「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

能登半島地震現地調査 2日目

2007-03-31 23:38:01 | Weblog
8時半過ぎにホテルを出る。まずは穴水町に向かうべく、国道249号を北上。
途中、なかじまロマン峠の道の駅で朝食。

穴水では、のと鉄道七尾線穴水駅近くの建物倒壊現場を見る。
全壊したのであろうか、取り壊し中の建物があったが、その隣の建物には
緑の紙がはられ外見上は無傷。他にも全壊とおぼしき建物がポツポツあるが、
まち全体が大被害を受けたという感じではない。

震度6強にも幅がある。穴水の揺れは低いほうだったのかもしれない。

駅前で星陵女子短大のS先生らと合流。S先生とは97年のナホトカ号重油
流出災害以来、ご厚誼をいただいている。あの時と同じく、今回の地震でも
この地域のキーパーソンとして活躍中。昨日同様旧門前町門前地区に行き、
S先生の案内で建物被害等を見て回る。

門前東小学校に置かれたボランティアセンターでは、県外のJC(青年会議所)
から派遣されたとおぼしき方々を多く見る。ただ、混乱しているさまは否めない。
この日の午後、県知事の「天の声」で決まった1000名のボランティア(新聞
報道では計840名だったとか……)が大挙押しかけることになっているのだが、
「遊兵」続発は必至か……。

前日と同じく、国道沿いの「せせらぎ」で昼食。これから先、中長期的な復旧・
復興に向けて何を考えればよいのか、食べながら論点を整理する。「業界筋」
には常識だろうが、こんなことだった。

 ・①応急危険度判定(の赤・黄・緑)と、②罹災証明(の全壊・半壊・一部損壊)と、
  ③住宅の解体・撤去か修復かの判断、の3つは、相互に関連はしつつも、
  本質的には別物であること。その3つを、きちんと整理して説明する必要が
  あること。

 ・4月末までには(実際には4月半ば過ぎ?)、住宅を失った方々も、避難所から
  仮設住宅へと移り住むことが出来るだろう。2年間は(場合によってはもう少し
  長く)、光熱費等の実費はかかるが住居費はかからない仮設で生活することが
  出来る。その間に、①独力で自宅を再建するのか、②2年(-α)の間に建て
  られるであろう公営住宅に転居するのか、それとも、③(例えば金沢に住む)
  子供と一緒に住むことにしてこの町を出て行くのか、あるいは、④それ以外か、
  ともあれ幾つかの選択肢から、自分の将来構想を考えなくてはならないこと。

 ・いずれにしても、問われるのは、20年後のこのまちをどのように描くか。

土地持ちであったとしても、住宅を失ってしまった高齢者が、どのような将来の
生活設計を立てればよいというのだろうか。至難の一言に尽きる。その困難さが
容易に見て取れるだけに、現状を伝えることが精一杯のメディアの報道ぶりに、
いろいろな意味で情けなさを感じるのみ。何よりも「じゃぁ、お前は何を主張する
のか?」と問われて返す言葉がないことに対して。

ボランティア・センターの情報インフラ整備のために残られるS先生らと別れ、K君と
輪島へ。

名高き輪島の朝市通り。地震後も何人かは店を出していたのだそうだが、いかに
せんお客がこないことには始まらない。公式には4月11日から再開とのこと。
GWには多くの人でにぎわうことを願うのみ。閑古鳥の鳴く朝市通りで、今さら
ではあるが、石川・能登のガイドブックなど買う。

外から人が来てくれることでまちが動き出すような地域、輪島市の朝市通り周辺や
和倉温泉(かの名高き加賀屋のある温泉郷)については、どうやって人を呼ぶか
(支援する側としてはどうやって人を送り込み、お金を落してきてもらうか)が勝負と
なる。伊豆・稲取の観光協会が厚遇で事務局長を公募したが、基本的な構図はそれと
同じ。ただ日本には、未だ「被災地に遊びに行ってはいけない」という「間違った
通り相場」があるようで、それを打破しないことには後が辛い。

石原裕次郎の墓があることで知られている鶴見の総持寺。明治31年の大火を機に
かの地に総本山を動かすまでは、総持寺(つまり旧門前町にある現在の総持寺祖院)
は、永平寺と並ぶ曹洞宗の総本山として、間違いなく地域の文化の中心にあったはず。
そして門前町は文字通りの門前町として栄えていたはず。しかし今日、若い世代は、
例えば輪島へ金沢へ東京へと出て行ってしまったのだろう。旧門前町の高齢化率は
47%強と聞く。この地震を好機と位置づけ、V字カーブを描いて不死鳥の如く昔日の
栄光を取り戻そうという絵が描けるのであろうか。あるいは静かに歴史から消えて
いくのか。

