常識について思うこと

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「聖水」である理由

2009年11月30日 | 宗教

宗教的な「聖水」を否定するつもりはありません。また、本来の「聖水」の定義をきちんと理解しているわけでもありません。

しかし私の場合、水については、飲む水、全てが美味しいものであり、またそれが身体機能を保つ上で、この上ない役割を果たしてくれていると実感しています。そういう意味で、私を支えてくれるあらゆる水は、貴重な「聖水」であると思っています。このように、その水を「聖水」たらしめるかどうかは、それと接する人自身が決められるのではないかと思うのです。

以下は、私が水、とくに飲み水について、それを貴重な「聖水」と考える理由です(ちなみに私は、水を飲むのが非常に好きで、一日3リットルくらい飲んでいると思います)。

身体や健康について考える上で、私たちはとかく「摂取」することばかりに気を取られているように思います。どういう食物が体に良いか、どんな栄養素が重要か、バランスの良い食事とは・・・。これはこれで大切なことですが、一方で不要なものをきちんと出すということも同じくらい重要なのではないかと思えてなりません。

そうした考え方をする中で、水は身体の老廃物の排出を促してくれる貴重な存在です。特にリラックスした生活を送り、血液の巡りが良い人は、身体が効率的に老廃物を回収できるので、それを排出するために、自ずと身体が多くの水を欲するようになるのだと思います。身体が水を欲するというのは、端的に喉が渇いた状態でり、当然のことながら、喉が渇いていれば、水はとても美味しく感じます。

このように不要なものを出すために、自然と水の力を求めるようになり、自然と身体が求めるからこそ、それを美味しいと感じるという中で、水の有難さを知るのです。この有難い水こそが「聖水」です。

そして、こうした循環がうまくいっていれば、自ずと必要な栄養分等、身体に良いものを取り入れられるようになるのでしょう。

これは、食べ物に限らず、あらゆるものに対して言えることだと思います。つまり、良いものを取り入れようとするのなら、きちんと余分なものを出しておく必要があるということです。

呼吸を例にとりましょう。呼吸というと新鮮な空気、特に酸素を体内に取り入れることをイメージしがちなのではないかと思います。しかし、いわゆる呼吸法等で重要なのは、リラックスした上で、お腹の力を使ってきちんと息を吐くことです。これには、正しい姿勢やお腹への意識を強く持たなければなりません。こうした意識を持ちつつ、きちんと息を吐くことができれば、自ずと息を吸うことに繋がり、結果として、正しい呼吸ができるというわけです。つまり、空気から酸素等の必要なものを取り入れるという呼吸において重要と思われる部分は、あくまでも「息を吐く」という行為の結果論としての側面もあるということです(「美味しい物のいただき方」、「腹式呼吸のコツ」参照)。

こうした観点からすると、何か特殊な「聖水」というものが存在し、例えば、それを飲むことによって、人間が浄化されるという考え方も良いですが、その側面ばかりが強調されるのも問題ではないかと思います。水、特に飲み水は、「老廃物の排出」にその真価を発揮するのであり、それが効率的にできる人にとっては、普通の水ですらも「大いなる聖水」に化けるのではないかと思うのです。

《おまけ》
飲み水の効用を最大限に発揮しようと思ったら、とにかく、体内の老廃物の回収がスムーズに行えるようにリラックスした生活を送ることだと思います(「仕事と遊びの方程式」、「師匠の姿から学ぶこと」参照)。難しいようで簡単で、簡単なでようで難しい・・・?

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