常識について思うこと

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打ち克つべき相手

2007年02月07日 | 人生

己に打ち克て。よく使われる言葉です。

人間は常に葛藤をしながら生きています。社会は矛盾だらけで、そのなかで生きる人間も矛盾を抱えながら、生きていくことを強いられます(「欲するものへの心持ち」参照)。

例えば、幸せな人生を送るためには、お金はとても大事です。しかしこれは、真であると同時に偽にもなります。お金は大切ですが、それに固執して懸命にお金を稼いでみても、けっして幸せにはなれません。むしろ、金持ちになったことで、周囲の人々が自分ではなく、自分が持っているお金に興味を抱いて近づくようになったりします。自分自身を見てくれる人がいなくなることの不幸。そして、築いた財産であるお金を守っていかなければならない。得たものを失うのではないかという不安や恐怖に駆られる不幸が生まれるのです。

お金で幸せにはなれないと知っている人たちは、他の幸せを探そうとします。「愛する人がいてくれさえすれば」、「可愛い子供が元気に暮らしてくれさえいれば」・・・。ところが、愛する人と一緒にいようとしても、子供を育てるにも、結局お金がなければ、それらは叶わない夢に終わります。結局、お金がたくさんあることはよいことで、そのことで幸せになれることになるのです。

矛盾を解くのは難しいことです。そうした矛盾だらけの社会において、幸せは常に「喜び」と「苦しみ」が表裏一体となったかたちとして存在します(「生きがいと幸せ」参照)。

したがって、実は幸せは常に目の前に存在するものであると言うことができます。苦しみがあれば、必ずそれと同じように喜びが存在し、それこそが幸せなのであるということです。しかし、不完全で弱い人間は、幸せを目の前にしても、喜びに焦点を当て、その幸せをきちんと感じることができず、苦しみの部分に目を向け、それをもって不幸だと感じてしまいます。

人間とはもともと不完全なものです。だからこそ、常に人間は「幸せとは何か」、「生きるとは何か」といった問いに対する明確な答えをみつけられないまま、苦悩し続けるのです。そして、その苦悩の暗闇のなかで、弱い人間ほど、目の前に幸せがあるにもかかわらず、その喜びの部分ではなく、苦しみに焦点を当てて悩む。そこで必死にその原因を探っていったりしてしまうのです。

その結果、他人のせいにする人がいます。
 「気に食わないあいつが悪いのでは?」
 「だらしないあの人の責任?」
 「自分を笑った彼がいけないのでは?」
 「適当で無責任なあいつらのせいではないか?」等等等

社会のせいにする人もいます。
 「そもそも方針もビジョンもない会社がいけないのでは?」
 「談合やら汚職やらにまみれている社会に問題があるのではないか?」
 「あんなとんでもない人たちが平気で暮らせる社会なんておかしくないか?」等等等

挙げていったらキリがありません。これらの原因分析は、往々にして合っています。間違ったものではありません。おそらく真でしょう。しかし、そもそも社会は矛盾だらけです。だから、それらの答えは真であり、同時に偽でもあるのです(「「いい会社」と資本主義」参照)。

他人や社会のせいにしても、何も変わらりません。苦しみから解放されたような気になるだけで、その苦しみからはまったく脱却できないままなのです。自分の苦しみを他人や社会のせいにするだけでは、そこから何の発展も期待できないし、そのことで自分の苦しみの元を変えられるわけではありません。単に自分の苦しみから逃げて、向き合おうとしていないだけでなく、むしろ相手に傷をつけて、恨みや憎しみを買い、ネガティブな方向に物事が進んでいくという結果を招きます。「打ち克つ」相手を他人にするという行為は、まさに現在の弱い人間の論理であり、問題から逃げ回る不完全な人間としての振る舞いそのものです。そして、そのことを続けることは、事態をネガティブな方向に加速化させていくという結果を招くだけなのです。

人間は変わっていかなければなりません。実は、変えられるものがひとつあります。それこそが自分自身です。

自分の苦しみは、すべて自分の責任であると思う。己が至っていないせいであると考える。それは、ときに罪の意識のようなものにもなるし、自己嫌悪に陥りそうにもなるでしょう。だから、自分の責任として考えるということは、大変辛いことでもあります。しかし、それらの意識は自分自身のものです。いくらでも変えられます。

当然、すべてが自分の責任に帰するなどと考えることは、自分が強くなくてはできません。だから、小さなことからでも構いません。そのことの繰り返しによって、人間はどんどん強くなっていくのです。大切なことは、いわゆる「自問自答」を続けることです。打ち克つ相手は、他者ではなく、自分自身なのです(「全員が真のリーダーたれ」参照)。

「これはお前のせいだ」、「あいつのせいだ」、「社会のせいだ」と言ってしまっては、必ず他者との争いになります。結果を突き詰めていくと、自分か他者のどちらかに非があるという結論にならざるを得ません。矛盾だらけの社会で、その答えでは問題の片方のみしか解決しないことになるのです。

辛くても「これは自分のせいだろう」と、もう一人の自分に向き合ったつもりで、問いかけ続けるのです。そして、同時に向き合って問いかけてきた自分に対して、答えるつもりで、真剣に答えを探していくのです。結局、すべての非は自分に帰する。辛いと同時に、そこで出てくる答えは、自分がすべきことであり、そしてそれは生きがいでもあり、それをみつけることそのものが「喜び」となるのです。これ即ち、幸せなのです。

こうした自問自答を続け、答えを出していくこと。このことこそが己に打ち克つということであり、人生そのものであり、それを通じて、幸せを手に入れることができるのです。これは、今日を生きる人間ひとりひとりが幸せになるためにも、社会が変わっていくためにも必要な思考であると思います。

ただし、誰かひとりだけが、それを続けていても社会は変わりません。これをみんな(社会)が逃げずに、それぞれの度量のなかで続けていかなければならないのです。各自の自問自答は異なるはずです。己に打ち克つときの、テーマもレベルもそれぞれでしょう。大事なことは、異なる次元でも構いません。それぞれが己に打ち克つ努力を続けていけば、人間ひとりひとりも、社会全体も大きく変わるということです。

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