すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1751号 身延山に登り、富士と久遠寺と大地溝帯を一望する

2021-11-18 11:21:10 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】身延駅を出た路線バスはゆるゆると富士川を渡り、小さな街に入って行く。高校があって、下校時の生徒がたむろしている。登り坂が急になると門が道を塞いだが、バスは構わず潜って進む。久遠寺の境内に入ったのかもしれない。高野山と雰囲気が似ていると感じたのは当然で、比叡山と合わせ、ここ身延山は「日本仏教三大霊山」なのだそうだ。終点で降り、水晶細工や仏具・土産物の店が並ぶ道をさらに登ると、とんでもなく大きい三門が現れた。



高さ21メートルの総欅造りで、「日本三大三門」に数えられているそうだ。やたらと「日本三大」が多い土地だが、そういえば富士川も「日本三大急流」なのだとか。三門の巨大さに驚いて中に入ると、その先を塞ぐ石の壁にもっと驚かされた。287段104メートルの石段なのだが、あまりに急峻で石壁のように見える。身延山大学の学生鍛錬だろうか、男女が喘ぎながら駆け上っている。あまりに苦しいのだろう、ゲーゲー戻している男子もいる。



恐れをなした私は門前の観光案内所に引き返し、「タクシーは呼べないか」と訊ねた。案内所のおじさんは「まあ、こちらを登られたらよろしいでしょう」と地図をくれた。石段の左右に2本のジグザグルートがあり、「男坂」は無理だろうから「女坂」を行きなさい、ということらしい。ところがこの「女」の手強いの何の、何度も挫折しそうになり、精根尽きて境内地らしき平坦部に辿り着く。通りかかった若い僧が「こんにちはー」と、明るく軽々と言った。



佐渡への流罪を赦免された日蓮は、身延一帯の地頭で信者の南部実長の招きを受け、この地に入る。1274年、52歳であった。日蓮とわずかな弟子の草庵から始まった身延山久遠寺は、次第に堂宇が整えられ、日蓮宗最大の拠点になっていく。冬の冷え込みは尋常でない内陸の山中だろうに、日蓮は蒙古襲来の不安な時代、幕府に意見を求められたりしている。そして「どこで死んでも墓は身延に」と言い遺し、武蔵国池上で満60年の生涯を終えた。



信仰する者と、私のような無信仰者の境界が何処にあるのか知らないけれど、私が神や教義を絶対的なものとして信じることができないのは、そうした性格だから仕方ないと思っている。ただだからこそ、宗教に帰依する人の心や、その集合体として生み出される宗教エネルギー、そしてそのエネルギーの寄る辺(寺院)には興味が湧く。この巨大な山門を軽々と(ではないかも知れないが)建ち上げるパワーを生み出す信仰心は、どこから来るのか。



ところで日蓮を身延山と結びつけた「南部実長」だが、陸奥の南部藩がここにつながるとは思いつかなかった。12年前、八戸の「根城」跡に立って、「甲斐からやって来た元気のいい集団が、ここを根城に最北の地を伐り取って行った」という南部藩草創史の感慨に耽ったのだったが、その「元気のいい集団」が、甲斐の山あいで勢力を伸ばした実長の一族であったのだ。気ままな旅が、時に歴史のジグソーパズルをパチリと嵌め込むことがある。



本堂には「共に生き共に栄える共栄運動」と掲げられている。中国共産党が新たな政策とする「共同富裕」は、この教えを真似たのかもしれない。晩年の日蓮が弟子とともに「節々と」登ったという身延山頂(1153m)の奥の院へ、私はロープウエーでに安直に登る。南の展望台で富士を望み、北で早川を見下ろす。糸魚川静岡構造線の渓谷である。日蓮のことだ、この谷が東西日本の地溝帯であることを感じ取っていたのではなかろうか。(2021.11.10)








































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