すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1461号 浅間山麓で考える安保法制

2016-07-03 23:41:13 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】朝、カーテンを開けると、空の青さに眼が驚いた。私が「地中海ブルー」と勝手に呼んでいる、濃く輝く青である。水蒸気が多い日本では、滅多にお目にかかれない空だ。前日の雨に洗われ、若葉は瑞々しい少年少女期へと成長している。私は暮坂峠に近い標高1000mの陶芸工房に居る。これほどの好天とあっては、土いじりどころではあるまい。「そうだ、浅間牧場に行ってみよう」と思い立つ。北軽井沢まで1時間とかからないだろう。



私が群馬県中之条町(旧六合村)の山中にある陶芸工房に通い始めて5年になる。併設された宿舎を長期契約し、月に1、2度通ってそれぞれ1週間程度籠る。部屋はワンルームながら、バスやキッチンは備わっている。部屋の調度はほとんどIKEAでそろえた安物だけれど、ニューヨークのMOMAに復元されているル・コルビジェの最晩年の別荘に憧れ、同様の芸術的コンパクト老後を目指している私の、これが山のアトリエである。



そんな山の暮らしでも、今朝のさわやかさは格別である。時刻は早く、牧場入口に人の気配はない。黙々とオープンエリアの木道を登ると、朝の散歩を始めた牛たちがゆっくり近づいて来る。牧場の正式名称は群馬県営浅間家畜育成牧場。標高1300mに広がる浅間山北東面の800haで、群馬の酪農家から預かったホルスタインを500頭ほど放牧している。高原は牛たちにも快適なのだろう、たっぷり草を食み、丈夫に育って帰って行く。



ここ浅間山北麓の北軽井沢は、牧場と開拓農地と別荘で構成されている。中心を貫く国道に「甘楽」というバス停があり、その脇に「満州報国隊記念碑」が建っている。太平洋戦争末期、食糧難を救えと甘楽郡23町村から選抜され、満州国に派遣された青少年140名の、敗戦によって帰国するまでの辛酸が記録されている。彼らは「満州の大平原に群馬報国農場を建設し、食料確保と北の守りに砕身の力を尽くして奉仕した」のである。



そして石碑は語る。「思えば私達の報国開拓奉仕の行為が、国際平和共存のための営みであったなら、どんなに誇らしくすばらしい業であったろうに‥‥」と。「甘楽」とは、群馬県南西部の山間地域名である。生きて帰国した報国隊員は、再び浅間の開拓に挑み、困苦を重ねるのだが、思いは父母の地・甘楽郡にあったのだろう、新たな郷土を甘楽と名付けた。いまそこには、息子らに受け継がれたレタス畑が整然と、美しく広がっている。



透き通る青空に心弾ませていた私の気分は、碑文の「平和共存の営みであったなら、どんなに誇らしく‥」というところまで読み進んで暗転した。お国のためと駆り立てた青少年に、これほどまでの悔恨を刻ませる国策とは何だったのか。当時の指導層と呼ばれる人たちは、自らの行いをどう償ったのか。過去の話ではない。「国の安全のためと判断されれば、自衛隊は海外で武力行使できる」と叫ぶ政権。だれに「責任ある判断」が下せるのか。



別荘地を抜けて、浅間火山博物館に行ってみる。「鬼押出し」を展望できる遊歩道は、盛りを過ぎたレンゲツツジが炎色の花を残し、醜い溶岩を際立たせている。天明の浅間焼けは1600人余の命を飲み込んだ。一方太平洋戦争は、大日本帝國だけで300万人ともいわれる人命を奪った。「自然災害は人知を超える。しかし失政に翻弄される人生は、もっと無念だ」と思いつつ、山のアトリエに戻った。出発前の元気はなくなっていた。(2016.6.10)














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