防災学の基本的テーゼの一つ、「災害はそのコミュニティがもともと抱えていた傾向を
加速化する」。旧門前町ではどうであろうか。



                                     (4月3日アップ)

能登半島地震現地調査 初日

2007-03-30 23:19:08 | Weblog
 十分な睡眠も取れぬまま、事務所での朝を迎える。シャワーを浴び、荷物をチェック
して羽田空港へ。第二ターミナルは広い!ともあれ、能登空港までANA747便。機中は
爆睡。飛行機を降りる際、前の席に同僚S先生T先生が座っていたことに気付く。
どこかでも似たような話があったなぁ……。

 両チームとも空港でレンタカーを借りる。道中安全を祈りつつ別行動。当方は
まず旧門前町へ。門前に向かう道は、ほとんどの店が開店していた。まずは一安心。
途中、NHKのIさん、時事通信のNさんら、先に入っていた面々から電話で情報収集。

 旧門前町に着き、まずは現地に入っていた静岡新聞東京支社のMさんと会う。
予算の都合とはいえ、被災地で一人取材は辛かったであろう。現地調査はバディ
(2名一組)を原則としたいが、そうもいかないのが現実か……。Mさんの案内で
旧門前町の中心部を歩く。なるほど、旧耐震の家屋が中心のまちを震度6強の揺れが
襲うとこうなるか、という感じ。RC造の建物は、パッと見では大きな被害は出ていない
模様。建物被害については、いずれ詳細な記録が出るであろうし、どの道K君も
「旅の坊主」も建築の専門家ではない。ともかくまずは全体像をつかむことが
先決、というところ。

 午後便で東京に戻るM記者と別れ、まずは腹ごしらえということで、国道沿いで
店を開けていた「せせらぎ」でてんぷら定食。現地門前でも昼食の確保ができる
ことが確認できて何より。コンビニ弁当も覚悟はしたが、やはり定食がいただける
のは有難い&心強い話。

 地震発生3日目から現地に入っている災害看護支援機構のYさんに電話。道下
(「とうげ」と読む)にいるとのことで、そちらに向かう。道下で駐車スペースを
探しているうちに、訪問調査をしているYさんと、神戸ではおなじみの顔であるKさんと
ばったり。車を置き、一緒にまわらせていただく。どこかで見た方が一緒だと思ったら、
大阪・MBSラジオの「ネットワーク1・17」という、知る人ぞ知る防災番組のキャスターを
務めるU記者。ゲスト出演させてもらったのは2年前だったか。
 まぁ、そういうものである。

 道下地区を歩き、さらに黒島地区、門前西小学校避難所と見てまわる。門前西小
では、ごめんなさいと思いつつ、避難所の内部を数枚写真に撮らせてもらう。

 発災6日目の現地入りゆえ、出遅れた分を取り戻すという考え方もあるのだろうが、
日も暮れてきたし、今日のところはこれまでとして、七尾市・和倉温泉駅近くに
取った宿へ。

 直下型の地震ゆえ、少し離れれば普通の生活がある。確かに和倉温泉駅周辺でも
多少の被害は出ているが、市民生活に支障があるほどではない。バス・トイレに問題は
なく、何よりLANが使えることは嬉しい。被災地まで約1時間の「通勤」であるが、
この選択は間違っていなかったと思う。ホテル前のドラッグストアで買い物をした後、
近くの焼き鳥屋で、引き続き、ホテルの部屋で、K君と明日以降の行動方針など
議論する。

                                       (3月30日記す)
                                       (4月15日アップ)

旅の坊主 原点へ (その6、最終日)

2007-03-22 23:19:43 | Weblog
 タイ最終日。

 「展望台で日の出の写真を撮るのだ」というK君O君を送り出し、もう一眠り。
朝日が直接顔に差し込んで起こされる。先日、京都で買ってから持ち歩くように
なった煎茶具一そろいを取り出して朝の一杯。そうこうしている間に2人が帰って
くる。

ホテルのバイキングは客層を意識してか、いかにも欧米人向けのメニュー。タイ風
やきそばも焼き飯もお粥もなし。まぁ、そんなものか。多少とも塩水交じりのシャワーを
浴び、パッキング、そしてチェックアウト。

 ちなみに、お世話になったArayabi Bay View Resortには、無線LANの設備あり。
個々のバンガローまでは届かないだろうが、フロント周辺はOK。といっても、こういう
場所まで来て仕事(のメール)をしたくないと思うのが普通だとは思うが。

