みちのくの山野草

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1823 千葉 恭の羅須地人協会寄寓12

2010-11-10 08:00:00 | 賢治関連
 では今回は『宮澤先生を追つて(四)』を見てみよう。

 先生は私と話すとき無口な私に、自分一人で誰に話をするともなく、じんじんと理を解き語るのでした。農事も済みゆつくりとした日は、幾日も続きますがさういふ時は二階の書斎で、畫飯さへ食はずに何かせつせつと執筆してをられました。またある時は蓄音機に名曲をかけて、だまつて聽いている時もありました。
 蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがら(投稿者註:「家の構え」の意の方言)を見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮かんだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですな-それは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円を私の手にわたして呉れたのでした。私は驚いた様にしてしてゐましら主人は「……先生は大切なものを賣るのだから相当苦しんでおいでゞせう…持つて行って下さい」静かに言ひ聞かせるように言はれたのでした。私は高く賣つた嬉しさと、そして先生に少しでも多くの金を渡すことが出來ると思つて、先生の嬉しい顔を思ひ浮かべながら急いで歸りました。「先生高く賣れましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差し出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。
 東京から歸つた先生は蓄音機を買ひ戻しました。そしてベートーベンの名曲は夜の静かな室に聽くことが多くなつたのでした。…(以下略)

     <『『四次元 9号』(宮澤賢治友の会、Jul-50)より>

 さて、千葉恭が蓄音器を売りに行ったというエピソードは以前”千葉 恭の羅須地人協会寄寓3”でも触れたが、こちらのそれはその内容とは似ていても大いに違うところがある。
 どちらの場合も千葉恭自身が語る、羅須地人協会時代に下根子桜に置いていた蓄音器を売り払いに行ったというエピソードであるはのだが、
《『羅須地人協会時代の賢治(二)』の場合》
 100~90円位で売つてくればよいと賢治は言った。十字屋では250円で買ってくれた。
《『宮澤先生を追つて(四)』の場合》
 350円までなら売ってよいと賢治は言った。岩田屋で650円で買ってくれた。
ということだから、経緯は同じ様だが、金額といい売った店といい全く違う。従って、考えられることは
 (ア) 金額と店は千葉の記憶違い。
 (イ) 同じ様なことが2回あった。
のどちらかであろう。

 参考までに、昭和13年頃の
《蓄音器の宣伝》

        <『岩手年鑑』(昭和13年発行、岩手日報社)>
を見てみると、コロムビア蓄音器は45円~55円であるから、大正末期もこのような値段ならば賢治の一ヶ月の給料で優に買うことは出来たであろう。
 因みに、花巻農学校勤務時の賢治の最初の俸給(大正10年12月)は80円、大正14年の6月頃ならば105円であったという(『宮澤賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川嶋印刷)より)。その他にボーナスもあったであろうから賢治の年間の給料は1,000円は少なくともあったであろう。
 また、”1930年代前半の電蓄”を拝見すると、昭和初期には既に国産電蓄も販売されていたようで、その価格はおよそ100円以上であったようだ。
 なお、賢治の蓄音器は250円あるいは650円で買い上げてくれたということはおそらくその蓄音器の販売価格と推定できるから、賢治が持っていた蓄音器は相当高額であったに違いない。
 実際、そのことを暗示しているのが前述の”当時一寸その辺に見られない大きな機械”であり、及び”千葉 恭の羅須地人協会寄寓6”に出て来た『二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた』である。売り払った蓄音機がこの蓄音器であればかなり高価なものであったであろう。
 仮に250円の蓄音器の方だとしても給料の3倍前後の、650円ならば優に6倍以上の額になる。賢治の金銭感覚は庶民のそれとは全く違っている。

 さて、このエピソードが(ア)の場合なのかはたまた(イ)の場合なのかはさておき、このようなことが少なくとも一回はあったであろうことはおそらく確かで、蓄音器を売ったお金を元手にして大正15年12月2日、花巻駅で澤里武治にひとり見送られながら賢治は7度目の上京をしたことは間違いなかろう<註*>。
<註*>今回このことを調べていて気が付いた。このときの上京の期日は大正15年12月2日、帰花の期日は12月29日(12月23日付け宮澤政次郎宛書簡224の中に「次一年の支度をすっかりして二十九日の晩こちらを発って帰って参ります」(『校本 宮澤賢治全集 第十三巻』(筑摩書房))及び「神田錦町上州屋に29日まで寄宿」(『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、文春文庫)より)と考えられるから、賢治は大正15年12月3日~12月28日は花巻にはいなかったことになる。さすれば、『宮澤賢治』(佐藤隆房著、私家版)に書かれてる『松田甚次郎が大正15年12月25日に下根子桜を訪れた』ということはあり得ないのではなかろうか、と。

 この『宮澤先生を追つて(四)』はまだ「肥料設計」という節が続くのだが、”東京に音楽の勉強に行く”ということに関したことがたまたま見ていた角川の『昭和文学全集第十四巻 宮澤賢治集』の月報に載っていたので、横道にそれてしまうが次回はその報告をしたい。


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