今年平成23年の花巻まつりは9月9日~11日の3日間で行われている。この祭りは別名〝雨降り祭り〟とも言われるくらい、毎年必ず雨が降る。実際今年も昨日10日は土砂降り、今日11日は雨催いである。
さて、この祭りは
《1 鳥谷崎神社》(平成23年9月9日撮影)
の祭礼としてわれ、四百年以上の歴史を持つという。
この神社の境内には賢治の歌碑があり、碑文は賢治の短歌
方十里
稗貫のみかも
稲熟れて
み祭三日
そらはれわたる
である。
この歌は昭和8年賢治が豊沢町の実家で病臥していたときに詠んだもので「絶筆短歌」と言われているようだ。なおこの中の〝み祭〟とはそれこそこの鳥谷崎神社の祭礼〝花巻まつり〟のことであり、昭和8年のそれは9月17日~19日の3日間催されている。この短歌はこの祭りの直後の20日に詠んだ2首のうちの一つである。
ところでこの歌の中の「のみかも」の解釈の仕方の一つに『甕説』があると聞く。それは、
「みか」とは「甕」のこと
であり、稗貫盆地のことを甕に見立てたのだという説である。
ところで実は、地元の人々は『花巻まつりでは必ず一日は強い雨が降る』という伝説をず~っと信じているようだ。毎年のように土砂降りの中の祭りを経験しているからだ。今年は初日は晴れだったが、2日目は土砂降り、3日目は小雨が降りいまも雨催いである。別名〝雨降り祭り〟の伝統?は今年も引き継がれた。おそらくこの〝雨降り祭り〟伝説はおそらく賢治の生きていた頃もあったに違いない。
そこで思うに、昭和8年の〝雨降り祭り〟はこの伝説を裏切って3日間毎日晴れ渡ったのだろう。だから賢治をして、祭りの3日間とも珍しいことに晴れ渡ったのは稗貫地方(当時の花巻町は稗貫郡内)の十里四方〝のみだったのかも知れない〟と病床で推測して〝のみかも〟という表現をなさしめたのだろう。もちろん〝のみかも〟は〝稗貫の十里四方のみ稲が熟れているのかも知れない〟という意味の〝のみかも〟でもないことも当然である。他の地域はさておき稗貫地方だけは稲が熟れているのかも知れない、などと冷ややかなもの言いは賢治の性格からいってあり得ないと思うからである。なおこの歌の中の〝かも〟には反語の意味はなく、詠嘆しながら疑う意味の〝かも〟だと思う。伝説に従わずに一日も雨が降らなかった3日間の〝花巻まつり〟に驚いて感嘆し、ちょっと疑問を抱いてしまった賢治の心理が〝かも〟に象徴されていると思うのである。まして、当時の岩手では毎年のように旱魃や冷害が起こっていたが、この年昭和8年だけは大豊作であったから、賢治はなおさら嬉しかったに違いなく、その喜びを詠ったのだと私は思う。
とまれ、私はこの歌の「みか」が「甕」であるとはとても思えない。その場合〝稗貫のみか〟とは〝稗貫の盆地〟という意味になると思うが、私は地元に住んでいて稗貫が盆地に見立てられるような地形には残念ながらないと思うし、賢治もそのように見立てることはないと思う。賢治は土性調査などを通じて稗貫地方などの地理や地学に精通していたからである。まして、かりに「甕」ならばそれに続く〝も〟はどう解釈するのだろうか。
ところで、今年の花巻まつりは初日の9日の夜8時15分から篝火の中で鹿踊りが行われるということで見に行った。
《2 鳥谷崎神社境内から繰り出す御輿》(平成23年9月9日撮影)
《3 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《4 上町の通りを運行する山車》(平成23年9月9日撮影)
《5 そこには復興を願って〝頑張ろう岩手〟と》(平成23年9月9日撮影)
夕刻も迫り
《6 篝火が焚かれ煙の中鹿踊りの列が進む》(平成23年9月9日撮影)
《7 鹿踊り始まる》(平成23年9月9日撮影)
《8 鹿踊り》(平成23年9月9日撮影)
《9 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《10 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《11 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《12 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《13 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《14 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《15 〃 》(平成23年9月9日撮影)
なお、鹿踊りは昼間も行われその群舞は見事なものである。
