すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1765号 永福から和田堀へ鬱々と歩く

2022-01-06 16:43:07 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】抜けるような冬晴れが続き、娘に「晴れた日は散歩しなさい」と命じられている年寄りは忙しい毎日である。しかし近場はもう歩き飽きたと地図を広げると、杉並区から世田谷区にかけて、東京西部の住宅地を北東から南西へまっすぐ貫く奇妙な道路がある。都道428号線で「荒玉水道道路」と呼ばれているらしい。その道が善福寺川と交差する和田堀公園には杉並区の郷土博物館もある。今日の目的地はここだ。京王井の頭線を永福町駅で降りる。



吉祥寺で乗り継いでも、自宅から30分とかからない近場なのに、この界隈はゆっくり歩いたことがない。永福町駅は建て替えられてすっかりきれいになっている。参詣客がひっきりなしに潜って行く大宮八幡宮の一ノ鳥居を横目に、大きく蛇行する善福寺川を下る。和田堀公園は緑地というより、敷地の多くを野球場やサッカー場、テニスコートなどが占めている。そのほとんどが地表より一段低く掘り下げられている。大雨時の調整池なのだ。



博物館の前庭に、青緑の巨石が鎮座している。ここは侯爵・嵯峨公勝邸跡地で、「紀州青石」と呼ばれるこの名石が往時の名残りを留めているという。1937年春、この庭から孫娘・浩(ひろ)が、沿道の住民に見送られて満州国皇帝・溥儀の弟・溥傑に嫁ぐため出立したという説明を読んで、『流転の王妃』の人生が蒼天に漂っているような眩暈を覚える。国策に翻弄された女性の一生が、ここから始まったのだ。夫婦の親愛が救いの数奇な物語である。



眩いばかりの日差しを受ける「青石」に、ままならぬ人生の波乱を思い、博物館の裏庭で風に揺れるオギの叢に人生の儚さを重ねる。実は今日の私は、気持ちが重く沈み鬱々として気が晴れないのである。2週間前、私は荒玉水道道路の北のはずれにある斎場で先輩を見送った。高校以来、60年にわたってお世話になった先輩である。賑やかなことが好きだった故人なのに、見送るのは家族以外は私一人。その実情が、明らかになってきたのである。





郷土博物館に「昭和の暮らし」の模型が展示されている。わずか半世紀前とは思えない倹しさである。博物館を出て、中学校のある高台へ古墳時代の住居跡を見に行く。竪穴式ではあるが、1000年以上の時を隔てる縄文時代より、随分立派な造りになっている。今も昔も「豊かに暮らしたい」は、人間の生きる力になっているのだろう。先輩は難関の国家試験に合格し、永福町に家を構え子を育てた。しかし躓いて資格を失い、下り坂の後半生になった。



大宮八幡宮に立ち寄る。いまだ参拝客の列は長く、初詣は諦める。順番が来た人は実に長く手を合わせ、深々と真剣に祈っている。家族の健康と繁栄を願っているのだろう。コロナの終息や世界平和も付け加えているかもしれない。この界隈は、裕福そうな二階家で埋め尽くされている。その一軒一軒で笑顔が溢れ、代が重ねられているのだろう。しかしそれが叶わない人生もある。ただ先輩が救われるのは、子供たちがみんな立派に育っていることだ。



アスリートスーツを着込んだ男女が遊歩道を颯爽と走って行く。野球場ではおじさんチームが試合に熱中している。「公園で見られる鳥」の看板には13種類の写真が掲載されているけれど、完全に征しているのはカラスだ。食事が豊富なのだろう、射干玉(ぬばたま)の羽が鈍く光っている。永福町駅に戻って屋上に登る。遠く富士山が輝いている。「おー、俺だよ。死んじゃったよ」と、いつもの調子で先輩が電話してきそうな思いになる。(2022.1.5)




































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