「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

西日本豪雨水害から1ヶ月、ようやくの現地入り

2018-08-07 23:03:47 | 平成30年7月豪雨(西日本豪雨災害)
一昨日(8月5日)夜の神戸での勉強会の席上でのことだった。

採点・成績登録と引っ越しという仕事を抱えている身であることは百も承知で、
せっかく神戸まで来ているなら、8月6日は広島で過ごすべきではないか。
そんな、ある意味での「悪魔のささやき」が天から降ってきた。

直接的には、同席のM先生が、宴席が終わったその足で広島に向かい、
6日は安芸郡坂町で過ごす、ということを話されていたからだと思う。
っと、他人のせいにしても始まるまい。

ともあれ、6日は早起きして始発の新幹線で広島に向かい、
平和公園でその時を迎えようという市民に混じり、黙祷を捧げてきた。
そこまでは良かった。後悔もない。

さて、その後どうするか、であったのだが、
情けないながら少々体調に難ありとなってしまった。
基本的には胃腸は丈夫な「旅の坊主」である。海外旅行中も、現地の水を飲んでもまず腹を下すことはない。
そのつもりでいたのだが、昨日はちょっと違った。

前期の疲れが出たのか、睡眠不足がたたったか、暑さにまいってしまったのか。
(腸は第二の脳という表現もあるのだそうな。頭の疲れが腸に出るということ、なのかな?)
ともあれ、近くにトイレがないと厳しそう、という体調になってしまった。

我ながら情けない、と思いつつ、現場にトラブルを持ち込む訳にもいかない。
となれば、ボラセンに顔を出す訳にもいかなくなってしまった。
体調が悪いと、とたんに頭の巡りも悪くなる。
決断を下すのにも時間がかかり、かつその決断がベストのものとは限らない。
ともあれ、逡巡の末に取った行動は以下の通り。

朝 原爆ドーム近くにて黙祷 その後平和公園を散策(途中旧制広島二中の慰霊碑に参拝)。
広島港(宇品)発11:20のフェリーで呉へ。12:05呉着。昼食休憩。
呉駅の駅レンタカーで車を借り、呉市から安芸市坂町まで往復。
呉発17:15のフェリーで再び広島港へ。市電で広島駅に戻り、新幹線で新富士へ。

どうでもよいことを書いてしまった。反省。
坂町の現場で何を見て何を考えたのかこそ書かなくてはならないが、
それは明日以降とさせてもらおう。

広島原爆の日に思う

2018-08-06 21:31:56 | 日常の一コマ
初めて、広島原爆の日、8月6日の午前8時15分を、平和公園で迎える。

メディア的には「祈りと鎮魂の1日」なのだろうが、現実にはヘイトスピーチあり、シュプレヒコールありと、
祈り一色ではないところに、リアルポリティークが現れていた。

前年以前の例を知らないが、警備に当たる警察官の数の多さは異様に思われた。
ではあるが、それもまた、核軍縮(あるいは核軍拡)という問題が持つ特徴の一つなのかもしれない。

心情倫理で国際政治の問題が解決することはない。
少なくても、心情倫理を十二分にカバーし得るリアルポリティーク上の知恵あるいは方法論
(時にしたたかさ・あるいはずるさ)を持たない限り、思いが具体化されることはない。
ある意味で、その現実を、奇妙な形ではあるが、再確認させられた、そんな広島原爆の日、だったのかもしれない。

ただ……。現実を変え得る方法論を持つことの重要性は当然のこととして、
己の原点が何だったのかを抱き続けることも、また重要なことだろうと思っている。

その意味で、以下に、合唱組曲「男声合唱とピアノのための《祈りの虹》」
(作詞:峠三吉、金子光晴、津田定雄/作曲:新実徳英)全4曲より、
終曲〈ヒロシマにかける虹〉の歌詞を記す。

折々に聞き直すべき曲、と思っている。


汐の香が静かに吹き渡ると
まだ冷たいしじまの砂に黎明はひたひたと寄せてくる

次第に公園の楠は明るく
見え隠れする記念碑たちは赤く映えて
ヒロシマはよみがえって来る

みなぎり昇ってきた
八月の太陽はもう暗い影ばかりをつくりはしない

水晶のような川底の砂は
デルタから昇ってきた魚と光りながら語り合っている

過ちは再び繰り返してはならない

研ぎ澄まされた僕の眼と
和らぎを求める人々の眼がヒロシマに集まり
じりじり時を刻んで 死者の時を待っているのだ

今は物質と精神のけじめも対立もなく
普遍者の中に助け合い 川は流れてゆくのだ

もはやカルマもゴルゴダの夜もない

僕は光り輝く霊となり
青みわたる空の中に昇華してゆく

一陣の風が起これば霊はしたたる水となり
涙となってくぐりぬける
美しい虹を咲かせる

これこそ真の神よりヒロシマにかける救いの虹
そして普遍者に応える祈りの虹

七色に大きくふたつの輪を描き
いつしか象徴の花に溶け合い輝き合ってゆく

アベ・マリア・・・

大阪府北部の地震から何を学ぶか(その5、最終回)

