すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1747号 水の道を歩いて水道橋

2021-11-01 06:10:46 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】「水道橋」は水道を通すための水路橋を言う普通名詞だが、東京者が「すいどうばし」と耳にすれば、思い浮かぶのは後楽園がある辺りの街のことだろう。そこを通過する総武線の駅名に過ぎないとしても、あたかも一帯の地名であるかのように、自分の中では固有名詞として収まっている。この日も神田三崎町のホテルで人に会う妻のお供で出かけてきたのだが、ともに「水道橋に行く」という認識だ。改めて「なぜ水道橋と言うのだろう」と考える。



駅の所在は千代田区だが、北側を鉄路に沿って流れる神田川の対岸は文京区だ。駅脇を北へ延びるのは白山通りで、駅から北に向かうとすぐに橋を渡ることになる。この橋が固有名詞としての「水道橋」ということになる。しかし本来の普通名詞としての「水道橋」は、その下流側に架かっていた神田上水の「懸樋」を言ったのだろう。そこに建つ石碑には「江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を神田、日本橋方面に給水していた」とある。



碑文は「明治三十四年まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として大きな役割を果たした」と続く。井之頭公園の最奧部には今も井戸があって、井之頭池へと湧き水の供給を続けている。この水が神田川となって善福寺池や妙正寺池の水も集め、神田上水としてこの地まで誘導されていた。そしてこの地で水道橋(懸樋)をくぐり抜け、江戸城外堀を越えて内の街を潤した。武蔵野の湧水が、初期の江戸を支えたのだった。



今日は電車に乗ってやってきたのだが、井之頭公園の井戸は私の散歩コースだから、流れに沿って歩いてくれば、いずれはこの地に達していたわけである。なるほど、こうした構造があっての「水道橋」かと、ようやく納得できた気分で散歩を続ける。橋のほとりの都立工芸高校が「工芸祭」を開催中だ。これは興味深いと受付に向かうと、事前予約制だという。「ダメですか?」とすがる私に担当者は「ダメです」と忖度しない。惜しい機会を逃した。



仕方がないから学校の裏に回って坂道を登ると、途中に「忠弥坂」の案内が立つ。3代将軍家光の時代の1651年、軍学者・由井正雪が丸橋忠弥らと謀って幕府転覆を狙った慶安事件が勃発する。この坂の上に、忠弥の槍道場があったのだという。ちなみに翌年、膨張する大江戸の上水道を強化するため玉川上水の開削が決定される。人口15万人ほどからスタートした江戸の街は、政情不安が続いても人口増も続く。そんなことをこの坂は物語っている。



現代の忠弥坂は、住宅街へと続く女子高生の下校路だ。登り切ると、電柱に都の水道歴史館の案内が掲げられている。それに従って行くと「本郷給水所公苑」に行き当たる。都水道局の給水所の上に区が人工的に造成した広場で、バラ園と、武蔵野の雑木林を復元したという水辺で構成されている。子供達が伸び伸びと走り回る、ビルの谷間によくぞ確保された緑地である。神田上水の模型や柳原義達の『道標・鳩』の周りで、本物のハトが遊んでいる。



隣接する水道歴史館は、幼子に熱を込めて水道の歴史や仕組みを教えているママら、思いのほか入館者が多い。私が覗き込んでいるのは鋳鉄製導水管で、国内最大という口径2900ミリ導管の巨大さに仰天している。江戸時代の木製導管と比較すると、この間の文明の膨張が実感される。私は意識して上水道研究をしているわけではないのだが、気がつけば小河内ダムー羽村取水堰―井之頭井戸―神田上水―水道橋を歩き継いでいる。(2021.10.30)






















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