「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

【アウシュヴィッツ・ビルケナウへの旅で考えたこと(その2)】

2018-01-09 23:39:58 | 日常の一コマ
今回の旅では、読めるかどうかは二の次で、相当数の本やDVDを持って来た。
その中に、アウシュヴィッツの収容所長をしていたルドルフ・ヘスの手記『アウシュヴィッツ収容所』(講談社学術文庫)がある。
少し長いが、その冒頭に置かれた「訳者まえがき」を引用することで、
アウシュヴィッツ&ビルケナウで「旅の坊主」が考えたことの一端をお示ししたい。

(訳者は片岡啓治氏。思想評論家。訳者まえがきの日付は1972年8月!
ということは、45年以上前には、これだけの議論はなされていたことになる。
まったく古さを感じないということは、いったいどういうことだろうか。)

「ヘスの恐ろしさ、そしてナチスの全行為の恐ろしさは、
まさに、それが平凡な人間の行為だった、という点にこそある。
どこにでもいる一人の平凡な人間、律儀で、誠実で、それなりに善良で、
生きることにも生真面目な、そういう一人の平凡人(小村注:ルドルフ・ヘスのこと)が、
こうした大領虐殺をもあえてなしうるということは、
誰でもが、あなたであり、私であり、彼であるような、そういう人物が、
それをなしうるということにほかならない。

命令だったから、職務だったから、仕方なかったのだ、といういい方がある。
事実、ニュルンベルグ、また東京の国際軍事法廷で、戦争犯罪、
残虐行為の罪をとわれた者たちの多くが、そういういい方をした。

たしかに、〈組織と人間〉といった図式からすれば、そういう言い方もなりたつかのようではある。
だが、そのいい方を逆にすれば、命令、職務とあれば、人間はどのような残虐な行為でもなしうる、ということになるだろう。
恐ろしさはまさに、人間が、それもごく当たり前の普通の人間が、職務、命令の名において、
それをなしうる、というそのことにある。
しかも、その責めを問われれば、職務であり、命令だったから、ということで免責されるならば、
その行為の真の責任は誰の者となるのだろうか。

かつて、加害者の側に、命令だからという免責の仕方があったとすれば、
その行為を異常人の仕業といいなした被害者のいい方には、それとみあう免責の働きがあったといえよう。
あれは異常人の行為、ということは、自分たち正常なふつうの人間にはそういうことは起こらない、
という自足につらなったからである。
しかし、平凡なふつうの人間誰にでもこのことは起こりうるとしたならば、
もはやどういう意味でもこうした免責はありえず、一方的な被害者、加害者の区別はなりたたなくなる。

(中略)

ナチス・ドイツは、たんに暴力的強制によってだけではなく、
まさにヘスであるような無名の普通人たちの自発的な参加、行動がなければ、成りたちもせず、
存続することも出来なかった。」

「歴史を記憶しないものは、再び同じ味を味あわざるをえない。」
アウシュヴィッツ4号館の入り口に掲げられていた、ジョージ・サンタヤナ(哲学者・詩人・評論家)の言葉。

自分も、一つ状況が変わっていたら、ヘスやアイヒマンのようになっていたかもしれない、
そういう「自分自身への怖さ」をみながみな、持てるようになれば、
最悪の状況は防ぎ得るのかもしれないが、今の日本で、それは可能なのだろうか……。

【アウシュヴィッツ・ビルケナウへの旅で考えたこと(その1)】

2018-01-08 23:36:46 | 日常の一コマ
今年最初の旅はポーランドとドイツへ。

6日(土)、1月期「ふじのくにDIGセミナー」を終えたその足で羽田空港に向かい、
翌早朝の便で北京・フランクフルト経由、ポーランドの古都クラクフに着く。
時差ボケの抜けきらない今日8日(月)、当地は子雪交じり。
クラクフ駅前のバスターミナルから1時間半ほどで
世界遺産「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制・絶滅収容所」に着く。

午後イチから3時間ほど、アウシュヴィッツ博物館唯一の日本人公式ガイド、中谷剛さんの案内で、
アウシュヴィッツ強制収容所とビルケナウ絶滅収容所を見学する。
(注:広義には両者+αの総称がアウシュヴィッツなのだそうな。
狭義には前者をアウシュヴィッツ第1、後者をアウシュヴィッツ第2と呼び、
他にアウシュヴィッツ第3収容所と、中小の支所的収容所も数多くあったと教えてもらった。)

