「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

京都⇒大阪 /8月16日の追加分をアップします

2007-08-27 23:29:12 | Weblog
 8月27日

 10時半、大阪地下鉄御堂筋線の本町駅にて、大手建設コンサルタント
「パシフィック・コンサルタンツ」防災部のT次長と新人Fさんと待ち合わせ。
そのままパシコンさんの大阪本社へ。翌日芦屋市で行なわれる、国交省
近畿地方整備局主催の津波防災ワークショップの仕込み。昼食をはさんで
2時半くらいまでかかる。概ねの方向性は見えたのでまずは一安心。

 間に合えば、京都で開催中の防災フェア(内閣府主催)に戻り、京大の
M先生によるBCPの報告を聞きたかったのだが、残念ながら間に合わず。
予定を変更し、かなり早い時間ではあったが、新大阪駅近くのホテルに
チェックイン。メールや電話、各種の仕込みや原稿書きなど。

 夜、大阪で勤め人をしている弟と、野田阪神駅近くのいかにも庶民的
という飲み屋でビール&日本酒。レバ刺し、しめ鯖、豚足は、さすがに
インドネシアにはなかった。カウンターにつまみを乗せた皿が何種類も
置いてあるような、そんな店に行くとなぜか懐かしさを感じてしまう。
この店はそんな店だった。初めて入る店なのに……。

 はしご酒も考えたが、月曜日でもあるし仕事も待っている。今日のところは
軽くにして、弟は自宅に、兄はホテルへ。引き続き、原稿書きなど。

***************

 先日の高校生12名を引率しての中越沖地震現地調査の件、8月
16日分の続きをようやくまとめあげた。遅れ馳せながらアップする。

*****

 8月16日(つづき)

 今回の現地調査では、高校生と大人が12対12と同数だったことも
あり、くじ引きでバディを組ませることにした。私のバディは、偶然にも、
以前、少人数の勉強会を企画したことで旧知の間柄となった、吉原高校
防災委員会初代委員長のHさん。二人で柏崎市の旧市街地を歩く。

 途中、前回、前々回の現地訪問の時から気になっていた酒屋さんに寄る。
旧街道沿いの古い店。被災直後は、「ご自由にお持ち下さい」ということ
で、割れ残ったものの商品価値は喪ってしまったお酒を無償提供していた。
家族経営と見うけられたが、その家族の表情を見ることがあまりに辛く、
シャッターも押せなかったし声すらかけられなかった。それから約1ヶ月。
倉庫はすでに取り壊されていたが、店はシャッターを半ば閉めつつも営業を
再開していた。で思い切って店に入り、とある酒を置いているか尋ねた。

 店番のおばあさん曰く「麒麟山の紅葉?嬉しいことを言ってくれるねぇ。」

 僕らに出来る被災地支援とは何だろうか。

 さまざまな支援方法がある。その中で、(言葉は好きではないが)中小・
零細の小売業やサービス業への支援として何があるかと問われるならば、
多くの方が思っているであろう「被災地支援の常識」に反して、モノやお金
を送ることではないと小村は答えたい。

 「弱者に対してより辛く」は災害の本質であり、それは否定しようがない。
大手資本の巨大ショッピング・モールなら何とかなるかもしれない。しかし、
いわゆる中小・零細企業にとっては、災害を生き延びることは生易しいこと
ではない。かなりの数の企業が、災害を機に商売をたたむということもあろう。
ただ、それを、自然淘汰の一言では片付けたくはない。

 すべての店が生き延びることは現実的には大変厳しい。しかし、せめて、
こだわりをもった店には、何とか災害を生き延びてもらいたい。そして、
相手も商売人であるからには、モノを売ってナンボであろう。無償の何かを
差し上げることは、そのプライドを傷つける行為であると思う。そして
そう思えばこそ、小村は、被災地では多少ぜいたくな買い物をすることに
している。そして、わかってもらえそうな仲間達には背景も説明し、
「買い物に付き合わないか?」と声をかけてきた。このスタンスはこれからも
続けるつもり。

