8時半過ぎにホテルを出る。まずは穴水町に向かうべく、国道249号を北上。
途中、なかじまロマン峠の道の駅で朝食。
穴水では、のと鉄道七尾線穴水駅近くの建物倒壊現場を見る。
全壊したのであろうか、取り壊し中の建物があったが、その隣の建物には
緑の紙がはられ外見上は無傷。他にも全壊とおぼしき建物がポツポツあるが、
まち全体が大被害を受けたという感じではない。
震度6強にも幅がある。穴水の揺れは低いほうだったのかもしれない。
駅前で星陵女子短大のS先生らと合流。S先生とは97年のナホトカ号重油
流出災害以来、ご厚誼をいただいている。あの時と同じく、今回の地震でも
この地域のキーパーソンとして活躍中。昨日同様旧門前町門前地区に行き、
S先生の案内で建物被害等を見て回る。
門前東小学校に置かれたボランティアセンターでは、県外のJC(青年会議所)
から派遣されたとおぼしき方々を多く見る。ただ、混乱しているさまは否めない。
この日の午後、県知事の「天の声」で決まった1000名のボランティア(新聞
報道では計840名だったとか……)が大挙押しかけることになっているのだが、
「遊兵」続発は必至か……。
前日と同じく、国道沿いの「せせらぎ」で昼食。これから先、中長期的な復旧・
復興に向けて何を考えればよいのか、食べながら論点を整理する。「業界筋」
には常識だろうが、こんなことだった。
・①応急危険度判定(の赤・黄・緑)と、②罹災証明(の全壊・半壊・一部損壊)と、
③住宅の解体・撤去か修復かの判断、の3つは、相互に関連はしつつも、
本質的には別物であること。その3つを、きちんと整理して説明する必要が
あること。
・4月末までには(実際には4月半ば過ぎ?)、住宅を失った方々も、避難所から
仮設住宅へと移り住むことが出来るだろう。2年間は(場合によってはもう少し
長く)、光熱費等の実費はかかるが住居費はかからない仮設で生活することが
出来る。その間に、①独力で自宅を再建するのか、②2年(-α)の間に建て
られるであろう公営住宅に転居するのか、それとも、③(例えば金沢に住む)
子供と一緒に住むことにしてこの町を出て行くのか、あるいは、④それ以外か、
ともあれ幾つかの選択肢から、自分の将来構想を考えなくてはならないこと。
・いずれにしても、問われるのは、20年後のこのまちをどのように描くか。
土地持ちであったとしても、住宅を失ってしまった高齢者が、どのような将来の
生活設計を立てればよいというのだろうか。至難の一言に尽きる。その困難さが
容易に見て取れるだけに、現状を伝えることが精一杯のメディアの報道ぶりに、
いろいろな意味で情けなさを感じるのみ。何よりも「じゃぁ、お前は何を主張する
のか?」と問われて返す言葉がないことに対して。
ボランティア・センターの情報インフラ整備のために残られるS先生らと別れ、K君と
輪島へ。
名高き輪島の朝市通り。地震後も何人かは店を出していたのだそうだが、いかに
せんお客がこないことには始まらない。公式には4月11日から再開とのこと。
GWには多くの人でにぎわうことを願うのみ。閑古鳥の鳴く朝市通りで、今さら
ではあるが、石川・能登のガイドブックなど買う。
外から人が来てくれることでまちが動き出すような地域、輪島市の朝市通り周辺や
和倉温泉(かの名高き加賀屋のある温泉郷)については、どうやって人を呼ぶか
(支援する側としてはどうやって人を送り込み、お金を落してきてもらうか)が勝負と
なる。伊豆・稲取の観光協会が厚遇で事務局長を公募したが、基本的な構図はそれと
同じ。ただ日本には、未だ「被災地に遊びに行ってはいけない」という「間違った
通り相場」があるようで、それを打破しないことには後が辛い。
石原裕次郎の墓があることで知られている鶴見の総持寺。明治31年の大火を機に
かの地に総本山を動かすまでは、総持寺(つまり旧門前町にある現在の総持寺祖院)
は、永平寺と並ぶ曹洞宗の総本山として、間違いなく地域の文化の中心にあったはず。
そして門前町は文字通りの門前町として栄えていたはず。しかし今日、若い世代は、
例えば輪島へ金沢へ東京へと出て行ってしまったのだろう。旧門前町の高齢化率は
47%強と聞く。この地震を好機と位置づけ、V字カーブを描いて不死鳥の如く昔日の
栄光を取り戻そうという絵が描けるのであろうか。あるいは静かに歴史から消えて
いくのか。
防災学の基本的テーゼの一つ、「災害はそのコミュニティがもともと抱えていた傾向を
加速化する」。旧門前町ではどうであろうか。