2018-08-05 23:05:28 | 大阪府北部の地震
昨日(8月4日)、私は、静岡県富士市で、
富士市防災危機管理課と富士建築士会主催のDIGセミナーのお手伝いをしていました。
もちろん、南海トラフ巨大地震を念頭に置いた地震防災DIGです。

例によって、「震度7や震度6強では致命傷なし」「震度6弱では実質無被害」という
災害対策の目標を掲げました。その上で、
震度6弱の「ザコキャラ」でブロック塀が倒れ、お二人がお亡くなりになってしまったことから何を学ぶべきか、
私たちに何ができるのか、問題提起をさせてもらいました。

70名ほどの参加者との議論の中で、ハッとさせられる指摘がありました。
なるほど、「総論賛成・各論反対」とはこういうことなのか、を、考えさせられるものでした。

富士市には、中学校の全生徒(+教職員+PTA)を挙げて、防災まち歩きをしてくれている学校があります
(ちなみに今年は11月21日(水)に実施予定です。)。
このプロジェクトの素晴らしいところは、防災まち歩き&DIGの成果を、
地域の方々に向けて中学生自身が発表するところまで、
パッケージ化されている、ということなのです。

そこで、このような防災まち歩きの機会を活かし、中学生諸君に「鉄筋感知器」を持たせ、
ブロック塀の点検をさせ、その結果を地域の方々に報告する機会を作れば、
何か動き出すのではないか、そんな提案をさせてもらいました。

でも……。

ブロック塀をかかえている方々の全員が、いかに災害予防のためとは言え、
そのような防災まち歩きに協力してくれるのか、そこがネックになりました。

自分の家のブロック塀が危険なことは百も承知。
でも、その現状を中学生にチェックされ、地域の方々を前に、あからさまに、
「この家のブロック塀の鉄筋の入り方は問題があります!」などと言われた日には……。

自覚がある分、面白くはありませんよね。
とすれば、どうすればよいのか……。

中学校の活動ゆえ、地域住民の方々のメンツをつぶすようなことは避けたいと思うのは当然のこと。
でも、このチャンスを逸しては、本気モードでのブロック塀の倒壊防止対策ができるのか、
かなり厳しいところだと思います。
実施予定日まで3か月半。さて、どうしたものか……。

「ザコキャラ」であった大阪府北部の地震でお亡くなりになられた
三宅璃奈さんと安井実さんの死を無駄にしないためにはどうすればよいのか。

知恵を絞ります!

【大阪府北部の地震から何を学ぶか(その4)】

2018-08-04 21:00:05 | 大阪府北部の地震
私は、1989年(平成元年)、自衛隊の災害派遣をテーマとする公務員研究者として、
防災の世界に足を踏み入れました。
つまり私は「予防・対応・復旧」という防災の三本柱で言えば、
最初は、災害対応のあり方を考えるという観点で、防災の世界に取り組んでいた訳です。

2000年、現在の常葉大学社会環境学部の前身である富士常葉大学環境防災学部に着任、
片手間防災人から、フルタイムで防災を教え学ぶ大学人となった訳ですが、
直接的には2001年3月と8月のネパール・カトマンズ滞在時、災害対応の限界を思い知らされました。
それを契機に、災害対応から災害予防へと関心が移り、
「予防に勝る防災なし」「予防の基本は立地と構造」という主張をするようになり、今に至っています。
この予防、あるいは立地や構造へのこだわり、まちづくり、人づくりが、
私の主戦場である、と思い定めていますが、それはそれとして。

では、三本柱の残りの一つ、災害からの復旧は?また復興は?
自らの責によらず被災した者への「寄り添い」は、どうなるのでしょう?

被災者への「寄り添い」と言えば、今は亡き黒田裕子さんを思い出します。
その黒田さんと親しく議論する関係であったにもかかわらず、未だに私は、
この「寄り添い」に一義的な重みを置くことが出来ずにいます。
防災の受益者はつまるところ普通の市民である。そのことは十二分にわかっているはず、なのですが……。

そんな私ですが、大阪府北部の地震では、被災者支援に熱心に取り組む防災仲間の活躍を見て、
やはり、被災者支援and/or「寄り添い」の枠組みについて、考えざるを得ませんでした。
キーワードは「グレーゾーン」です。

