「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

【2月28日】チョルテカからテグシガルパへ

2009-02-28 23:24:01 | 国際防災協力
移動日。

9時にホテルを出て、ホンジュラスの首都テグシガルパまで、車で3時間
ほどのドライブ。短期派遣専門家にとっては「まぁそんなものか」で済むが、
年単位で活動する長期派遣専門家にとっては、プロジェクトをまわしていく
上で、移動時間も移動による疲労もばかになるまい。しかもBOSAIプロジェクト
は中米6ヶ国で足並みをそろえて、というもの。調整のための移動だけでも
大変な努力と体力を要することは容易に想像できる。ついでに言えば、車の
良し悪しも疲労に影響する。

まぁ、短期派遣専門家がわかったような顔をして言うべきセリフではないな。

テグシガルパでは、こちらも泊まるだけではもったいないようなホンジュラス・
マヤに投宿。部屋もよいのだが、結局のところ、メール書きと睡眠不足の
解消のためのうたたねで午後を過ごす。夕方、ホテルのお向かいにある
イタリア料理店でO先生、H専門家と3人で食事。

翌朝は早いが、結局のところ何だかんだと夜更かしとなる。

                                   (3月6日記す)

川沿いのまちと、海沿いの村と

2009-02-27 23:52:56 | 国際防災協力
8時過ぎにホテル出発。この日は午前と午後、2ヵ所でワークショップ。

まずは30分ほど離れたジャニートスの町へ。雨期になるとチョルテカ川
が氾濫し、洪水の被害を受けるという場所。ワークショップに入る前に
30分ほどまちを歩く。昨年春に訪問したコスタリカのフィラデルフィアと
似た条件であった。地域の保健センターで行われたワークショップは、
O先生が仕切り、「旅の坊主」はもっぱら写真撮影。守るべきものを「いのち」
「財産」「コミュニティ」の3レベルに分け、それぞれ、やれることを語って
もらう。

午前の部は11時半くらいに終了。片付けの後、車で30分ほど移動して、
午後の会場である海沿いのワピノール村へ。美味しい昼食で一息ついて、
まずは30分ほどまち歩き。午後は「旅の坊主」が仕切り役ゆえ、しっかりと
デジカメで写真を撮る。

テーマは洪水と聞いていたのだが、よく聞けば高潮ではないか。洪水と
高潮、似て非なるものだと思うのだが、まぁ、騒ぐことはないか。

大潮の時だから月に数回、1時間ほど村中が水面下に沈むという。これは、
漁村に住む者の宿命として受け入れるべきレベルのものか。それとも、
災害として、何らかの手を打つべきレベルのものか。

月に数回という頻度を考えるならば、事は生活環境の改善に関わる問題
であり、災害や防災とは別の枠組みの中で議論すべき課題のような気は
する。ともあれ、プロジェクターで撮ったばかりの村の写真を見せ、さらに
手書き地図をてがかりに課題の洗い出しを行い、最後にAB2チームに
分かれて、もっとも重要と思うテーマについて、議論してもらった。

期せずして、両チームとも防潮堤を選ぶ。村の中心部をしっかりと守ろうと
するならば、高さ1m、長さ4kmほどの防潮堤が必要となる。では、それを
本気で作ろうとしてくれるのか。それとも「言うだけはタダ」という話だった
のか。一石は投じたと思うが、見極めはつかなかった。

知識やアイディアは出す、材料費も出す、でも、汗を流すのはあなたがた
自身。私たちはそのお手伝いをするだけ。

プロジェクトBOSAIのこのスタンスは正しいと「旅の坊主」も思う。ただ、
どう考えても手間暇のかかるプロジェクトである。「ポン」と金を出すほうが、
よほど簡単。この種の住民参加型の活動の面倒を見るためには、大変な
仕掛けが求められる。

でも、それが日本の国際防災協力のあるべき姿なのだろうなぁ。

                                 (3月6日記す)

ホンジュラスの山村に思う

2009-02-26 23:51:24 | 国際防災協力
朝7時半にホテルを出発。車で1時間ほどかけてマタパロスという山村へ。

電気も診療所も学校すらない場所。それでいて、周りの山々は、素人でも
わかる山がけ崩れの痕跡ばかり。こういう場所で住民に対して一体何を
言えばよいのか……。小賢しい対策など、ほとんど意味を持たないことは
明らか。しかし抜本的な対策を打つ予算は当然ない。30分ほど近くを
歩いたが、ともかくため息しかでないような場所であった。

この日はO先生と私は2ヵ所に分かれ、それぞれにワークショップの指導に
あたることになっていた。マタパロス村の担当はO先生。というので、こちらは
O先生にお任せし、「旅の坊主」はそこからさらに車で20分ほどのサンタ
テレサ村へ。

マタパロス村に比べれば、まだ地形は穏やかなサンタテレサ村であるが、
それでもあたり一面山がけ崩れの跡ばかり。住民と一緒に1時間半ほど
歩いて回る。実のところ、乾期の光景を見ても、ハリケーンに襲われる
コミュニティの姿をイメージすることは難しい。そして、住民レベルでも実施
可能な予防策を考えることはさらに難しい。何をせよというのか、自問自答
するばかりであった。

リスクマップを住民が作ってくれた。その成果を尊重すべきとは思いつつも、
A3版1枚では20名近い参加者のワークショップで使うにはいささか無理が
あった。ついでに言えば、全域が危険地域として塗りつぶされている地図は、
これはこれで使いにくい……。

サンタテレサ村の会場となった学校には電気がない。それゆえ、電気を
使わない(=パソコンもプロジェクターも使わない)ワークショップをやって
もらえないか、との要望があった。あったが、さすがにこの状況ではきつかった。