 「麒麟山の紅葉」は3年寝かした日本酒。多少値ははるが、値段だけの
ことはある。「化粧箱がつぶれたから……」とのご主人の声に、「箱なしで
いいですから……」と言い、結局はかなりおまけしてもらった。本当は、
こちらから「気持ち」を出さなくてはならないはずなのに……。

 この店だけでないことは百も承知の上で、ご縁があった店でもあり、
よろしければ読者諸兄にも、それぞれの「こだわりのお酒」を購入して
いただきたく、連絡先を記す。

 八幡屋(はちまんや)
 新潟県柏崎市四谷1-14-32
 電話 0257-22-2872 FAX 0257-21-0577

 話が横道にそれた。
 引き続きまちを歩く。いかにも現地調査に来ましたという格好をしつつ、
酒瓶をぶら下げながら歩く姿が世間様にどのように映っているか、それは
考えないことにしている。そうこうしているうちにメンバーのIさんから
携帯に電話。「まちで出会ったNHKの記者の方が、今回のツアーについて
話を聞きたいと言っている」とのこと。では、ということで、少し早足で
旧市街地の中心、えんま堂へ。映像部のFさんと面識を得る。ツアーの
主旨をお話したところ、大変関心を持って下さる。しばらくまち歩きに
同行して下さることに。といっても、日暮れも近く、あまり良い「絵」は
取れなかったようではあったが……。

 19時近く、ホテルにチェック・イン。シャワーを浴びてさっぱりして
から、夕食を兼ねた打ち合わせ会。24名となるとまとめて座れる店も
少なく、多少悩んだものの、営業を再開していた居酒屋へ。成年と未成年、
そこはきっちりと分けて座らせる。食事をしつつ、またお酒も飲みつつ
(飲酒を自粛された方もおられた)、参加者全員に発言を求める。途中
からFさんも参加してくれる。大感謝。この地域の地質の説明、消防の
活動実態、メディア取材の裏話等々、専門的な話や普段聞けないような
話題も含め、2時間の予定があっという間に3時間経つ。

 高校の先生方はお立場もあって遠慮されたが、成人有志は二次会という
形で地元経済に多少の貢献をする。ホテルに戻ったのは日付が変わってから。
メールチェック・シャワー・就寝。

バンダ・アチェ復興状況調査(2日目)

2007-08-20 02:39:34 | Weblog
 8月20日

 ホテル・ニッコー・ジャカルタでバイキングの朝食。まわりはさすがに
日本人とおぼしき方々ばかり。7時過ぎにタクシーで空港へ。渋滞もなく
30分弱で到着。チェックイン、搭乗待ちでコーヒーを飲みながら打合せ
など。GA184便でバンダ・アチェへ。昼過ぎに当地着。

 地元の総合大学であるシャクワラ大(Syiah Kuala University)のリド先生
らに出迎えてもらう。まずはホテル(詳細後述)に荷物を置き、大学へ。

 シャクワラ大。8つの学部、2万5千人の学生数をかかえる総合大学。
06年10月、津波防災センター(Tsunami Disaster Mitigation Research
Center)が開設され、旧知のリド先生はその副所長に就任していた。水曜日に
終日プログラムで津波防災のワークショップを行なうことになっており、
今日はその打ち合わせと仕込み。2時間近くの意見交換で、概ね方向が
固まる。といっても、大いに「出たとこ勝負」だが……。

 ホテル (Hermes Palace Hotel Banda Aceh, Jl. T. Panglima Nyak Makam,
Banda Aceh, Indonesia, Web: www.hermespalacehotel.com) に戻り、
シャワーを浴びた後夕食。過去3回は、バンダ・アチェ市街地の中心、
グレート・モスクの近くにある中級ホテルだったのだが、今回はオープン
約1年の4つ星。有線・無線のLANあり、プールあり、フィットネス・
センターあり、ビジネス・センターあり……、と、こういう場所に来て、
多少とも開発援助に携わる活動をしようという者が、こういう場所に
泊まりながらでよいのか、という意味で多少とも(極めて大きな?)
疑問を感じつつ……。

