先日、ブログの記事のなかで、「余計なお節介をしない救世主」という表現を使いました(「ノブレスオブリージュ」参照)が、こうした表現に、多少なりとも違和感を覚えた方がいらっしゃったかもしれません。救世主ならば、救世主らしく何かをするべきだというご指摘もあるでしょう。そこで、ここでは逆に「お節介な救世主」について、整理してみたいと思います。
自分が世界の救世主たらんと努力する人、全体のために命を捧げようと頑張る人は、大変立派な人だと思います。そのことの重要性については、このブログでも大いに取り上げていることです(「夢を持てる社会」等参照)。
しかし、そう考える個人が、全体のためだからという理由で、自らの考え方を押し付けるようになった瞬間、それは全体ではなく、単にその個人のためのものにすり替わってしまう危険性があります。たとえ、それがどんなに立派な考え方であったとしても、全体の意思に反して、押し通すようなかたちになってしまっては、結果として全体が望まないこと、全体のためにはならないことになってしまう可能性があるのです。こうした全体の意思に反するような、「お節介な救世主」は、その信念が強いだけに、大変危ういものを持っていると言えます。
心底、「世界を救いたい」と思う人には、他の多くの人々には見えていない問題が見えていたりするものです。だからこそ、全体のために何かしらの行動を取りたいと願うのでしょうし、その使命感に燃えて、一所懸命になるのでしょう。また、自分が見えているものが、ほとんどの人々に見えていないため、そうした目の塞がった人々が、誠に愚かしく見えたりするのも分かります。愚かしく見えれば見えるほど、ますます全体に対する危機感が増していき、さらに自分が何とかしなければならないという思いに駆られます。
こうした循環が始まると、居ても立ってもいられなくなり、とにかく行動を起こさなければ気がすまなくなるという感覚は、何となく理解できるところです。
しかし、全体が愚かしく見えるというのは、とても危険なサインです(「他人は自分の鏡」参照)。また、居ても立ってもいられなくなり、やみくもに行動するというのは、その人自身の弱さであるということもできます(「一番難しい「山」」参照)。
少々、別の視点からの話になりますが、子供向け番組やアニメ等に出てくる悪役には、「時間をかけられない」という共通点があるように思います。「時間をかけられない」のには、いろいろな理由がありますが、そのうちのひとつが、「人間の可能性を信じられない」ということが挙げられます。これは、人間が愚かであったり、罪深かったりすることに耐えられず、そうした多くの人間たちに代わって、早く自分が何とかしなければならないという危機感が、悪役を悪役たらしめている部分があるということです。
こうしたことを踏まえると、悪役には悪役なりの正義があり、悪役にとってみれば、人間の存在こそが悪になってしまうということです。少々、おかしなことと感じるかもしれませんが、つまり「悪役=正義、大多数の人間=悪」という図式が成り立つということです。
この図式は、「お節介な救世主」にも、そっくり当てはまることです。即ち、世界を救おうと思っている自らの正義に対して、そうした重大ことに気付かない大多数の愚かな人間たちこそが悪であるという考え方から、「お節介な救世主=正義、大多数の人間=悪」ということが成り立つわけです。
このように整理していくと、「お節介な救世主」が悪役と重なって見えてきてしまいます。
今後、世界が困窮すればするほど、こうした「お節介な救世主」は増えてくることでしょう。このことは、多くの強い正義が濫立することを意味するのだろうと思います。それは上記のように、「悪役」との共通点があり、別の言い方をすれば、「悪の濫立」ということもできると考えます。しかし、私としては、彼らが最初から「悪役」を目指しているわけではないという点が重要であり、世界を何とかしたいという彼らの善意を信じてあげたいと思います(「性善説と性悪説の決着」参照)。
ちなみに、私自身は絶対的なひとつの正義があることを信じつつ(「正義がひとつになる時代」参照)、「余計なお節介をしない救世主」たらんということで、「万が一、人間が真に愚かな存在で、本当に大切なことに気付けないのならば、自ら滅ぶという道を選ぶ権利もある」と思っています。これは、たとえ人類が滅ぶとしても、その責任を私個人ではなく、人類全体に押し付けているもので、見方によってはとんでもない悪です(「交錯する正義と悪」参照)。
常日頃、そんなことを考えている私としては、「お節介な救世主」のような人々が、そうした重大な責任を人類全体に押し付けず、自らの責任で何とかしようとしている、とても一所懸命で優しい人に思えてなりません。ただ一方で、どうしても彼らの悪性にも目が行ってしまうので、それが彼らの本意ではないとするならば、そのことだけは、「余計なお節介をしない救世主」として、こんなかたちででもきちんと伝えておきたいと思うのでした。
《おまけ》
この記事を書くにあたり、以前書いた「正義の味方と悪役キャラ」という記事を見直してみましたが、少々問題が発生していました。それは、悪役キャラの特徴として、「厳格な身分制度(大ボスには絶対服従)」という項目を挙げているのですが、「侍戦隊シンケンジャー」のシンケンレッドを「殿様」と仰ぐ厳格な身分制度は、悪役キャラ的なのかという問題です。残念ながら、一般的なヒーローものやアニメ等の見方からすると、はっきり言って悪役キャラ的なのでしょう。でも、シンケンジャーの場合、あの主従関係がはっきりしているところが、魅力なんですよね。それに、時には殿に噛みつく、千明みたいな跳ね返りがいるのも、単純に悪役キャラの組織とは違って、いいんじゃないでしょうか。
将来と未来は、自らが創るもの。
人類が滅ぶなら、世界は俺のもの。
コメント、ありがとうございます。
タイトルどおり、コメントの内容が悪魔っぽくて良いですね。
人は弱い心に負けると、無への欲求が始まる。
全てを破壊しようとする。
悪魔はそれを具現化したもの。
信じるものを失ったものは、全て悪魔の格好の餌食となる。