にお付き合い下さい。

※ 昨日の更新時、ブログのカテゴリーに「障害者防災」を加えました。
というので、これからは、この種の話題はこの「障害者防災」でくくることにします。
その1からその3についても、この機会にカテゴリー分けを変更しました。

Uさんからの問題提起に、こういうものがあった。

「当事者だから、という意見(小村注:主張・要望・要求・反論等)がどこまで通るのか。
当事者の言うことだから聞かなくてはならない、と言われているようだが、
必ずしもそうではないのではないか?」

こういう直球での議論が出来るメンバーが集まっていたことに、改めて感謝したい。

Mさんからは、以下の主旨の発言があった。

障害者の方の中には、
(小村注:Mさんの発言には具体的な障害種別への言及があったのだが、その部分は小村の判断で外しました。)
「(自分は)障害者だから何もかもやってもらう(やってもらえるのだ)」という感覚で臨んでいる人もいる。
個人的な必要の範疇、また、障害のあるなしに関係なく自分でするべきことがらであっても、
「障害者だからやってもらえるのだ」と思っている人が(それなりの人数・割合で)いる。

「(障害のあるなしに関係なく自分でするべきことがらを)そこを皆さん方はやれていませんよ」
「皆さん方の主張は少しおかしいですよ」

Mさんからすれば、そういう議論ができる関係性を作っていくべきであり、
またそういう関係性こそが、障害を持つ者が当たり前に在宅で生活できる地域には必要不可欠、なのだ、という。
なるほど、おぼろげながらイメージしていたことではあるが、
そこまではっきりと意識していなかった「旅の坊主」がいた……。

障害を持つ方々の側には、「自分は○○までは出来る」というラインを示してもらいたいこと、
また、(丸投げ/やってもらって当たり前、ではなく)「○○をしてもらいたい」ということを、
しっかり言葉で説明できるようになっていてもらいたい、と。

言葉で説明できるようになっていれば、外部支援者にも、何をすればよいか、ある程度は理解できる。

普段から接している支援者であれば、何を支援してもらいたいのかを理解している訳で、
最適な支援を作り出すことが出来よう。
しかし、災害時などで通常の支援者が対応できなかった場合、
運よく別の外部支援者が見つかったとしても、
初めて関わった人が、障害を持つ自分に最適なものを提供してくれるかどうかは、当然、わかるはずもない。

障害に個差は大きく、当然のことながら出来る範囲も、出来ないが故に他者に望む範囲も異なる。
だからこそ、しっかりと言葉で伝えられるように、と。なるほど、そりゃぁその通り。

そして支援者との関わりの中では、少なくても平常時においては、
当事者が言っていることすべてを鵜呑みにするのではなく、
おかしいことをおかしいと言える関係性を作っておけるように。

あるべき姿はその通り、と思いつつ、一朝一夕に出来る話でないことは明らか。
それでも、求められる方向性はこういうことなのだろう、とは思った。

当事者の側に求められることは他にもあるのだろうが、それはまた改めて。