「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

年の終わりに

2014-12-31 21:37:06 | 日常の一コマ
振り返ってみると、少しは情報発信を心がけた、
また&具体化出来た1年だったのだろう、と思っている。

『近代消防』誌上での連載が6月からスタートし、
10月からはブログ&facebookでの情報発信も続いている。
だから何か、というほどの中身ではないが、それでも、
発信続けることにより、何かを変えられるかも、との思いはある。

まぁ、もう少し、洗練されなくてはならないのだろう、とも思ってはいるが。
(洗練などという言葉、「旅の坊主」の柄には合っていないのかもしれないが……。)

査読論文ではないものの、DIGについての論文も1本はまとめられた。
まぁ、プロ相手というよりも、一般市民相手の仕事ゆえ、
論文を書くよりも文庫・新書にまとめてナンボ、ということなのだろう。
とすれば、それは来年以降の課題に。

質はともかく、文章にまとめることで、
「旅の坊主」が取り組むべき課題も少しは整理されてきたようにも思っている。
理念の問題のみならず、仕掛けるべき活動についても同様。

多くの課題が越年してしまった。
与えられたチャンス、しっかり逃さないように、しなければ、である。

いろいろとお世話になりました。
来る年が良い年でありますように。

防災学とは何だろうか(その6)

2014-12-30 23:37:43 | 防災学
「災害対応に防災の本質なし」と、いろいろな場所で強調しつつも、
「旅の坊主」自身、防災に関心をむけるようになったのは、
自衛隊の災害派遣の研究に携わるようになってから。
つまりは、元々は災害対応のあり方を考えていた人間。
また、はばかりながら日本集団災害医学会の創設時からのメンバーでもあり、
災害対応の重要性は、もちろん、理解しているつもり。

災害対応には一種の芸が求められることは感覚的に理解しているが、
それが学問の言葉に相応しいものなのか、を問われるならば、さて、どうなのか。
ただ、多くの実学が、単なる経験値ではなく学のレベルまで高めていることを考えるなら、
災害対応も、芸ではなく、学として、育て上げていかなくてはならないのだろう。

それはそれとして。

防災を3本柱で考えるならば、最後の一つは復旧・復興。
被災を受けた個人・家族が、また、地域社会を、どのように「新しい現実」へと軟着陸させるか。
いわゆる「援助漬け」にしてしまうことなく、
内在的な力を常に呼び起こしつつ、外部の支援をいかにうまく活用するか。
既存の(外部からの支援の)制度をどう活かして、自立(自律)へと誘うか。
そこにも、単なるノウハウの集大成、ではない、体系性が求められるのだろう。

実のところこの分野は、「旅の坊主」にとっては、十分な「土地勘」のない世界。
すでに、災害復興学会も立ち上がっており、幾つかの大学には災害復興研究所もある。
阪神淡路大震災は当然のこととして、その災害以降も、
幾つもの災害・幾つもの自治体における復興事例はある。
事例の集大成をどうすれば学となるのか、それは、これからの精進次第、
ということなのかもしれないが……。

学であろうとなかろうと、大学人の社会的責任として、
被災者・被災社会からの相談には応えられるような、そういう存在でありたい。
それはそれとして。

「ピカピカのゴーストタウンを作ってどうするのだ?」とは、
東日本大震災の被災地で何度となく聞き、「旅の坊主」自身も考えさせられていること。

外部から持ってくる額を高めようというのであろうか、
分相応あるいは等身大とは思えない、「ポンチ絵」「将来像」「構想」を示すことが、
効率的な外部支援の活かし方とは思えない。
高齢化・少子化が進み、社会の活力が低下し、
その中で東京一極集中の傾向は今後も進むだろう。
(つまりはその裏側の地方衰退も同様に進むだろう。)
そのような状況下でも、被災者・被災地がそれなりのものを受けられるような、
そしてそれが、遠くない将来に外部支援抜きでも自立(自律)できるような、
そのような仕組みを作り上げていくこと。
防災学には、その種のものも求められている、ということ、なのだろう。

