日本の財政が破綻するか否かについては、さまざまな議論がなされ得るようですが、そのひとつの大きな論点は、日本の借金は、「国内でお金をグルグル回しているだけ」というものです。つまり、国が借金をし、それを負担していくのが国民ならば、国にお金を貸して、その分の債権を得るのも国民なのだから、それが破綻するのはあり得ないというわけです。その考え方に立てば、よく言われる「国の借金を次の世代に背負わせる」というのは、「国に対する債権を次の世代に引き継がせる」ことで、相殺されるということになるのかもしれません。
ところで、そうした「財政は破綻しない論」は、国内でお金をグルグル回しているところに対して言えるのであって、そうでない国々にとっては、事情が大きく異なるとみるべきでしょう。近年では、ギリシア、スペイン、イタリアなど、欧州における財政危機が大きく取り沙汰されています。これらの国々では、国の借金を国内で賄っているのではなく、外国も絡むかたちで、お金が回っているため、日本とは事情が違うわけです。そのことは、欧州に留まりません。基軸通貨とも言われるドルの米国でも、同じようなことが言えます。具体的には、中国や日本といった外国が、米国債を買っており、米国政府に巨額のお金を貸しているわけです。
こうした国々においては、「国内でお金をグルグル回している」わけではないため、財政破綻は現実的なものとして捉える必要があるでしょう。そうした場合、例えば、米国のような超巨大国家の財政が破綻したら、何が起こるのかを考えなければなりません。これに対しては、実に様々な意見があるものと思われます。もしかしたら、世界が米国を破綻させるようなことはさせない、というような意見もあるかもしれません。しかし、上述のような考え方を整理していけば、可能性の問題としてでも、米国が破綻するかもしれないと考えるべきでしょう。
先日、仲間とこうした議論をしているなかで、これからの時代における資産保全の観点から、「金」の重要性を見直すべきという話になりました。
今、市中に出回っているお金というのは、言い方によっては、所詮紙切れです。各国家の枠組みの中で、それらの信用に基づいて、多くの人々に「価値があるモノ」と認められてはいますが、国家の信用が失われてしまったら、何の価値も持たなくなる脆いものでもあります。ある国家の財政が破綻するということは、そうしたお金の価値が崩壊する可能性を指すわけです。
そこで、そのように紙切れ同然になったお金に代わって価値を持ちうるもの、あるいはそうした世情に左右されず、常に「価値があるモノ」として認められるものとして、「金」に注目してみたのです。「金」は、有史以来、人類にとって、価値があるものとされてきました。それは、国家がどのようなかたちに変わっても、さほど大きくは変わりません。今でこそ、金本位制はなくなりましたが、これから国家の信用に基づいた貨幣経済が崩れるとなると、「金」の重要性は、ますます高まってくる可能性があります。
このことが、ただちに金本位制への移行を意味するのかについては、ここでは詳しく論じません。ただし、それに近いものになる可能性は、否定できないと考えます。金本位制の復活はあり得ないとする立場からは、金本位制のいろいろな問題が指摘されます。それらが、分からないわけではありません。
ただそれでも、今の貨幣システムが崩壊し、世界の基軸通貨であるドルが紙切れに化してしまうとしたら、嫌でもそれに代わる何かを生み出していかなければなりません。その際には、誰が何と言おうが、どんなに金本位制の欠点を論おうが、「金」を大量に保有している人々が、紙切れと化したお金を否定し、それに代わる「金」中心の貨幣システム、自分たちのルールを押し通してくることが想定され得ます。現状から、金本位制の欠点や実現性を論じるというのではなく、世界的な通貨危機が起こったときに、何が起こりうるのかという観点から、「金」の価値は見直されるべきではないかと思うのです。
今後、世界経済がどのように動いていくのかは分かりません。また、「金」なる貴金属自体が、私たちを豊かにしてくれたり、幸福にしてくれるとも思いません。ただ、可能性の問題として、世界的な通貨危機を考えないわけにはいかないし、その際の「金」の価値を認めることは重要でしょう。私は、そうした可能性を踏まえた上で、新しい経済システムの構築を進めるというスタンスでいきたいと考えます。
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