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さて、この祭りは
《1 鳥谷崎神社》(平成23年9月9日撮影)
の祭礼としてわれ、四百年以上の歴史を持つという。
この神社の境内には賢治の歌碑があり、碑文は賢治の短歌
方十里
稗貫のみかも
稲熟れて
み祭三日
そらはれわたる
である。
この歌は昭和8年賢治が豊沢町の実家で病臥していたときに詠んだもので「絶筆短歌」と言われているようだ。なおこの中の〝み祭〟とはそれこそこの鳥谷崎神社の祭礼〝花巻まつり〟のことであり、昭和8年のそれは9月17日~19日の3日間催されている。この短歌はこの祭りの直後の20日に詠んだ2首のうちの一つである。
ところでこの歌の中の「のみかも」の解釈の仕方の一つに『甕説』があると聞く。それは、
「みか」とは「甕」のこと
であり、稗貫盆地のことを甕に見立てたのだという説である。
ところで実は、地元の人々は『花巻まつりでは必ず一日は強い雨が降る』という伝説をず~っと信じているようだ。毎年のように土砂降りの中の祭りを経験しているからだ。今年は初日は晴れだったが、2日目は土砂降り、3日目は小雨が降りいまも雨催いである。別名〝雨降り祭り〟の伝統?は今年も引き継がれた。おそらくこの〝雨降り祭り〟伝説はおそらく賢治の生きていた頃もあったに違いない。
そこで思うに、昭和8年の〝雨降り祭り〟はこの伝説を裏切って3日間毎日晴れ渡ったのだろう。だから賢治をして、祭りの3日間とも珍しいことに晴れ渡ったのは稗貫地方(当時の花巻町は稗貫郡内)の十里四方〝のみだったのかも知れない〟と病床で推測して〝のみかも〟という表現をなさしめたのだろう。もちろん〝のみかも〟は〝稗貫の十里四方のみ稲が熟れているのかも知れない〟という意味の〝のみかも〟でもないことも当然である。他の地域はさておき稗貫地方だけは稲が熟れているのかも知れない、などと冷ややかなもの言いは賢治の性格からいってあり得ないと思うからである。なおこの歌の中の〝かも〟には反語の意味はなく、詠嘆しながら疑う意味の〝かも〟だと思う。伝説に従わずに一日も雨が降らなかった3日間の〝花巻まつり〟に驚いて感嘆し、ちょっと疑問を抱いてしまった賢治の心理が〝かも〟に象徴されていると思うのである。まして、当時の岩手では毎年のように旱魃や冷害が起こっていたが、この年昭和8年だけは大豊作であったから、賢治はなおさら嬉しかったに違いなく、その喜びを詠ったのだと私は思う。
とまれ、私はこの歌の「みか」が「甕」であるとはとても思えない。その場合〝稗貫のみか〟とは〝稗貫の盆地〟という意味になると思うが、私は地元に住んでいて稗貫が盆地に見立てられるような地形には残念ながらないと思うし、賢治もそのように見立てることはないと思う。賢治は土性調査などを通じて稗貫地方などの地理や地学に精通していたからである。まして、かりに「甕」ならばそれに続く〝も〟はどう解釈するのだろうか。
ところで、今年の花巻まつりは初日の9日の夜8時15分から篝火の中で鹿踊りが行われるということで見に行った。
《2 鳥谷崎神社境内から繰り出す御輿》(平成23年9月9日撮影)
《3 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《4 上町の通りを運行する山車》(平成23年9月9日撮影)
《5 そこには復興を願って〝頑張ろう岩手〟と》(平成23年9月9日撮影)
夕刻も迫り
《6 篝火が焚かれ煙の中鹿踊りの列が進む》(平成23年9月9日撮影)
《7 鹿踊り始まる》(平成23年9月9日撮影)
《8 鹿踊り》(平成23年9月9日撮影)
《9 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《10 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《11 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《12 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《13 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《14 〃 》(平成23年9月9日撮影)
《15 〃 》(平成23年9月9日撮影)
なお、鹿踊りは昼間も行われその群舞は見事なものである。
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