武田聡のビューティフルストローク

山形市議会議員「武田さとし」が、日頃の議員・政治活動や水泳関係の活動日記をつづっています。

友の死

2012-01-25 | Weblog
高校・大学・社会人でもお互い頂点を目指して戦い、特に大学では同じ早稲田大学水泳部に所属して母校の栄光と世界へ向けて挑戦し続けた藤原勝教君が突然亡くなったとの連絡を受けました。先日までは元気だったとの事の話もあり、急病に襲われたようです。

名門イトマンSSに所属して頭角を現し、短距離自由形を得意とし、きれいなストロークと50m板キックを28秒で泳く得意のキックを生かした泳ぎで多くのスイマーの手本にもなった選手です。

当時同じ学年で小学生から怪物と言われ数々の学童記録を更新し既に中学で日本新記録保持者、高校1年でロス五輪に出場していた緒方選手が大きく抜きんでていたため、なかなか目立ちませんでしたが、1986年ソウルアジア大会で100m、200mの日本新を連発して4冠に輝き大きく注目されたスーパースイマーでした。

高校2年の時に私の初海外遠征となった85年のUSオープンで遠征を一緒にして以来、遠征や合宿でルームメイトになる機会も多く、よく話をする関係になりましたが、大阪弁ばりばりで最初はからみずらいなと思うこともありましたが徐々に気さくに話ができる関係になっていきました。

大学は大阪を離れ早稲田へ進学することになり、関係者は日本記録保持者が入学してくるとの期待で大きく報じられ、その期待どおりに
1年の時行われた87’ユーゴスラビアでのユニバでは鈴木大地氏らとのチームで銀メダルに輝き大学スポーツの最高の名誉である小野梓賞も受賞しました。

ただ、なかなか高校時の記録を更新することができず、常に優勝を求められている中で苦しんだ学生生活でもあったのかとも回想しますが、そんな中でも1989年の福岡インカレでの23年ぶりの総合優勝、翌年最終学年で迎えた横浜でのインカレ連続総合優勝に大きく貢献し、現在俳優で活躍する藤本隆宏君と並びチームの大黒柱として活躍しました。
同じリレーでは最後に彼がいれば絶対負けないと安心して引き継ぎができる存在で、特にリレー時の勝負づよさはヒカイチでした。

その後に開催された北京アジア大会では800リレーで中国との激闘を制し再びアジアチャンピョンに返り咲く活躍もあったことを覚えている関係者も多いと思います。


その後は2年の時に逃した五輪へ再びチャレンジするためオーストラリアでの生活も行い、私も社会人となってましたが、遠征して練習を共にさせてもらったこともありました。ただ五輪については実力がありながら周期に恵まれず明暗を分けることになりましたが、彼独特の強気の姿勢とテクニカルな面での取り組みなどは尊敬できる面が沢山ありました。

ぶっきらぼうな性格でもあり、あまり人と群れない孤高のイメージでもあったので、大学の後輩たちからは時折冷やかし半分で「藤原さんと仲良くしてくださいよー」なんて冗談半分で言われたこともありましたが、私が主将でチームの雰囲気や仲間との関係を大事にするあまり、時折ハメを外しかけそうな時もきっちり指摘をしてくれる面などもあり、お互いが語り合わなくても持ち場、立場を理解しながらチームを引っ張れた面も多かったと思っています。

最近はお互い遠く離れている事もあり会う機会がほとんどなかったのですが、元気にしているものとばかり思っていたのに、こんなに早くに逝ってしまうならことは本当にショックで言葉もありません。

日大出身で山形国体で活躍してくれた山仲選手も早くに逝ってしまいましたし、当時目標を共にした仲間達がこんなにも早くにいなくなってしまうことにやるせなさを感じます。彼の在りし日の姿を偲び心から冥福を祈ります。




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