「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

「住むならどこに?」:防災教育の基本的な問いかけとして

2015-08-31 23:10:40 | 防災教育
週末には脱稿できなかったが、
(カンボジアでのスタディーツアーが本格始動までの自主的カンヅメ2日間で脱稿できないとかなり問題だが……)、
防災教育の体系性について、かなり頭の中が整理されてきたように思っている。
まだ文章化の途中であり、本来であれば「出来上がってからモノを言え」なのだろうが、
まぁ、そこは近々のお楽しみとしてもらうこととして……。

防災教育について考える時、この「防災」と「教育」という2つの言葉に、
周辺にある幾つかの言葉を関係づけることで、より生き生きと物語ってくるように思う。
先日来の、消費者教育としての防災などはその典型。
もちろん、避難用グッズや備蓄などという、戦闘レベルには役立つが、戦略的には何の意味もないものではなく、
本質的なものへと導く必要があるのだが……。
(悲しいかな、その種の議論は、あまりに浅いか、あるいは今まで存在していないのだが……。)

今月半ば、土砂災害理解教育DIGの前日、日本工営のTさんに研究室にご足労いただき、
2時間ほどだが充実した議論をすることが出来た。
で、そのような議論の末に得られたキーコンセプトは、いろいろなところに横展開が効く。

「住むならどこに?」という言葉、
住宅購入適齢期の方々にぶつけてみるならば、相手は「人生最大の買い物」がかかっているだけに本気モード。
それゆえ、いろいろな良い反応が期待できるだろう。

学びの段階にある子どもたちにぶつけてみるならば、ピンと来てくれる者は少ないかもしれないが、
今までの「今起きたらどうしますか?」ではない、防災の世界があるのだ、ということについては、
多少はイメージしてくれるだろう。

行政の担当者向けには、少し表現を変えることが必要かもしれない。
つまり「住まわせるならばどこに?」、と。
地域行政の者が、みな、このような問いかけを自分にも相手にも発していくならば、
時間はかかろうとも、多少は世の中もまともになっていくだろう。

そんなことを、これから数日のうちに、1万字程度にまとめなくては、というところ。
ここまで出来ているのだから、まぁ、何とかなるだろうとは思っているのだが……。


エクアドルからの津波防災研修のお客さまをお迎えして:津波防災は避難じゃない、土地利用だ!

2015-08-30 23:42:19 | 国際防災協力
日曜日の午後、小雨の中、毎度おなじみの静岡県地震防災センターへ。
JICAの招きで静岡に滞在中のエクアドルの防災&地方自治関係者20名ほどを対象に、
コミュニティ防災の話をさせていただく。
カタコトのスペイン語と英語で何とかなるか、と思っていたが、
ほとんどの研修生が英語は使えない、とのことで、
日本語=スペイン語の通訳さんの「強制介入」となってしまった。
(ここはちょっとお粗末でありました……。)

ともあれ、1時間弱という時間ではあったが、
日本の国際防災協力の一端を、特に住民参加型の小規模土木工事のあり方と、
津波防災について、実体験に基づいて話をさせてもらった。

その後、研修団の皆さんは、地震防災センターの映像資料や地震動の体験施設などを見学、
それなりのものを得て下さったと思っているのだが……。

今ごろになって、ではあるのだが、内閣府が作った津波防災についてのビデオを初めて見せてもらった。
(センターのスタッフが、いわば手持ち資料の紹介としてお見せしたもの。)
(今年3月、仙台での国連防災世界会議で配布されたものなのだそうな。)
なるほど、映像としては大変質の良い、お金をかけて作ったのだろうなぁ、とは思うものだった。
だが、「旅の坊主」のメッセージとは根本的に合わない。そのことを再確認した。

なぜ、世界に向けて津波防災を語るビデオを作る際、避難を中心に当ててしまったのか?
致命的な判断ミス、と思う。

これが、日本人の「下士官根性」というものか……。
あえて言えば、全世界に、日本の恥を晒してしまったのか、とすら思ってしまった……。

与えられた条件下でベストを尽くせば、それでよいのか?
何かあれば避難すればよい、ではなく、そもそも避難しなくてすむようなまちを作ろう、ではなかったか?

エクアドルの方々へのメッセージとしてこだわったのは、「危険な場所には住まない・住まわせない」ということ。
まず考えるべきは「土地利用」、Land Use Managementでなくてはならないはず。
人工構造物で守るというセカンドベストもある。避難を教えることで命を守るというサードベストもある。
でも、追求すべきは、やはり、土地利用だ、と思う。
そのことは、理解するのにそんなに難しいことなのか?それほどまでに理解してもらえないものなのか?

