「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

改めて阪神淡路大震災の教訓を考える&伝える

2015-05-18 23:19:45 | 阪神淡路大震災
今年も、前期毎週月曜の3限、1年生向きに防災&防災学についての入門科目、
「災害と人間社会」を担当している。

時の流れとは本当に早いもので、この科目を担当するようになって16年になる。
1、2年目は、「この種の全般的な話は、もう少し年が行ってからのほうがよい」などと思っていたが、
15年生ともなれば、それなりのことは語れるようになったつもり。

今日は、先週に引き続き、阪神淡路大震災とは一体何だったのか、
そして、その教訓として何を学ぶべきかについて話をする。

たかだか90分やそこらの時間で語りつくせるはずもないが、
平成の時代の防災を決定づけた災害ゆえ、
東日本大震災について触れる前に、やはり、一通りのことには触れておきたい、と思う。

40代半ば以上の防災研究者にとっては、阪神淡路大震災はいわば原体験(の一つ)であろう。
「旅の坊主」にとっても同じこと。
年1回、この講義のために過去の諸々を見直す時、改めて、今に至る原点だった、との思いを新たにする。

まだ、モノが見えていなかった。今から思い起こせば、恥ずかしいほどにモノが見えていなかった。
防災研究者の端くれという自覚はあったものの、本当に情けない限り。
その自戒も込めて、学生には、まずは建物の耐震性があってナンボ、との議論を展開している。

「間違った防災教育による刷り込み」の悪影響は、大変大きい。
耐震性に欠ける旧耐震基準時代に建てられた日本家屋は、ものの8秒で一階が潰れる。
幸いにもEディフェンスでの実験映像があり、学生には多少のイメージを持たせることも出来る。

富士市在住の人口が約26万人。約9万棟の建物があるのだそうな。
そしてその中の約2万棟が、古い耐震基準時代に建てられたもの、とのこと。

Eディフェンスでの実験によるものだが、阪神淡路大震災の揺れを2回ぶつけてみたら、
1回目の揺れには耐えた補強済の旧基準家屋であっても、残念ながら持たなかった。

90年から150年に一度の周期でこの地域を襲ってきた巨大災害。
今の大学1年生が40代になるころ、次が来るだろう。
建物の耐震性確保は、補強ではなく建て直しによって、と思っている。

この時代ゆえに強調しなくてはならないのが格差社会との関連。
「長期蓄積能力活用型」(つまりは幹部候補生の正社員)か
「高度専門能力活用型」(つまりは高度な専門能力を持つスペシャリスト)になれればよい。
しかし、Fラン地方私大の現実をしっかり見つめておかないと、
「雇用柔軟型」(つまりは使い捨ての檄安い労働力)になってしまう。
(以上の表現は雨宮処凛『排除の空気に唾を吐け』講談社現代新書、による)

一方で、「おはしも」「非常用持ち出し袋」「避難場所・避難経路の確認」等々ではどうにもならない現実を、
他方で、ボーナスも時給アップも望めない派遣や請負になったら、まともに住居費も出せないんだぞ
(=耐震性が確保された家に住める保証はないのだぞ)、という現実を、
新入生諸君にはしっかり見つめてもらいたい、と思う。

そして、先に生まれた者として、かつ防災を専門とするのみならず妙に現代社会に関心を持つ者としては、
それを伝えるのが己の義務だ、とも思っている。

次週からは東日本大震災の話に入る。
「鉄は熱いうちに打て」の1年生相手の防災&防災学入門科目。こちらのスタンスも問われている。

阪神淡路大震災から20年の日に

2015-01-17 21:46:27 | 阪神淡路大震災
あの日は三連休明けの火曜日だった。

94年の年末から95年の年始にかけて、思うところあって、中東を一人旅していた。
自衛隊がゴラン高原にPKO部隊を派遣するとかしないとか、そんなことが言われていた時代。
ゴラン高原を見ないことには話が始まらないではないか、というので、
悪名高き(!)アエロフロートのモスクワ経由カイロ便という安い航空券を買い、
あとはまぁ、何とかなるだろう、というので、60Lのザック一つで旅立った。
ピラミッド、シナイ山、砂漠、紅海、死海、アレンビー橋、ガザ地区、等々。

年末年始休暇に少し年休を足したので、帰国したのが8日だったか9日だったか、
実のところ、それは忘れてしまったのだが、数日経って旅の疲れが出たのか、
1月14日、15日とひたすら眠っていた。

さすがに16日は「もう眠ることが出来ない」で、徹夜明けとなってしまった、
その17日朝の「ドン」だった。

最初のうちは、状況がよくわからず、「まずは静観か」と思っていたが、
昼前後になると、これはただ事ではない、ということとなり、
「これは何とか行かなくては」と、モードが切り替わった。

金曜日までの休暇届を出して、旅立ちの準備をして、
誰か一緒に行ける人はいないか、と、知り合いに声をかけてみたところ、
市民防災研究所の岡島惇さんが「私も行ける」ということになり、
忘れもしない、18時21分発の「のぞみ」で、まずは京都まで行くことになった。
(発災当日の17日は、新幹線は京都までしか運転していなかった。)
1つのお弁当を二人して分けて食べたのは、今でも会う旅に話題に出ること。
阪急・大阪地下鉄と乗り継いで、天王寺のホテルにたどり着き
(よくホテルが取れたもの!)
近くの「ロイヤルホスト」に入って、今でも鮮明に覚えているのが、
何事もなかったかのように、「ロイヤールナーイ(ト)」のBGMが流れていたこと。

持参したラジオからは神戸の惨状が流れてくるのだが、
天王寺では何ということもなく、普通に食事が出来ている。
直下型の地震というのはこういうものなのだな、と、理屈では知っていたが、
それが初めてリアルなものとして理解出来た瞬間だった。

翌日、日米都市防災会議のツアーバスに便乗して、初めて現場に足を踏み入れたのだが、
そこから先は、また、どこかで語る機会もあるだろう。

センター試験の試験監督業務が無事に終わり(幸いにも初日のみでお役御免となる)、
原稿未提出で山梨県社協の方にご迷惑をおかけしている分、缶詰にならないと、と、
(仮寓では幸か不幸か緊張感が抜けてしまうのであった……)
どこかで聞いたような話を繰り返すべく、20時半を過ぎてから甲府までの旅に出る。

同僚S先生の一言が印象に残っている。
「東日本大震災がなかったら、この阪神淡路大震災20周年は、
ここまで取り上げられただろうか」、と。

「旅の坊主」がこれから取り組む、山梨県社協に提出原稿の、書き出しは決まっている。

「あの阪神淡路大震災から20年、東日本大震災からもうじき4年。
これらの大規模災害を経験しても、日本の地域防災は、
『間違った防災の常識』に毒されたままになってしまっている。
この『間違った防災の常識』を改めなくては、
これらの災害でお亡くなりになった方々に申し訳が立たない。」

「教訓を伝えていかなくてはならない」と、今日、多くの人が言っていることだろう。
では、その伝えるべき教訓とは一体なにか?
どこまで理解した上で、そのことを伝えているだろうか。

Yahooのトップページには以下の一言があった。

「地震はいつ起こるかわからない。
過去の教訓をいかし、防災・減災へ。」

過去の教訓を本当に理解していたら、こういう言葉にはならないはず。

プレ阪神淡路大震災世代の防災研究者の端くれとして、
「旅の坊主」が果たすべき役割、まだまだ山ほどある!