災害復興学会の活動についても、しっかりとフォローしていかなくてはならないな、と。
今更、ではあろうが、学ぶべきことは多い……。


防災学とは何だろうか(その5)

2014-12-29 23:19:17 | 防災学
どれだけ予防に力を入れたとしても
(その実、災害対応に比べて、どこまで予防に経費をつぎ込んでいるのか、
またそれが、コスト・パフォーマンスに見合うものなのか、大いに疑問ではあるのだが)、
現実社会の中では被害をゼロにすることはできない。

その意味で、出てしまった被害を局限するための備えも、当然に求められる。
「災害対応」「応急対応」「緊急対応」等々の言葉で知られている世界。
実働3省庁(ないし4省庁)+医療の世界。「人の生き死に」に直接関わる世界。
そして、世の圧倒的多数が「これこそが防災!」と誤解をしている世界、でもある。

(繰り返すが「予防に勝る防災なし」!この基本線は決して見失うな!)

もちろん、特有の「知識」「ノウハウ」「センス」があり、
加えて「人間関係づくり」が求められる。
まぁ、人間関係づくりも含めて学か、と問われるならば、
「アカデミック」という言葉が持つ雰囲気とは異なるのだろう、とは思うが。

縦割り行政に「横串をさす」のは、一義的には、アカデミックの世界の人間が果たすべき社会的役割、
ではないと思う。
(「旅の坊主」個人としては、その種の役割を頼まれたならば積極的に応じたい、とは思っているが。)

ただ、災害時の組織間連携については、各組織の初任教育において、
(資格職の場合は資格取得に向けた基礎教育においても)、
関係組織の持ち味と限界も含めた教育が必要なことは間違いない。
己の限界を知ってこそのプロ、なのだろうから。

災害対応に従事するプロの世界と、アマチュア(≒住民・市民)の関係については、
しっかりとした議論が必要であろう。

アマチュアは何もしない(出来ない)、ただプロの人間がやることを見ていればよい、
という話でないことは間違いない。
もちろん、現場の危険度によっては、素人さんが携われるレベルでない事態も十二分に考えられる。
その意味で、例えば捜索救助活動中の現場に防災ボランティアを投入せよ、という議論は、
かなり乱暴な議論だと言わざるを得ないと思っている。
(専門職ボランティアの可能性を否定するものではないが、その域に達している人材が、
いったいどれほどいることやら……。)

とはいえ災害現場は、「その場にいる人」の動員なくして何とかなるような代物でないこともまた明白。
まずは、専門性がなくても体の自由がきく限りは「やれることはやろう」という、
住民・市民に対するその種の意識付けは間違いなく必要。

(傍観する=見殺しにしたいのか、と露骨に言いたいとは思わないが、
でも、気持ちとしては、そんなところ。)

実働省庁の人間に、その場にいる素人さんの「戦力化」の方法論を学んでもらうことも、
必要なのかもしれない。

まぁ、これらがアカデミックの話に馴染むのか、と問うならば、
どうも違いそうだ、という感覚ではあるのだが……。

学校教育を含む「健全な一般市民はいかにあるべきか」の基礎教育の中で、
この種の意識付けを図る必要はある。という訳で、
(言葉として好きではないのだが)公民教育の中身を考えること、
これはこれで、一つのサブフィールドとしては成立するのでは、とは思っている。

うーん……。
考え方があまり整理されていないなぁ……。

「ホンモノ度」の確認

2014-12-29 00:56:36 | 日常の一コマ
冬休みの徒然に。
(さて、どんな反応があることやら……。)

年明け早々の箱根駅伝。

バラ撒く札びらには事欠かないある宗教団体(&その直系の政治団体)の系列大学が、
箱根駅伝に初参戦するのだそうな。

神奈川県警は臨戦態勢をとったとか、とらなかったとか。
そんな噂が富士の片田舎にいても聞こえてくるくらいなのだから、
まぁ、相当なもの、なのだろう。

教徒か信者と門徒か会員か、その呼び名はどうでもよいことだが、
本気で全国動員をかければ、沿道はその大学(≒宗教団体&政治団体)の旗で埋まるであろうことは、
誰がどう考えたってわかりそうなもの。
で、それが、NNN系列で正月のお茶の間に全国中継???