今回の地震では全壊家屋は極めて少なく(当初数日はゼロで後に4棟に修正)、
建物被害の圧倒的多数は一部損壊でした。

一部損壊にも幅があるとはいえ、
基本的には被災者自身の財力で(=公的支援がなくても)補修可能な程度の被害、というのが、
一部損壊の「裏の定義」となる訳です。
災害救助法に定める住宅の応急修理も、その対象は原則として半壊または大規模半壊の被害を受けた住宅です。
一部損壊では、被災者生活再建支援法の対象にもなりません。
(ただし自治体が独自の考えと独自の財源により支援策を行うことは可。)。

ですから、被災直後から、屋根瓦が落ちた家々への支援をどうするか、
具体的には、ブルーシート貼りで当座はしのぐとして、その先、
独力では屋根瓦の葺き直しが厳しい生活水準の方々への支援をどうするか。
関係者の間では大いに議論になっていました。

日本家屋には、揺れることで屋根土とその上に置かれた瓦が落ち、
そのことでトップヘビー状態を脱して建物の倒壊を防ぐ、という耐震性確保のメカニズムがあります。
(余談ですが、2007年の新潟県中越沖地震の被災地では、
強風で瓦屋根が飛ばないようにと瓦をしっかり固定してしまったがゆえに、
屋根の三角形をそのまま維持した状態で倒壊した日本家屋を数多く見ました。)

今回の地震で屋根瓦が落ちた家屋が相当数発生したことは、
日本家屋の耐震性確保のメカニズムが設計図通りにしっかり機能したことを意味します。
ですので、それはそれで歓迎すべきことではあるのですが、もちろん、
屋根瓦を葺き直さなくてはそこから家屋の痛みが生じてしまいます。
しかし、葺き直し費用の数十万円を出す経済力に欠ける社会層に対して、
少なくても全国一律の資金提供の仕組みは存在しません。
(生活資金貸付等の貸与の仕組みはあります)。

「被災者に寄り添う」という観点からすれば、
これらの方々の苦境を、「自助努力の範疇だろうに」と切って捨てる訳にもいかないでしょう。
ただ、これらの方々、つまりグレーゾーンの方々への支援の仕組み作りは防災・災害対策の範疇なのか、
そこは社会福祉地域福祉の範疇ではないのか。そう思ってしまった訳です。

「災害は貧しい者によりつらく」。

この格言通り、地震での被害は一部損壊レベルとはいえ、
しかるべき支援の手を差し伸べないとその後の風雨で被害のレベルが深刻化してしまう方々は、相当数おられます。
とはいえ、単純に災害救助法の特別基準を申請すれば良い、というようなものではないでしょう。

仮に、「背中を押すための支援」「専門職ボランティアや建築専攻の大学生高校生の実習機会との合わせ技」含みで、
1棟10万円の税金投入の仕組みを作るとしましょう。
今回の地震はさておき、南海トラフ地震で300万棟が一部損壊になればこれだけで3000億円の財源が新たに必要となります。
このようなアイディアは問題解決につながるのか。あるいは根本的な方向性が間違っているのか。

この地震以来、ずっと考えています。

【大阪府北部の地震から何を学ぶか(その3)】

2018-08-03 13:14:03 | 大阪府北部の地震
一昨日、昨日の話の続きです。

先日入稿した『近代消防』での連載の中で私は、
高槻市消防本部や大阪市消防局が小村流の地震防災IGをやりたいというなら、
喜んでお手伝いさせていただく、と書きました。
「旅の坊主」生活ではなく、「旅の坊主、庵に籠る」の年に達しているだろうに、とは思いつつ、
大阪府北部の自治体が地域防災に改めて取り組もうというのであれば私としても精一杯の応援をしなくては、
という意味です。
三宅璃奈さんと安井実さんというお二方の死に対する、自分なりの「落とし前のつけ方」のつもりです。

これを含め、私が直接携わることの出来るDIGの場面では、この、
「震度6弱というザコキャラ級の揺れで倒れるようなブロック塀が、なぜ、今まで放置されてしまっていたのか」について、
少なくても再来年の春までは、徹底的にこだわって行きたい、と思っています。

私が行うDIGでは、まず、
「震度6強の揺れは全国どこでも起こり得ると覚悟しておくべき」という、地震大国日本の現実を説明し、
「震度6強の揺れを受けたら地域はどうなるか?」をイメージさせることから話を始めます。
その後、前述のように「震度6弱なら実質無被害」「震度7や震度6強でも致命傷なし」という防災目標を掲げた上で、
「その目標を達成するための課題を明らかにしよう」「可能ならばそれを具体化するための方法論を考えよう」
という議論の導きをしています。

ありがたいことに、さっそく今週日曜日(8月5日)、東京消防庁防災部からの頼まれ仕事で、
東京都下でDIGのファシリテーターをやってくれそうな方々向けに、
2時間半のDIGセミナーを行う機会があります。
璃奈さんと安井さんの犠牲を無にしないための、ブロック塀の安全性確認にこだわったDIG、
展開させていかなくては、と思っています。