研修団のアテンド担当者が友人だったので、彼にも話を聞いてみたが、
来日時に彼らが行ったプレゼンの中では、土地利用についての議論はそれなりにあった、とのこと。

しかし、そのセンス(ポテンシャル)を持っていながら、
静岡の者が(内閣府の資料を使ってとはいえ)わざわざ津波避難を教えることで、
間違ったメッセージを持ち帰らせてしまうのではないか?そのことが大変気になった。

内閣府が作るものに影響力を行使し得ない現状は甘んじて受け止めるとしても、
これは違う、と思った。

そして、それを、防災先進県静岡の地震防災センターが、
海外から津波防災を学ぶために来た研修員向けのプログラムとして示すべきではない、

そのことは、今回、トータル2時間半ほどという短い時間ではあったが研修団にお付き合いして、
はっきりわかったように思う。

静岡で国際防災協力に恒常的に携わっているほぼ唯一の身として、
ここはしっかりしなくては、と思ったような次第。がんばれ自分!

消費者教育としての防災?これだ!(その2)

2015-08-29 23:55:14 | 防災学
ようやく「原稿書きの神様」が降りてきて下さったようで、
原稿書きモードになって週末を迎えられたのが何よりであった。
とはいえ、残り1万字余を土日で仕上げられる自信はないのだが……。

現在取り掛かっている防災教育についての原稿、
正しくは「防災まちづくり・くにづくり学習」という言葉を使っているのだが、
目次構成を見る限り、また、執筆陣の中で「旅の坊主」が知るメンバーの研究分野を見る限り、
昨日来の「住むならどこに?」という、消費者教育としての防災、
もっとはっきり言えば、人生最大の買い物の(防災面からの)選び方について、
しっかりとした議論がなされるようには思われない。

その意味で、このテーマ、すっぽりと抜けていた議論なのだということに、今さらのように気付かされる。

防災学をライフワークと見定めた者が言う話ではないが、
防災なんて、年がら年中考えているようなテーマではない。1年に1回でも多いくらい。
ただ、本気で考えなくてはならない時が、人生の中で何回かある。
その際たるものが、やはり家を買う時!
このタイミングに合わせた、しかるべき情報提供が出来てナンボ、
そういう話になるのだろうなぁ、と思う。

依頼があったばかりということもあり、県側(主に県民生活局側)とこのテーマについて、
細部まで詰めている訳ではない。ただ、モデルケースとするからには、
しかるべきアウトプットまで考えたものにしたい、とは思う。
片手程度の研究会でどこまで議論を詰められるか、という話はあるが、
どうせやるならば、本気モードで、本1冊にまとめるくらいの中身はあると思う。
まぁ、いささか過激にならざるを得ないため、消費者庁印には合わないだろうが、
先方の了解が得られるならば、そういう方向もあるかな、くらいの気持ちではいる。
問題は、取り組むからには8割方の原稿を書かなければならないことになるのだろうが、
それをこなせるか、ということ。
これが大変厳しい……。

ともあれ、一つの方向性(大きな課題)は明確になった訳であり、
それに向けてどこまで時間と気力を投入できるかの勝負である、その点は間違いない。
さて、カンボジア・スタディーツアー下見への出発まであとわずか。
原稿を仕上げることは出来るだろうか……。

消費者教育としての防災?これだ!自宅購入適齢期の方々向け必読書を書こうではないか!

2015-08-28 23:47:59 | 防災学
大学が夏休み期間中なのをよいことに、時差ボケ解消も兼ねた休養日となっていた昨日、
携帯の留守電に、静岡県で消費者行政を担当している旧知のTさんから、
「旅の坊主」に頼みたい何かがある旨、メッセージが入っていた。

たまたま携帯の充電が切れていた&本人は使い物にならず、その留守電を聞いたのは今日の昼前だったのだが、
さすがTさん、この依頼は大変素晴らしいものだった。
良くぞまぁ、「旅の坊主」に白羽の矢を立ててくれたもの、奮い立つようなものだった。

依頼の主旨は、消費者教育に防災を織り込むための研究会を立ち上げるので、
それを手伝ってもらえないか、というもの。

で、思い出したことがあった。

10年以上前になるのだが、静岡県内某市で講演の機会をいただいた時、
以下の発言をしたために、若干の物議を呼んだことがあった。

「だますほうが悪いのか、だまされる方が馬鹿なのか」

もちろん、不動産業者と、家を買う・借りる一般市民=消費者を念頭に置いたもの。
世の中、良心的な業者ばかりではない。
あるいは、悪気はなくても知らないがゆえに、「スカ」を売ってしまうことがあるかもしれない。

その時、買う側・借りる側にしかるべき防災の知識があれば、
「それはおかしいでしょう?」と言えるのだろうが、果たしてそのような消費者教育は、
どこまでなされているのか、と。

今回のプロジェクトは消費者庁からの仕事で、消費者教育に防災を盛り込んだ先進事例を作ろうではないか、
とのこと。であれば!