思うところは多々ある。本当に多々あるが、今日のところは、中谷さんの発言の中に、
つい先日このブログで書いたのと同じ主旨のものがあったので、その点について書く。

ヨーロッパでは、結果(例えばアウシュヴィッツ・ビルケナウ)を見せた上で、
その原因は何だったのか、を考えさせる授業をしているのだそうな。
原因の原因、さらにその原因と、どこまで遡ることが出来るかはさておき、
民主主義の制度に反することなくヒトラーが政権をとったことは歴史的事実。
(全権委任法以降はともかく首相指名に至る道筋は疑問の余地なく制度に違反していない。)

中谷さんは、案内の中で「責任の放棄が独裁者を生む」と語って下さった。
大衆迎合であり、みんな(多数派)が言っていることについていったからではないか、とも。
さらには、たとえ戦争に負けたとしても、多数派についていったほうが安全だ、とも。

ついていった者が多数派であれば、ついていった者一人一人に責任をとらせることは現実的には不可能なのだから。

この日の午後、我々と共にアウシュヴィッツを見て回った日本人は11名だった。
ここに来た、ということは、多数派ではない。
だが、民主主義には少数派が不可欠であり、少数派の意見もちゃんと聞く&受け入れる(少なくても検討する)のが民主主義なのだ、
とは、改めて民主主義の原点を確認させられた思い。

で、先日の「誰もが責任を取らなくなったらどうなるのか?」との話につながる。
アウシュヴィッツに比べれば、三郷町の造成宅地崩落などはかわいいもの。
それでも、自分の頭で考えるという責任を放棄した、その結果という点では相通じるものがある。
責任を果たすということはプライド(日本語で言えば「矜持」という言葉が相応しかろう)でもあるだろうに、
と「旅の坊主」は思うのだが……。

「責任の放棄」が最終的にはアウシュヴィッツをもたらしたとすれば、
責任を放棄した人々にはプライドは無かったということになるのか?
それとも、責任を放棄するような人々は、別の何かに責任を負ったというのだろうか。

この責任についての議論、もう少し続けたいが、今日のところはこの辺りで。

三郷町の現場より

2018-01-05 11:33:37 | 防災学
久しぶりの更新でもあった、2018年仕事始めの拙ブログ更新、
昨年末の12月30日に訪問した、奈良県三郷町を通る近鉄生駒線への土砂流入現場で感じたことを出発点に議論を展開させてもらいました。
現場の写真も撮っていますので、昨日の補足としてアップさせていただきます。

防災・危機管理の観点からすれば、やはり、「住む場所選びの目を養う(育む)」は、ビッグテーマだよなぁ、と思うのみです。
ICTの時代、地盤のチェックや元の地形のチェックもやりやすくなりました。
ICTに疎い者であっても「人生最大の買い物をする時には旧版地図を取り寄せてしっかり考えよう!」はやって欲しいと心から願っています。
国土地理院のHP内、旧版地図の謄本交付手続きについてのページはこちらからどうぞ。

http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/koufu.html










遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げます

2018-01-05 11:09:20 | 防災学
遅ればせながら、2018年、平成30年の新年のご挨拶を申し上げます。

平成元年組として社会人生活をスタートさせた「旅の坊主」としては、
これから始まる1年は、来し方を振り返るという意味でも、定年までのカウントダウンが始まるという意味でも、
いずれにしても節目の年となります。
改めて、己の背筋がしっかり伸びているかを確認する、仕事始めの日となりました。

さて、仕事始めを期しての更新ゆえ、新年に相応しいかどうかはさておき、
今年2018年にちなんだ話題から、道中記を始めたいと思います。

2018年ということは、1868年の明治維新から数えて150年という節目の年に当たります。
別の言い方をすれば、江戸時代・徳川幕藩体制が終末を迎えた年でもあります。
一つの社会システムが終わりを告げるということ、それは、
古い社会の仕組みが新しい時代に適応できなくなったことを意味しています。

昨年末、といってもまだ一週間も経っていないのですが、
「社会システムがダメになっていくことって、こういう所に表れてくるのかもしれないなぁ」と、
旧年中の最後の旅でとある被災現場を訪問した時、思うところがありました。

昨年10月22日未明、台風21号がもたらした豪雨により、
奈良県三郷町(さんごうちょう)を走る近鉄生駒線の勢野(せや)北口駅~竜田川駅間の造成地が崩れ、
土砂が線路内に流入、同線が数日間運休になる事態が発生しました。