 バンダ・アチェ最初の夜は、ホテルのレストランで。イスラム教徒
以外にはビールもある。日本並みとはいわないがご当地価格でみれば
メチャクチャ高額の食事。うーん。

 PCにへそをまげられたか、ロビーやレストランで使えるはずのLANが
使えず。多少割高になるがビジネス・センターでLANを借りて接続。
本拠地を遠く離れてもメール&ネット環境があるというのは、良いのか
悪いのか。ともあれ、過去3回に比べても、また調査の主旨から言っても
どうにも申し訳ないような環境でだが、現地での活動が始まる。

(8月24日、バンダ・アチェにて記す)

バンダ・アチェ復興状況調査(初日)

2007-08-19 23:34:27 | Weblog
 8月19日

 4回目のバンダ・アチェへの旅。8時前の快速「エアポート成田」で成田
空港へ。余裕をもって着いたつもりだったが、チェックイン、海外用携帯
電話の受け取り、両替、旅行保険申し込みと雑事をこなしていくうちに、
あっという間に出発の時間となる。JL725便で経由地のジャカルタへ。

 ジャカルタでの宿は「ホテル・ニッコー・ジャカルタ」、意識した訳では
ないのだが、折から当地を訪問中の某首相と同宿。あれあれ……。

 旅の最初の夕食は、同行O先生G先生と共に、一流ホテルの夕食
バイキング。途上国の復興状況調査とは言い難いところがあるが……。
ともあれ、翌日からの旅の安全を願い、また英気を養うという意味も
あり、良く飲み、良く食べ、良く話す。

 (8月24日、バンダ・アチェにて記す)


大学⇒東京駅八重洲北口⇒稲毛

2007-08-18 23:57:36 | Weblog
 8月18日

 さすがに前々日&前日の中越沖地震現地調査・ボランティア体験ツアーの
疲れで、朝はまともに起きられず。まぁ、許して頂戴ませ。

 半ば寝ぼけた頭で大学へ。今年2回目の富士常葉大学オープンキャンパス。
仕事に入る前に学食で腹ごしらえ。模擬講義の内容チェックに入ろうとした
が、メディアの取材が入り、十分な詰めが出来ないまま本番へ。自分でも
いやになるくらい情けない出来。せっかくオープンキャンパスに来てくれた
のに、高校生諸君、ごめんなさい。

 模擬講義の後、メディア三社の記者さんと今回のツアーについて1時間ほど
説明と質疑応答。ツアーに参加しオープンキャンパスにも来てくれた高校生
3人にも同席してもらう。不勉強なマスコミには徹底的に突っ込むのが小村流の
対マスコミ術。一人はごくまともなマスコミ人。一人は現時点では不勉強だが、
これからきちんと見守っていかなくてはという人。残りの一人は……。とも
あれ、小村は話しすぎだった。高校生諸君にもっと話をさせるべきだったと
反省しきり。

 メディアとのお付き合いの後は、進路相談の相談員に早変わり。AO入試を
受けようという高校生の相談に乗ったのだが、何のことはない、担当したのは
前日・前々日と一緒に柏崎市内をまわったY君。聞けば、彼の中学生時代、母校
富士市立須津(すど)中学校に出前講義に行った小村のこと&話を覚えていて
くれたとのこと。これって、結構感涙もの。

 相談会の後、吉原高校新聞委員会のN先生と女性生徒2名のインタビュー
受け。これも1時間半ほどの長さとなる。2人の生徒のうち1人は、裾野高校
での合宿に参加してくれており、さすがに理解は早かった。むしろ、従来型の
防災が刷り込まれてしまっていたのだろうか、顧問のN先生に理解してもらう
のに、えらく時間がかかってしまったように感じたが……。

