すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第684号 三岸節子と起宿

2009-04-04 23:39:58 | Tokyo-k Report
.
【tokyo-k】わが家の貧しい玄関を、三岸節子の『花』が飾っている。もちろんオリジナルではなく、そのリトグラフである。三岸節子という洋画家の存在は知っていたけれど、それほど惹かれていたわけではない。それが昨年1月、北海道旭川で画廊のオークションに出くわし、出品されていた『花』に吸い寄せられた。おもしろ半分に入札したところ落札したとの通知が届き、思いがけない出費となったのである。

それはともかく、三岸節子という画家がいなければ、私が起(おこし)という地名を知ることも、ましてやその地を実際に訪ねてみることも無かったと考えると、作品との出会いは不思議な縁を招くものだと思い返している。

起は愛知県北西部にあって、岐阜との県境を流れる木曽川左岸の集落だ。江戸時代、東海道・宮宿と中山道・垂井宿を結ぶ脇往還・美濃路が開設され、起宿が起こった。家康が敷いた美濃路の宿駅制は、徳川幕府の終焉とともに廃止される。維新後、起宿は鉄道ルートから遠く離れ、往還する人々はすっかり減った。

明治38年、三岸節子(旧姓・吉田、本名・節)はこの土地の名家の4女に生まれた。当時の起は江戸期の綿織物を活かし、近代織物産業へと大発展していた。節子の実家も毛織物業を興し、愛知県有数の資産家となる。しかしやがて実家は事業破綻し、節子は自立を余儀なくされる。日本の近代化を図式化したような起町の歩みは、合併によって尾西市、さらに一宮市へと変遷する。生家跡は今、一宮市三岸節子記念美術館が建つ。

毎朝『花』を眺めているうちに、その美術館に行ってみたくなり、名古屋から岐阜への所用の折に立ち寄ったのだ。尾張一宮の駅から乗ったバスはずいぶん時間をかけて起工業高校の停留所に着いた。それでも訪ねた甲斐があったのは、この作家の生い立ちや、身体のハンディに負けずに日本の女流画家育成に努めたことを知ったことだ。以後私は『花』にますます愛着を憶えている。

ただ、美術館に展示してあった作品は思いのほか乏しく、遠路回り道をしてやって来た者としては落胆させられた。油絵は日本画などと違い、作品の劣化をさほど気遣う必要は無いのではないか。せっかくの記念館の展示点数が乏しいということは、画家にとっても寂しいことではないだろうか、などと少々恨めしく思った。そのせいでもてあました時間を、起宿散歩に振り向けた。

起の街ではかつての織物工場なのだろう、いたるところにノコギリ型の屋根をした建物を見かけた。ほとんどが放置され、崩れるに任せているようだったが、1棟だけ、機の響きが漏れて来る工場があった。織物工場が全く消えたわけではないらしい。街道沿いにまばらな商店街が延びていて、踏ん張って、街の寂れを何とか防いでいるように見えた。

それにしても不思議に思ったのは、このささやかな商店街に異様に喫茶店が多かったことだ。後々思いついたのだが、織物工場には女性の働き手が多い。その名残りが喫茶店業界を維持、存続させているのかもしれない。

旧街道にかつての脇本陣が再建・保存されていて、隣接して「尾西歴史民俗資料館」があった。手入れの行き届いた脇本陣跡とともに、町の規模からみればとても充実した資料館で、起宿の足跡をよく知ることができた。それだけ語るべき歴史があるからだろうが、こうした文化施設に力を入れている行政は偉い。起小学校の広々としたグランドでは、節子画伯の後輩たちが、幸せそうな笑顔で歓声を上げていた。

木曽川の土手を登ってみる。水量は豊富で空が広い。秀吉が墨俣で一夜城を築いたあたりや、山之内一豊が栄達目指し駆け回っていた野原が見えているのだろう。とはいえ、かの和宮の行列がここを渡って江戸へ下向したことや、かつての河湊で人と物資が行き来した喧噪を思い浮かべることは、いまや難しい。濃尾大橋を行き交う車の騒音も、河畔までは響いて来なかった。(2009.2.18)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第683号 新潟県上越「桑取谷」 | トップ | 第685号 退職しました »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Tokyo-k Report」カテゴリの最新記事