能力的には十二分にできることだろうが、それをやるかやらないかで、
その宗教団体(&直系政治団体)の「ホンモノ度」がわかる、そんな風に思っている。

「分」という言葉、彼らが辞書を作っているかどうか知らないが、どのように書いているのだろう。

武田信玄は「戦は五分の勝をもって上となし、七分を中とし、十を下とす」と言ったと記憶している。

さて、年明け1月2日と3日、どういう光景になるのか、大変楽しみである。

(余談ながら、佐藤優さんが書かれた「ある本」(注:未読)が気になって仕方がない。
書評を読む限りだが、なぜ佐藤優ともあろう者が、と思ってしまうのだ……。)

防災学とは何だろうか(その4)

2014-12-28 21:56:30 | 防災学
断捨離(≒仮寓&研究室の大掃除)はなかなか進まないが、
それはそれとしても、情報発信は続けないと。

というので、1日1000字程度のブログの更新は、冬休みの重要事項になりつつある。
(つまりは、まだ、習慣となっている訳ではない、ということなのだが……。)

自然を理解することにより、災害リスクの有無・大小を判断できるようになってくれ。
これが、防災の狙いの半分か1/3か、防災学の何本柱かの1本であることは間違いない。

この場所に住むならば、この家に住むならば、リスクはどのくらい大きいのか。
場所に起因する災害リスクは多種多様。まぁ、地図を読めばだいたいの見当がつくが。

少なくても、「○○危険××」の看板の近くには住むべきではない。
ゾーニングされた時に(注:既存のゾーニング≒看板があろうとなかろうと、の意味)
レッドやオレンジになりそうな場所の近くにも住むべきではない。
それくらいは「小学○年生」の常識にしないと、である。

現行基準の家であれば、免震構造でなくても震度6強で「グチャ」となるとは考えにくい。
そのレベルまでは、日本の建物の耐震性は良くなった。

長野県北部の地震による建物被害を見ても、
つまりは、断層直近(直上)の、まず間違いなく震度7であろう揺れを受けたとしても、
雪荷重も織り込んで(あるいはそれなりの負荷も意識して)建てたならば、
「普通の!」家であっても死者を出さずに済むレベルまでは来ている。

建物の代替わりが進んでいけば、社会全体の耐震性も高まっていくことは間違いない。
空家対策をしっかりやっていけば(⇒それはそれで大きな課題なのだが)、そして、
人の代替わりも期待できる地域であるならば(⇒人口流出の一方という地域は厳しかろう)
10年単位で見れば、それなりに、地震に強いまちへと成長していくことも期待出来る。

では、よりリスクの少ない環境へと、どうやって社会全体を導いていけばよいのか。

政治の仕事とも言えるし、教育の仕事とも言えようが、
政治や教育が目標とすべき価値の議論に、防災はもろに関係している。

安全で安心な社会の実現。多少の自然の暴力があってもそれに耐えられる社会の実現。

抽象的な表現だろうが、防災(防災学)が目指すべき価値は、こういう話だろう。
そこには、政治信条(の違い)が入る余地は、少なくても表面的にはない。

経済的な思想信条については、間違いなく本気の議論が必要!
何せ、新自由主義経済などは、個別の人間の(特に比較的低所得者層の)生活など、
まったく、かけらも、考慮しないものなのだから。

(新自由主義経済の信奉者は、
己はその「おこぼれ」に預かれるほど優秀なのだと、本気で思っているのだろうか……。)

防災が(また防災学が)目指すべき価値について、本気での議論が必要なのは、
価値実現のために投入できる資源が限られている場合の、
例えば利便性や快適さ追求との価値の衝突をどう考えるのか、であろう。

本人が十分な理解力を持ち、必要かつ十分な情報を得た上での話だろうが、
納得した上での選択であるならば、外部がどうこう言う話ではなかろう、
とは思っているのだが……。

まぁ、そのための前提条件作りから、
防災学は取り組まなくてはならないのだろうが。