すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1472号 南下古墳群でわが身の墓所を考える

2016-08-14 17:32:01 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】夏草がはびこる薮の奥で、黒々と口を開ける闇は、石室への入口である。先ほどから私は、容赦ない日差しと草いきれに閉口しつつ「小さな古墳だけれど、私が入るであろう墓より遥かに大きい」などと考えている。吉岡町南下(みなみしも)。群馬県のほぼ中央、前橋・高崎・渋川の3市に囲まれて、自治体区分地図では陸の孤島のような小さい町なのだが、確認されている古墳は400基を超え、古墳大国・群馬でも有数の古代の墓域なのだ。



榛名山東麓の、緩やかな丘陵が利根川へと下って行くあたり。古い街道に沿って集落が営まれ、田畑が開墾されて町を形成している。南下の古墳群は、7世紀前後に集中して築かれた小円墳群として名高く、全ての石室が盗掘に遭っているとはいえ完全な破壊は免れ、小さな町の貴重な歴史遺産になっている。戦前に作成された上毛古墳綜覧では108基が確認されており、そのうちの5基が保存され、一帯は古墳公園のように整備されている。



帰宅して、書架で眠っている「群馬県史」の一冊を取り出す。「資料編3」に南下古墳群が詳述されている。「小円墳とはいえ、石室は極めて精緻な載石積で、加工の朱線が遺る珍しい遺構だ」といったことが書いてある。なぜ私の書架に、分厚く重い群馬県史が数巻あるのかというと、古代史研究を通じて知り合った石川正之助さんが贈ってくれたからだ。もう40年も昔のことになるが、群馬でお世話になった心優しい研究者である。



そんなことを思い出しながら、C号墳、D号墳、E号墳と、私は汗を拭き拭き歩き回る。整備されてはいるものの、訪れる人はいるのだろうか。広い駐車場はロープで閉鎖され、通りかかる人さえいない。動くものは夏空を往く白雲だけ、聞こえて来るは蝉時雨のみだ。私も遠からず土に還る。横浜の母の墓に入ると決めているのだが、分骨を必要とする事情がある。そろそろその墓所を決めなければと考えながら、じっと古墳を観る。



私が群馬で仕事をしていたころは、吉岡町は北群馬郡の「村」だった。平成の大合併で北群馬の町村は渋川市に合併したのだが、吉岡町と榛東村はそれに参加しなかった。3市に囲まれた地の利からか、吉岡町は地方では珍しく、人口が増えている町なのだ。40年前に1万人を超えた町民は、今では2万人に達している。その勢いが合併を消極的にさせているのかもしれないが、独自の町政を維持するにはやはり厳しい規模なのではないか。



古代の吉岡人はせっせと古墳を築き、中世には防御のための砦を築き、近世に入ると三国街道と伊香保街道で賑わう宿を形成した。その名残りは伊香保街道・野田宿で偲ぶことができる。宿の中心には「上州武州八ヶ村大庄屋」の標柱が建つ本陣・森田家が、いまも豪壮な門構えを維持し、旅籠から学問所、芝居小屋まであった野田宿の繁盛を伝えている。明治になると前橋—渋川、高崎—渋川、渋川—伊香保のチンチン電車が開業する。



時代はこの町を、いよいよ没個性の都市近郊の街にしつつあるようだ。しかしどこに行くにも便利なうえに、榛名・赤城の雄大な景観を我が物にしている、実に暮らしよさそうな町である。だからそれ以上の個性は必要ないと思うけれど、野田宿の人々は往時を懐かしみ、宿跡の整備に力を入れている。それは確かに結構なことだが、ただあまりに「寄贈・森田本家」が露出過剰で、ここは森田宿かと錯覚してしまいそうになる。(2016.8.5)










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