常識について思うこと

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人生は空中ブランコ

2010年06月02日 | 人生

唐突ですが、人生は空中ブランコのようなものだと思っています。

しっかりとバーを握って、反復動作を繰り返すことは基本中の基本です。 場合によっては、無駄と思えるほど、同じ動作を続けていなければならないかもしれません。そのことによって、ブランコは次第に大きく揺れていくわけです。しかし、それを続けていると、いずれそのブランコの振れ幅は限界を迎えます。それでも、相変わらずそのブランコに掴まり続けるという選択肢もありますが、それではそれ以上のことは起こり得ません。

ここで大切になってくるのが、目の前にある別のブランコです。これは、ほとんど動いておらず、場合によっては完全に止まっているブランコかもしれません。しかし、このブランコに掴まることができれば、まったく新しい世界が開けるわけです。

そして、もしそうだとしたら、限界まで振り切ったブランコから手を放して、次のブランコに乗り移るということこそが、「生きる」ということになり得ます。ただし、これを実践すると、一瞬何にも掴まっていない、謂わば「空中浮遊」の状態が生じるわけです。これはとても怖いことかもしれません。もっと言うと、目の前にブランコがあるかどうかも分からないまま、霧の中でブランコを手放さなければならないこともあるでしょう。そんなことを考えたら、今、掴まっているブランコは絶対に手放せないという感覚は、とてもよく分かります。

しかし、ブランコを手放さなければならない時期は、きっと誰にでもやってくるのだと思うのです。とくに、さまざまな社会の仕組みや制度が限界を迎え、あらゆるところで「空中ブランコ」が、振り切ってしまうようなフェーズに入りつつある現代においては、そうした傾向が、より顕著に表れてくるのではないかと思います。

-しっかりバーを握っていろ-

これはこれで、人生を空中ブランコと喩えるならば、立派なアドバイスになるだろうと思います。冒頭に述べたとおり、これは空中ブランコの基本でもあるでしょう。

また一方で、こういう風にも言えるだろうと思うのです。

-潔くバーから手を放せ-

これは前者との矛盾を意味するのではなく、その人が置かれた環境に応じて、使い分ければよいだけの話と解するべきでしょう。これでもかというくらい反復動作を繰り返し、それでもブランコの振れ幅に変化がないというのは、その人が掴まっているブランコに問題があるのだろうというだけの話です。そして、繰り返しですが、社会に閉塞感が充満し、仕組みや制度が限界を迎えるようになればなるほど、こちらの選択肢を取らざるを得ない人々が増えてくるように思うのです。

私なりには、今までの人生のなかで、だいぶ「空中浮遊」を繰り返している感覚があり、それにもだいぶ慣れてきた気がしています。イメージとしては、空中ブランコで、ターザンのように渡り歩いている気分です。そういう意味で、今まで、ブランコに掴まり続けて、反復動作を繰り返してきたような方々、「空中浮遊」のような感覚が実感として湧かない方々には、「空中浮遊、意外と楽しいですよ」と言っておきたいのでした。

《おまけ》
前向きな言葉というのは好きですし、「諦めるな!」というな類の話というのは、とてもよく理解できます。ただし、時代によっては、「諦めよ!」というのも大切なことだと思うのです。これは本文の「バーを握れ!」、「バーを手放せ!」と同じことで、「諦めるな!」だけでなく、「諦めよ!」ということにも、それなりの価値があるだろうということでもあります。重要なのは、諦めた後に「何を諦めないか」ということです。バーを手放したら、次のバーを握らないといけません。奇しくも、今日は鳩山さんが総理大臣を辞任されるという報道がありました。総理大臣の職を諦めるというのは、大いに結構なことです。鳩山由紀夫さんという一個人の人生を考えるならば、これで全てが終わるのではなく、(政治の世界に限らず)次にどのようなバーを握ろうとするかが、とても大切なことではないかと思うのでした。

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