いささか不本意ながら、自家発電機を持ち込んでもらい、プロジェクターを使う
ワークショップとした。ただ、2会場に自家発は1つ。午前中はO先生が、
午後は「旅の坊主」が使わせてもらった。ただ、この選択でよかったのかどうか。
もっとしっかり準備することが出来るならば、別のやり方もあったとは思った。

ともあれ、まずはデジカメで撮りまくった地域の写真をプロジェクターで見せ、
地域のリスクを共有させることとした。次いで、日本から持ってきた山がけ
崩れの予兆現象の資料を見せながら、サンタテレサ村での過去の山がけ
崩れにおける予兆現象の話を住民に聞く。でも、残念ながら発言はあまり
ない。予兆まで意識や知識が及んでいないということなのか、あるいは、
そういうものまでチェックできないのが現実なのか……。

「住民自身でも出来ることが何かあるはず」との考え方の下、マタパロス村と
サンタテレサ村を結ぶ道にあった、路肩が崩れている場所を取り上げ、対応
策を議論してもらった。このまま何もしなければ、多分、次の雨期には崩れ、
道は遮断されるであろうという場所。ビニールの買い物袋であっても土のうに
つかえないか、等々の議論をふっかけた。何か一つでも印象に残り、具体
的な予防を促すようなものになっていたならば嬉しいのだが……。

チョルテカ市内のレストランで、ホンジュラス人のスタッフも含めた夕食。
ホテルに戻った後は日本から持ってきた仕事が続く。

                                     (3月6日記す)

エルサルバドルからホンジュラス・チョルテカへ

2009-02-25 23:25:50 | 国際防災協力
朝、Hさんの出迎えを受け、まずは中米広域防災プロジェクト(プロジェクト
BOSAI)の事務所へ。Kリーダーを表敬。スーツケース1つ分のお土産を
託す。その後、プロジェクトの車で陸路ホンジュラスへ。

エルサルバドルとホンジュラスの国境は、拍子ぬけするほど簡単であった。
パスポートチェックもナシ。当然スタンプも押されることもない。そんなのあり?
出国する時どうなるのか、いささか心配になる。

ともあれ、昼過ぎ、ホンジュラスの南東部、チョルテカ市に到着。先行して
中米各国で活動をされていた本学のO先生と合流する。BOSAIプロジェクト
のA長期専門家の仕掛けで、防災タウン・ウォッチングのO先生とDIGの
「旅の坊主」という、笑ってしまうような組み合わせ。ともあれ、O先生と一緒
に活動することで、いろいろと学ばせてもらえるのは得難い機会である。

スタッフと2時間ほど打ち合わせ。何せ、初めて訪問する土地でのワーク
ショップである。開始前に1時間ほど、地域を見る時間こそもらえるものの、
その限られた時間で、その町や村の防災力向上のポイントが理解できるか
どうか。出たとこ勝負はいつもの話であるが、ポイントは外したくはない。
何せ、しばらくはO先生と一緒の道中ゆえ。

打ち合わせの後は、「ウノ セルベッサ インペリアル ポルファボール」

「インペリアル」の味は記憶していたのとちょっと違っていた。後で聞いた
話であるが、それもそのはず。コスタリカの「インペリアル」とホンジュラス
の「インペリアル」は、同じ名前でもずいぶんと味が違うのだそうな。

日本から持ってきた宿題もあるので、小瓶の「インペリアル」もドスで打ち
止めにして、部屋へ戻って一仕事。インターネットがちゃんとつながって
くれるのは、良いのか悪いのか……。
                                    (3月6日記す)

再び中米へ 新たなる旅の始まりに

2009-02-24 23:55:46 | 国際防災協力
 約8ヵ月ぶりの「旅の坊主の道中記」の更新である。
 ブログを書くのは海外でなければならない、なんてはずはないのだが……。

 いつものように、今回も海外出張の前日は徹夜に近いことになった。
 明け方まで仕事をしていて、少し仮眠。9時に起きてシャワーを浴び、母の
心づくしの朝食を食べ、10時前の快速エアポート成田で成田空港へ。長い長い
2月24日(何せ24時間+時差分15時間=39時間)の始まりである。

 両替や資料送付でチェックイン後の慌ただしく過ぎる。まずはJALのコード
シェア便であるAA176便でダラス・フォートワース空港へ。機中はたまった
メールへの返信書きと食事。JICA(国際協力機構)の短期派遣専門家には
「旅の坊主」の格付けでもビジネスクラスを提供してくれる。ありがたい話。
何だかんだと5時間くらいは眠れただろうか。

 DFWで入国手続き。妙なしかけが一つ加わっていたのだが特段の問題もなく
入国できる。それにしても、DHSは、一体何億人分の指紋と顔写真とをデータ
ベース化しようというのだろうか。

 ラウンジでメールを書いたり送信したりしている間に、接続便の搭乗時間と
なる。引き続きAA1560便(これもJALのコードシェア便であったりする)で
ヒューストンへ。ここでも少し接続待ちをした後、CO854便で今宵の宿である
エルサルバドルのサンサルバドルへ。

 空港で長期専門家Hさんの出迎えを受け、サンサルバドル市内まで小一時間の
ドライブ。この日の宿はシェラトン・サンサルバドル。途上国で高級ホテルに
投宿するのは安全・安心料も含めてのこと。とはいえ、どこかに、潔しとしない
自分もいるのだが……。

ラウンジでウェルカム・ドリンクをいただきながら、Hさんと翌日以降の打ち合わせ。
「時差もあるだろうから」ということで、早々に解放していただき、部屋へ。

いずれにしても、かくて2回目の、20泊21日の中米ツアーは始まったのであった。

                                      (3月6日記す)