(4月3日アップ)
途中、なかじまロマン峠の道の駅で朝食。
穴水では、のと鉄道七尾線穴水駅近くの建物倒壊現場を見る。
全壊したのであろうか、取り壊し中の建物があったが、その隣の建物には
緑の紙がはられ外見上は無傷。他にも全壊とおぼしき建物がポツポツあるが、
まち全体が大被害を受けたという感じではない。
震度6強にも幅がある。穴水の揺れは低いほうだったのかもしれない。
駅前で星陵女子短大のS先生らと合流。S先生とは97年のナホトカ号重油
流出災害以来、ご厚誼をいただいている。あの時と同じく、今回の地震でも
この地域のキーパーソンとして活躍中。昨日同様旧門前町門前地区に行き、
S先生の案内で建物被害等を見て回る。
門前東小学校に置かれたボランティアセンターでは、県外のJC(青年会議所)
から派遣されたとおぼしき方々を多く見る。ただ、混乱しているさまは否めない。
この日の午後、県知事の「天の声」で決まった1000名のボランティア(新聞
報道では計840名だったとか……)が大挙押しかけることになっているのだが、
「遊兵」続発は必至か……。
前日と同じく、国道沿いの「せせらぎ」で昼食。これから先、中長期的な復旧・
復興に向けて何を考えればよいのか、食べながら論点を整理する。「業界筋」
には常識だろうが、こんなことだった。
・①応急危険度判定(の赤・黄・緑)と、②罹災証明(の全壊・半壊・一部損壊)と、
③住宅の解体・撤去か修復かの判断、の3つは、相互に関連はしつつも、
本質的には別物であること。その3つを、きちんと整理して説明する必要が
あること。
・4月末までには(実際には4月半ば過ぎ?)、住宅を失った方々も、避難所から
仮設住宅へと移り住むことが出来るだろう。2年間は(場合によってはもう少し
長く)、光熱費等の実費はかかるが住居費はかからない仮設で生活することが
出来る。その間に、①独力で自宅を再建するのか、②2年(-α)の間に建て
られるであろう公営住宅に転居するのか、それとも、③(例えば金沢に住む)
子供と一緒に住むことにしてこの町を出て行くのか、あるいは、④それ以外か、
ともあれ幾つかの選択肢から、自分の将来構想を考えなくてはならないこと。
・いずれにしても、問われるのは、20年後のこのまちをどのように描くか。
土地持ちであったとしても、住宅を失ってしまった高齢者が、どのような将来の
生活設計を立てればよいというのだろうか。至難の一言に尽きる。その困難さが
容易に見て取れるだけに、現状を伝えることが精一杯のメディアの報道ぶりに、
いろいろな意味で情けなさを感じるのみ。何よりも「じゃぁ、お前は何を主張する
のか?」と問われて返す言葉がないことに対して。
ボランティア・センターの情報インフラ整備のために残られるS先生らと別れ、K君と
輪島へ。
名高き輪島の朝市通り。地震後も何人かは店を出していたのだそうだが、いかに
せんお客がこないことには始まらない。公式には4月11日から再開とのこと。
GWには多くの人でにぎわうことを願うのみ。閑古鳥の鳴く朝市通りで、今さら
ではあるが、石川・能登のガイドブックなど買う。
外から人が来てくれることでまちが動き出すような地域、輪島市の朝市通り周辺や
和倉温泉(かの名高き加賀屋のある温泉郷)については、どうやって人を呼ぶか
(支援する側としてはどうやって人を送り込み、お金を落してきてもらうか)が勝負と
なる。伊豆・稲取の観光協会が厚遇で事務局長を公募したが、基本的な構図はそれと
同じ。ただ日本には、未だ「被災地に遊びに行ってはいけない」という「間違った
通り相場」があるようで、それを打破しないことには後が辛い。
石原裕次郎の墓があることで知られている鶴見の総持寺。明治31年の大火を機に
かの地に総本山を動かすまでは、総持寺(つまり旧門前町にある現在の総持寺祖院)
は、永平寺と並ぶ曹洞宗の総本山として、間違いなく地域の文化の中心にあったはず。
そして門前町は文字通りの門前町として栄えていたはず。しかし今日、若い世代は、
例えば輪島へ金沢へ東京へと出て行ってしまったのだろう。旧門前町の高齢化率は
47%強と聞く。この地震を好機と位置づけ、V字カーブを描いて不死鳥の如く昔日の
栄光を取り戻そうという絵が描けるのであろうか。あるいは静かに歴史から消えて
いくのか。
防災学の基本的テーゼの一つ、「災害はそのコミュニティがもともと抱えていた傾向を
加速化する」。旧門前町ではどうであろうか。
(4月3日アップ)