家を買う「適齢期」が何歳くらいなのかはともかく、それに先立つこと数年間は、
「人生最大の買い物」を間違えないよう、相当の検討をするはず。

その時に、「まずはこの本(資料?HP?)を読みなさい!」というようなものをまとめられれば、
社会に対して、大きな貢献が出来るのではないか、というもの。

多少は防災を学んだ者であれば基礎的また常識的なものであろうとも、
一般には知られていない議論は、残念ながら山のようにある。
であればこそ、「スカ」を買わないためには、基礎知識としてどのようなものを持って置き、
さらにはどのような情報を確認すればよいのかをわかりやすく示せれば、
「アホな立地にある家」「アホな構造の家」を避けることは出来るのではないか。

このテーマ、本年度下期の大きな課題になりそうである!

8月も最後の金曜日、防災教育本の編集者との議論といい、
月イチで開催している災害看護関係者との飲み会といい、
日本での日常はあわただしいが、やはり刺激に満ちたものであった。

例によって、時間の使い方and/or段取りは下手で、締め切り効果で生きている「旅の坊主」なれど、
今年の秋は、刺激的な、かつ社会的にも意義のある時間を過ごせそうである。

文化の厚さの差とは思わない。とすれば、内へ向かうか外へ向かうかという文化の方向性の差、か?

2015-08-27 23:55:22 | 防災学
毎年GWに行っている東日本大震災の現地踏破終了後にも感じることだが、
1日2日ではなく、一週間以上の長さで日常を離れると、
モノの感じ方や考え方が少し変わるというか、多少は深まるようになる、と思っている。

今回、ドイツとチェコ(プラハのみだったが)を巡って、
幾つかの都市の「らしさ」について、多少なりとも感じ、また考えることが出来た。
防災をライフワークと見定め、かつ最近の問題意識が「防災まちづくり」にある身ゆえ、なのだろうが、
ヨーロッパの都市と日本の「まち」には、まち、あるいは都市についての基本理念なのだろうか、
決定的とは言わないまでも、どこかに大きな差があることを、感じない訳にはいかない。

文化の差とは言いたくないし(話はそんな単純なものではあるまい)、
ヨーロッパ(一くくりにするなと言われるだろうなぁ)と日本の文化の厚さの差、とも言いたくない。
日本にだって、相応の歴史の積み重ねを持つ文化がある。
ただ、都市として目の前にそびえたつものを見る時、明らかにヨーロッパが上だな、と思ってしまう。
一言で言えば、「らしさ」があるかどうか、「らしさ」が追求されているかどうか、なのだろうと思う。

日本の文化は、○○道という言葉に象徴的に示されるように、
内面へ内面へと向かうもの、なのだろうか。
それに対して、ドイツやチェコの街並みに感じたものは、いわば外へ、形へと向かう、
いわば「公共哲学」のようなものの有無(あるいは徹底度)、なのかもしれない。

ヨーロッパの都市についての研究など、山ほどあるのだろうから、
(「旅の坊主」自身、大学1年の時に、一般教養科目でこのテーマのレポートを書かされた記憶がある)
時間があればそれらを読むこととして(まぁそんな時間はないだろうなぁ……)。

我が問題意識に戻るならば、
「自然の摂理」に見合った(災害リスクを踏まえ一定水準の安全性確保は前提)、
かつ、「らしい」まちのあり方、「にぎわい」と「なりわい」が成り立ち、それがゆえに「子どもたちの遊び声がする」まち、
また、その「らしさ」を楽しむべく、遠方からでも人々が見に(浸りに)行くようなまち、
そのようなまちは、どうやれば作っていくことが出来るのだろう……。

一義的には都市工学の範疇には入るのだろうが、そこで収まる議論なのかどうか、それはわからない。
公共哲学あるいは政治哲学の範疇かもしれない。
まぁ、既存の(既成の)、(日本的)政治学や行政学が扱い切れる代物でないことは間違いないだろう。

内面への思いを深めることには長けているはずの日本だが、
複数の者が協力しなければ出来ない「まち」の形への思いを深めることは、やはり苦手なのだろうか。
醜悪、とまで言い切る自信はないが、
(某富士駅の北口がそうなのだが)駅を降りればいきなりサラ金の看板が目に入るような、
それが、まちの形として美しいとはとても思えず、また、そこに「らしさ」は感じられない。

こういう問題意識に応えてくれるような知的集団って、一体どこにいるのだろう……。