いろいろな人がいろいろなことを言っています。
私もこの災害の直後、拙FBで思うところを述べさせてもらいましたが、
遅まきながらも現地を訪問して、改めて、いろいろなことを考えさせられました。
「旅の坊主」が考えたことは、こんなところです。

1 わざわざ崩れやすいところに選んだかのような宅地造成であった。
2 かつ、相当にいい加減な施工であったと思われる。
3 かつ、買った側がその土地の「来歴」を調べたとは思われない。
4 己の所有物が他人に損害を与えた場合、その責任は所有者に帰すのが筋。
 (この事例では民法717条「工作物責任」が関係条文となるのであろう。)
5 その筋論をメディアがまっとうに扱わない。

(注:開発許可を出した行政が悪いとの議論がまともであるとは全く思われない。
その種の立論をする人が多いことは当方も承知。
しかし、書類が整っていれば許可を出さざるを得ないのが現行制度。
現場を見る限りそんなに難しい施工技術を要する場所とは思えなかった。
施工中の実地検査も完了検査も実施する余裕のない行政の現状では、
施工業者の良心を信用する以外の選択肢はない。
つまりは書類を「作文」し手抜きをされれば行政に手の打ち様はない。
「行政が悪い」との立論をしたい人は勝手にすればよいが、その場合は、
①劣悪な開発許可をゴリ押しするような政治家の使い方をする市民がいる現実をどう変えるのか、
②実地検査や完了検査等々を実施出来るようになるまでの行政コストの増大=増税を受忍するのか、
の少なくても2つの問いにしっかり答えて欲しい。)

地番としては三郷町東信貴ヶ丘になるのでしょうが、
防災を生業にする身からすれば、この現場は、流れるべくして流れた、
と言わざるを得ません。
安全度順あるいは危険度順に、上から下へと並べて行ったら、
土地を知る者、あるいは少しでも防災に関心がある者、知識がある者であれば、
決して買わないであろう、下から数えて何番目、という場所でした。
「住む場所選びの目を養う(育む)」が防災や防災教育の大テーマであろうに!と考える身としては、
「見る目を持たないとこういうことになります」という典型的な事例だよなぁ、と思った訳です。

ただ……。
今日の話は、もう一歩進んだところからアプローチしてみたい、と思います。

昨年の新語流行語大賞、「インスタ映え」はさておき、「忖度」に贈られましたよね。
この言葉を選んだ『現代用語の基礎知識』関係者の目は、さすがと思います。
社会システムがダメになっていく具合って、忖度の現れ方によって測ることが出来るのではないか。
断言する力はなく、もちろん論証も出来てはいませんが、
社会のシステムは、誰もが責任を取らないこと、
あるいは、責任を取るべき者に「責任がある」と言わないことで、
ダメになっていってしまうものなのかもしれない、
そんなことを思っています。

1~5に整理してみた論点、どこか一つでも、誰か一人でも、誠実であれば=まっとうに責任を果たしていれば、
防ぐことが出来ただろうに、と、思わざるを得ません。
それほど、一目で「アホやんけ」とわかる場所でしたから。
1ステップや2ステップの不誠実さは、社会システムがしっかり機能していれば何とかなります。
しかし、すべてのステップで不誠実さがまかり通ってしまえば、
あるいは「己の責任の限りは○○する」という気概が失われてしまえば、
特に、現行の社会システム上、責任を取るべき者(この場合宅地の所有者である住民)が己の責任と向き合わず、
さらにそれを社会の公器であるべきメディアまでが追認してしまえば、
社会システムは崩壊します。

三郷町の現場のような谷埋め盛土の擁壁は、全国に十万単位であるでしょう。
そのすべてが、今回の場所のような施工ではないと信じたいところですが、
「ハインリッヒの法則」を持ち出すまでもなく、このような無責任の相乗効果が現実にある以上、
より大きな社会システムに、致命的な破たんが近づいているのかもしれない、と思ったところで、
大きな間違いがあるとは思われません。とすれば……。

年の初めから、暗い話になって申し訳なくも思います。
でも、社会システムが間違った方向へと突っ走っていこうとしている今、
それに警鐘を鳴らすのも大学人の仕事である、
そう思い、自らを鼓舞しようとしている新しい年の始まりです。

のっけからの長文、ご容赦を。