 翌日からインドネシア・バンダアチェへの現地調査でご一緒させていただく
O学部長に新富士まで送ってもらい(O先生ありがとうございました)、その
ままって東京へ。旧知のNさんとゼミ生のAさん、Nさんの知り合いのIさんと、
八重洲北口近くの居酒屋で飲み会を兼ねての打合せ。

 Nさんは東アフリカ・ウガンダでの滞在経験が長い。一昨年夏、「災害看護の
お母さん」ことYさんと一緒にご当地を訪問し、その経験を大学で話したことが
あったが、ウチのAが興味を持ち「同じ海外に行くなら……」と言い出した次第。
Nさん経由でIさんを紹介してもらい、一緒にご当地を訪問することになった。
その打ち合わせというか、誰に何をお願いするかをきちんと整理しようよ、
という場がこの日の会の主旨。具体的なスケジュールと、お願いするべき人・
お願いするべき内容も概ね固まる。

 夜行バスで名古屋に帰るAさんを送り、稲毛へ。未明まで、翌日からの
バンダ・アチェ復興状況調査の準備。

 (8月24日、バンダ・アチェにて記す)

高校生中越沖地震現地調査・ボランティア体験ツアー(2日目)

2007-08-17 23:39:33 | Weblog
 8月17日

 0645集合。早起きツアーということで、7時から2時間、バスの中から
ではあったが、被災地の全体像をつかむべくいろいろと見てまわる。駅前仮設
住宅、海岸近くの仮設住宅、がけ崩れで線路が飲み込まれた信越線青海川駅、
中央跨線橋近くの震災ごみの一時集積所、鉄鋼団地、鯖石川沿いの集落、柏崎
刈羽原子力発電所、リネン、等々と、ぐるっとひとまわり。

 それにしても、東電柏崎刈羽原発の警備員の対応はおそまつ極まりない。
国道から原発入り口の写真を撮ろうとしたら、三回行って三回とも「撮るな!」
と警備員が寄ってくる。一体どういう理由でやめろというのだろうか。問い
かけても「上から言われています」の一点張り。東電が原発を見せたいのは、
広告費を盾にとって無理やりにでも言うことを聞かせられるメディアでは
あっても、普通の市民ではないらしい。東電の広告指南をしている代理店は、
よほどの無能ぞろいなのか……。ま、それはさておき。

 9時過ぎ、昨日に引き続き比角コミセンへ。ツアー参加者にそれぞれ仕事を
割り振っていただく。全員が何かしら活動できるくらいの仕事があってよかった。
高校の先生方3人はここで本隊から分かれ、本学Yさんの案内で市内の高校へ。
学校が被災するとどうなるか、職員はどう対応したか等々は、お三方にとっては
当然のことながら極めて深刻な関心事。というので、こちらは昼までの予定で
ヒアリング。

 コミセン主事のYさんから1時間近く、いろいろと説明していただく。おかげで、
ここ比角地区と比角コミセンがなぜうまくまわっていたのか、かなりイメージを
持つことが出来るようになる。これもやはり人ゆえ、か……。

 昼までにそれぞれの活動をしていた参加者が戻ってくる。12時から午後の
行動についてのオリエンテーション。仮設住宅を訪問するもよし、昨日に引き
続きまちを見て歩くもよし、ボランティアするもよし、各バディに任せることと
する。ただ、お土産を買うならば、こういうことを意識してもらいたい、という
ことで、昨日の八幡屋の話をする。バディ毎に打ち合わせの後、それぞれに出発。