プーケットに戻る桟橋まで砂浜を10分歩くか、2時間ボケーとしてからホテルの
ロングテールボートで送ってもらうか、ちょっと考えたもののやはり後者に。海を
見ながらのんびりと過ごす。こんなのんびりとした時間を過ごせるのは、この次は
いつか、なんてことは考えないようにしよう……。

桟橋近くの日本語メニューもあるレストランでスパゲティをかきこみ(なんでピピ島
まで来てスパゲティなのやら……)、桟橋へ。桟橋の両側にフェリーが3隻ずつ。
同じ船に、HIS主催の?日帰りツアー客と思しき日本人が、それでも20名ほどか。
どうせなら泊まってあげれば、ピピ島の復興の手助けにもなるだろうに、と思い
つつも、そこはそれぞれの事情、か。

乗船前に買い込んだSingha Beerを空けつつ、オープンエアのデッキで2時間ほどの
船旅。数週間分の充電、かな。

プーケット島に着く直前からスコール。学生2名とは桟橋で別れる。彼らが充実した
時間を過ごせますように。雨の中、一人空港へ。だんだん日常が近づいてくる。
プーケット国際空港内のRoyal Silk Loungeでメールチェック。バンコクまで1時間弱の
フライトも、「飛んだ・食べた・着いた」で終わる。スワンナブーム国際空港はともかく
広い。道に迷った訳ではないのだが15分くらい歩かされたような……。ボーディング
までの時間をJALのサクラ・ラウンジで、これまたメールチェックで過ごす。

2230発のJL718便で成田へ。

                                    (3月23日記す)
                                    (遅れ馳せながら4月15日アップ)

旅の坊主 原点へ (その5)

2007-03-21 23:44:16 | Weblog
 6時に起きる。シャワーを浴び、チェックアウトの準備。残念ながら朝食は
食べ損ね。ホテルについて訂正。ちゃんとジムもスパもあった。それに気付かず、
使わず仕舞だったことが残念……。

 7時15分頃、迎えのミニバスが到着。ピピ島へのフェリーが出る波止場へ。
K君O君とはこの波止場で待ち合わせのはずだったのだが、彼らから電話。
「先生、迎えのバスが待っても待ってもこないんです。もう30分も待っています。
どうしたらいいでしょう?」

 「ともかくタクシーを捕まえて波止場まで来い!」と言ったのだが……。

 後でわかった話だが、パトンビーチのホテルを周りピックアップするミニバスが
事故を起こしたとのこと。代わりのミニバスは出したのだが、8時30分のフェリー
出航には間に合わず。事故ゆえ旅行会社に文句を言う訳にもいかなかったが、
会社もさすがにそこは「メシの種」を怒らせるようなことはしない。という訳で、
乗り遅れた面々はジェットボートでフェリーを追いかけることに。

 ピピ島。

 話には聞いていたが、本当にこぢんまりとしたきれいな島。ホテルは奮発して
エクストラベッドを入れて3人分で約16,000円。まぁ、K君O君の新婚旅行リハーサル
経費を持ってあげた、というところ、か。

 荷物を解き、さっそくまちへ。といっても、10分も歩けば波止場に着くような
小さな島。久しぶりに素足に砂を感じながら歩く。それにしても、日本人の姿を
ほとんど見ない。「被災地が観光地なら、遊びに行ってお金を使うことが最大の
復興支援になる」という厳然たる事実は、日本人のメンタリティーでは理解し得ない
ということなのか……。

 南側に開いたトンサイ湾(個人的にはビーチと呼ぶべきだと思う……。)
 ビーチ沿いの店はどれも真新しい。津波ですべてを持っていかれた後、何とか
再開にこぎつけたということであろうか。観光客が増えていくのを願うのみ。

 タイ料理を中心とした昼食。同行動中は学生にメシを食わせるのは教員の仕事の
うちと思おう。夕食を一緒にすることにして、しばらくは個別行動に。

 町と言っても100m×300mにほとんどが収まるような小さな町。ともあれ、
写真を撮りながらいろいろと歩く。数多くみかけるタイ式マッサージ店の一つに入り、
背中と首と肩のマッサージ、1時間350B。肩こりや首の張りは僕らの職業病のような
もの。少しは運動をしろ、ということなのだろうが、まぁ、ここは地元にお金を
落そう、と。

展望台まで10分ほど歩く。まちの全体像が理解できた。白い砂浜とエメラルド
グリーンの海。本当に絵に描いたような南の島。まち中にダイビング・ショップが
多いのもうなずける。海岸沿いにレストランやバンガローがあるのも当然のこと。

