常識について思うこと

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あるべき「世界統一」の姿

2007年02月03日 | 社会

現存の国家にせよ、宗教にせよ、統一的な志向を持たざるを得ないと思います。人間のエゴが存在する以上、それは当然のことでしょうい。

国家は国家の利益を追求し、宗教は信者を増やしていくことを求めていきます。国家も宗教も複数存在する以上、これらの欲求は必ずぶつかり合い、矛盾をきたし、争いごとを起こすようになるでしょう。しかし、本来人間は、互いに尊重し、平和的に生きていかなければならず、そうした世界を実現していくためには、国家や宗教がひとつにまとまらなければならないのです。

だから、あるべき姿として国家も宗教も統一的な志向を持つようになるのです。そして実際に、そうした思想に基づき、世界の国家(政府)や宗教を統一させようと考えているグループがいるかもしれないのです。

そうしたグループがあるとして、彼らの意図は、アメリカという国を通じて垣間見ることができると思います。アメリカといえば、世界の覇権国家であり、キリスト教の影響を大きく受けている国です。そもそも、アメリカという国は、人類の長い歴史のなかで、土着文化を育みながら生まれてきた国ではありません。よく知られているように、もともとインディアンと呼ばれる土着の人々がいたところに、ヨーロッパから乗り込んできた人々が、彼らを虐殺し、追い出して作った国です。その人々とは、どのような人々だったのでしょうか。この類のテーマは、既存のメディアでは、なかなか取り上げられませんが、インターネットが発達した現在においては、真偽はともかく大量の情報を得ることができます。「友愛団体」、「1ドル札の裏」、「新世界秩序」、「世界統一政府」・・・。

これらの情報には、にわかには信じられないようなものもあるし、当然ニセの情報も含まれているでしょう。しかし、だからといって、これらの情報がすべてウソであると決め付けてはなりません(「オカルトが作る仕組み」参照)。世界は分かっているものが非常に少なく、むしろ未知なる事象に満ちているということを謙虚に受け止めなければならないのです(「万能でない科学」、「脳力の可能性」参照)。そうした分からない状況のなかで、答えを出していけるのは自分自身(「頼るべきは「自分」」参照)なのであり、自分の力で考えるということが、非常に重要なことなのです(「情報はパズルのピース」参照)。

そのような思考法をもってして、集まってくる情報を考察しながら組み合わせていくと、ひとつの仮説が生まれてきます。

世界は特定の権力グループ(あるいは権力者)によって大きく動かされており、彼らは国家や宗教の世界統一を目指している。

この仮説には、多くの検証が必要になってきますが、それは読者の皆さんが各々検証されればいいと思います。ひとまずここでは、それらの検証が終わっているという前提で、議論を進めたいと思います。

複数の国家や宗教が存在することによって、人間のエゴがぶつかり合い、殺し合いが起きているという現実を鑑みれば、そうした権力グループが目指す世界統一の方向性自体は、決して間違っていないと考えます。国家も、宗教も人間が生きていくために都合がいいから作ったものです。人間が本来的に平和を求める以上、争いごとが起きないようにしなければならず、人間が都合よく生きるために作った国家や宗教のせいで争い合い、殺し合うといったことがあってはなりません。

しかし、彼らの手法では、絶対に事は成しえないとも思いますj。問題はその手法にあります。 彼らは特定の国をもってして、他の国を屈服させて、統一しようとしています。またその力をもってして、特定の宗教に統一しようとしているように見受けられます。このかたちでは、統一するためには、相手を屈服させなければならず、その過程で必ず争いごとが起きてしまうでしょう。争いごとは必ず禍根を残します。相手側は負けて、仕方なく軍門に下りますが、このことによって成し遂げられる統一は、極めて表面的なものになってしまいます。人間の心は縛れません。こうした統一のかたちは、必ず反発を招き、のちに争いごとの種となるでしょう。人間の戦争の歴史は、そうやって繰り返されてきているのです。

つまり、これからの世界が統一されていくことは必要ではありながらも、それを今の枠組みのなかで、実現させていこうというのは、真の解決にはなりえないということです。

では、真の解決たる世界統一とは何でしょうか。ヒントは、今の国家の仕組みや宗教を越えるという点にあると考えます。

真の統一は国家や宗教の枠組みを越えていなければいけません。そもそも国家も宗教も、人間が生きていくのに都合がいいから作ったのであり、単なる道具に過ぎません。もう少し突っ込んだ言い方をすれば、欲やエゴに縛られた弱い人間が必要としていた道具であり、その道具があるゆえに人間が争い合い、殺し合い、地球がおかしくなり、結果として人間が生きていけなくなるようであるならば、人間はそのような道具を積極的に捨てていかなければならないのです。ましてや、その道具が人間にとっての生きる目的にはなりえないし、その道具に縛られてはならないはずです(「道具の目的化の危険性」参照)。

道具が必要なのは、人間が弱いからでにほかなりません。強くあれば、人間はそれらの道具を必要としなくなります。次の時代を迎えるにあたって、人間はもっともっと、自分たちの強さを磨いていかなければならないでしょう(「頼るべきは「自分」」、「全員が真のリーダーたれ」参照)。そして、人間が強く生まれ変わったとき、国家も宗教も必要ではなくなると思います。

究極の無国家主義、究極の無宗教主義。人間の心を縛りつけるかたちで、ひとつにするのではありません。あらゆるものから解放され、本来的な自由を手にしたときに、自ずとひとつになるのです。これこそが、現存の国家や宗教を超えた本来あるべき統一の姿であり、人類が新しく迎える世界の常識になっていくのではないかと思うのでした。

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