 前日に引き続き、Hさんとまちを歩く。
 今回のツアーで高校生にやられたかったのは、どういう家が倒れ、どういう
家が倒れなかったのかを、自分の目で確かめるということ。地震では人は
死なない。建物につぶされて人が死ぬ。人生最大の買い物(=家)が無事
だったならば、被災後の生活再建も、まだメドが立つだろう。しかし、普通の
人はダブルローンには耐えられず、60代70代になって自宅を失うことが
何を意味するか、容易に想像できる話である。高校生が「我が家」を考える
ことは、そうはないだろう。でも、親元から離れる時や家庭を持つ時といった
節目節目に、今回のツアーのことを思い出してくれるならば、少なくとも彼ら
彼女らが震度6強レベルの地震で生命を失うことはないだろう。それが今回の
ツアーの成果だと思いたい。

 いつものように(?)、「えんま通り」の「パスタとコーヒーの店パレット」へ。
元気カレー500円、サラダ100円、ホットコーヒー350円。地震後5回目
の訪問。えんま通り商店街は、アーケードが取り外され、明るい印象を受ける。
2回目の訪問時に比べても、再開した店が増えてはいる。とはいえ、被害が
大きかったこの地区ゆえ、すべての店が……、とはいかないのが悲しい現実。

 パレットにお昼を食べにきていた自衛官に声をかける。陸上自衛隊東部方面
総監部広報担当の3佐とWAC(ワック、陸上自衛隊の女性自衛官の呼び名)の
2曹。前職の防衛研究所時代にお世話になった方がいまや東部方面総監、諸外国で
いう陸軍中将の階級に昇進された。雲の上の方であるが、お二方に託した名刺を
見て、昔を思い出してもらえれば望外の幸い。ともあれ、益々のご活躍を祈念
するのみ。

 今回の陸自の活動は、I陸将のご指導もあったのであろう、被災規模に比べて
極めて手厚い。いつでもどこでも、このレベルの活動ができる訳はない。また、
言葉遣いはともかく「過保護」ゆえの問題点もあろう。ただ……。「自衛隊の
災害派遣の研究をしたい」と言ったら「止めろ!」と言われた往時を思い出す
時、隔世の感がある。今回の災害派遣では、地元のコミュニティFM「FM
ピッカラ」に女性自衛官が生出演して自衛隊の活動報告をしていた。大いに
評価したい。

 まじめに?まちを歩いたり、被災者の話を聞いているバディもあるのだろう
が、Hさんには申し訳ないが、小村のバディはエアコンの効いた店内でもっぱら
おしゃべり。「パレット」を出て、えんま通り商店街の中ほどにある「趣味の
陶器 中村」へ。前回の訪問の際面識を得た若女将から、1時間余り話を聞かせて
いただく。

 商売をしている人への支援は、やはり物を買うこと。というので、今回は
ちょっと面白い萩焼の徳利とぐい飲みのセットをいただく。若女将と話し込んで
いる間に、チームの面々が続々と顔を出す。嬉しいことに、みんな、何かしらの
買い物をして下さった。これも(これが、かな)被災地支援なんだよ、高校生
諸君。

 こういう、こだわりを持ち、地震の前から地域活性化に取り組んでいた店には、
何がなんでもふんばってもらわなくては困る。というので、またまたお店情報を。

 趣味の陶器 中村
 新潟県柏崎市東本町2-7-46
 電話 0257-22-4041 FAX 0257-22-6926

 16時半、市役所前に集合。昨日お世話になったNHKのF記者、わざわざ
挨拶に来て下さる。全員で記念写真を撮った後、バスへ。関越道が事故で通行
止めとの情報があり、北陸道⇒長野道とまわり、静岡へ。

 車中で全員に何かしら感想を話してもらった。肉体的には大変疲れたが、
参加者の感想を聞くだけでも、大きな手応えがあった1泊2日であった。
なるべく早く、簡単でもいいから報告書をまとめなければ、という必要性も
感じた次第。

 御殿場、裾野、沼津、富士とまわり、大学に戻ったのは23時半過ぎ。
最後まで手伝ってくればYさんと学生諸君に感謝!

(8月29日 芦屋から富士に戻る新幹線の車中にて記す)