 津波に襲われるかもしれないから、そんな場所に店を建てるな、とは誰にも言え
ない。

「9999日は恵みをもたらすが、一日荒れ狂う。そんな海とどう付き合うか」

 一昨年、宮古市の鍬ヶ崎小学校で行なったDIGの最後の課題だったが、多分、ここ
ピピではもう少し発生頻度は低いだろう。そして次の津波も遠地津波ならば、財産は
ともかく、人命の損失をゼロにすることは十分可能だと思った。その日まで、人々の
記憶を、世代を超えてどう伝えていくかが大きな課題だが。

 夕食は、あえて『地球の歩き方』にある「欧米人のたまり場」というステーキ・
レストラン。二次会は、「避難施設」の看板が出ているオープン・エアのバーへ。

 『地球の歩き方』には、毎週月曜日にはニューハーフ・ショーがあるバーの紹介も
あったが、残念ながらこの日は月曜日ではなく、という訳で、こいつは次の機会に。


                                    (3月22日記す)
                                    (遅れ馳せながら4月15日アップ)

旅の坊主 原点へ (その4)

2007-03-20 23:36:05 | Weblog
 7時半過ぎに目が覚める。

 夜のうちに携帯の電池が切れていたようで、入れ替えた直後に
K君O君から電話。無事プーケット・タウンに着いたとのこと。まずは
パトン・ビーチに向かい宿を取るよう伝え、当方はシャワーと朝食。

 翌日のピピ島行きの件。エージェントと交渉したが、フェリーの予約は
出来たがホテルの予約は出来ず。まぁ何とかなるだろう、と気にもせず。

 白タクを交渉。1日6時間2000BT+昼食代で交渉成立。聞けば、04年
12月の津波で、15年かけて買った2台の車を一瞬で失ったとのこと。
政府から1台10000BTの補償金が出たが、涙しかなかった、と。とはいえ、
何もしなければ食べられず、カオラックに派遣されたノルウェー警察の
検視チームのドライバーを務め、日銭を稼いだとのこと。「カオラックなら
どこでもわかるぞ」「連れて行ってやるからあと3000BT出せ」といった売り
込みを聞き流しつつ、プーケット島巡り。

 まずはパトン・ビーチで学生2人をPick up。次いで屋台のビデオ屋で
津波のVCD2枚とThe Nationの津波特集を買う。半ばは寄付とは思い
つつも、もちろんVCDは違法コピーモノだし、The Nationの特集は普通の
本屋なら90BT。合計900BTはちょっとサービスしすぎか。

 プーケット・タウンに行き、さらに本屋巡りをするも、ここでは収穫ナシ。
ピピ島へのフェリー乗り場を確認した後、学生にシーフードの昼食を奮発。

 午後はプーケット島北西部のMai Kao海岸を目指す。
 Angel of the Beachと呼ばれたイギリス人のお嬢さんが活躍した場所を
さがすも、特定には至らず。らしき場所で写真を取ったのみ。

 Mai Kao 海岸の屋台でコーヒーを飲み、次いで「津波犠牲者慰霊の壁」に
行く。TTVI (Thai Tsunami Victim Identification) Site 2の跡地。プーケットと
本土を結ぶ橋のプーケットのたもと近くにある。僕らが写真を撮っている間にも、
ノルウェー人のグループが「知人に会いに来た」とやってきた。ベニヤ板と鉄
パイプで作られた、決して立派とは言えない白い壁であったが、各国の国名と
国旗が書かれており、幾つかの祭壇には写真や人形が掲げられていた。

 ただ……。日本の祭壇には何もなかった。日本人の弔い方というのは、こう
いうものなのだろうか……。どこか、さびしさを感じざるを得なかった。

 パトンビーチに戻ったところで17時の時間切れとなる。無論、延長もできた
のだが、今日のところはGood byにする。

 その後ビーチで丸々二時間余、何もしない時間を持つ。ただ、夕日が沈んで
いくのを見たのみ。何というぜいたくか。これだけで日本に戻って2ヶ月は持つ?

 K君O君が合わせて600BTで借りたというゲストハウスをチェック。「お友達
レート」にしてくれたそうだが、なかなかよい部屋。この分であれば、彼らもよい
経験ができるのではないかと期待。リーおばあさんとご主人が経営するBest
というレストランがある建物の4階の角部屋。ただ、2階と3階は建設中。

 おばあさんに敬意を表してBestにて夕食。その後、ハシゴでもう一軒。酔い
覚ましに2kmほど歩くも、さすがに汗をかいた。途中で妥協し、バイクの
後ろに乗せてもらってホテルへ。200BT。

                                   (3月20日記す)
                                   (3月26日アップ)