常識について思うこと

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「麻生下ろし」に見る限界

2009年07月16日 | 政治

「麻生下ろし」という言葉が、だいぶ世間を騒がせているようです。これから、大事な総選挙を迎えるにあたって、不人気な麻生総裁では戦えないという考え方もあるようで、出馬する予定の方々からすれば、大変重要な問題なのでしょう。また次の総選挙という「限られた時間」、自民党 (既成政党)という「定められた仕組み」のなかでは、「麻生下ろし」しかないと思わざるを得ない議員の方々がいることは、仕方のないことだと思います。それをもって、事の善悪を断じるつもりはありません。

ただし、「麻生下ろし」に参加される方々は、それが前向きな行動であるという信念はもちろんのこと、その反面、同時に至極恥ずべき行為であることも、きちんと認識していただきたいと思います。

少なくとも、一年も経っていない過去において、麻生さんを総裁にしたというのは、自分たち自身です。総裁を選ぶという権利を行使したからには、それには、それ相応の責任が伴って然るべきでしょう。さらにそれが、自民党という一政党内に留まらず、他でもない日本の行政の長たる内閣総理大臣の選出に繋がるという意味で、その責任は極めて重いと言うことができるはずです。その責任の重大性を見過ごすことはできません。

そうした意味で、「麻生下ろし」の根本には、麻生さんばかりが悪いのではなく、過去の自分たちも悪かったということについて、関係する自民党議員の方々には、きちんと認識していただき、反省していただく必要があると思うのです。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、今でこそ、不人気の象徴のような麻生さんも、総裁に選ばれた当時は、「麻生人気」という言葉があったほどであり、自民党の方々は、少なからずその恩恵に与っていたはずです。

今の「麻生下ろし」には、どうも、そのあたりの自己反省があるのかがはっきりしません。先日、「麻生下ろし」の急先鋒とされる方が、テレビに出演されていた際に、「私は、あの時(総裁選の時)麻生さんには入れていないです」といったような話をされておりました。そのように言いたい気持ちを理解できないわけではないですが、その論理は、単なるご都合主義の謗りを免れないでしょう。自分の票がどうだったかに関わらず、そういう方を総裁に選んでしまった、自民党という組織に属し続け、その組織の力によって、今日までの自己に地位がある以上、それを持ってして、「麻生下ろし」を正当化する、あるいは責任について麻生さんをはじめとした他者になすりつけるというのは、政治家として、けっして潔い態度ではないと思います。

ついでに言えば、私の地元で出馬される予定の自民党の方も、麻生さんが総裁に決まった頃は、とにかく麻生さんをベタ褒めされていました。こういう方々が、最近の時勢のなかで、政治家としてどのような物言いをされるのかは、非常に注目しておきたいところです。

一方で、一部の方は、そうした組織に見切りをつけ、自らの信念を貫いた行動を取られています。現時点において、その行動が正しかったと言えるかは分かりませんが、少なくとも、既成政党の限界を見抜いて、自らの意思を貫いたという点では、非常に素晴らしいのではないかと思います(「二大政党制の本質」参照)。そして、そうした方々が、麻生さんを批判するのは理解できます。ただ逆に、そうした方々にとっては、既に自民党の問題は他人事になってしまっているため、「麻生下ろし」に関わることはありません。また、自民党という組織を離れてしまったが故に、政治家としての影響力を失ってしまったことを考えると、そればかりが正しいとも言い切れないのは事実です。しかし、私個人としては、組織の枠に囚われない行動や態度というのは嫌いではありませんし、けっして間違っているとも思えません。

このように考えると、「麻生下ろし」の問題は、事の善悪というよりも、これに関わる組織と個、それぞれの限界という視点から読み解いた方がいいように思います。

■組織の限界
 -当時、人気があるとされた麻生さんを選んだ。
 -自民党議員は、選ぶ権利を行使した責任を負う。
 -人材不足?それを言ったら組織の否定になる。

■個の限界
 -自民党を出て、自らの信念を通すことができた。
 -組織の後ろ盾を失い、政治家としての影響力が低下する。
 -独りよがり?それでは、実質的な政治活動にならない。

こうした見方は、大変残念なものではありますが、ひとつの側面として、否定できないことであろうと思います。ただし私は、こうした組織と個の限界という問題は、「限られた時間、「定められた仕組み」を前提にしたときに表れるものだとも考えています。

時間は、流れ続けるものです。次の総選挙が終わって以降も、国政選挙はあり続けるでしょうし、またその時間のなかで、新旧入り混じった政党の興亡があることでしょう。そうしたことを考えると、上記のような組織と個の限界を超えた、新しい政治システムは、遠からぬ将来において、きっと実現すると思うのです。そしてそのときには、組織と個が、もっと調和が取れたかたちで、日本という国を引っ張っていけるようになるのではないかと考えます。

私の実感としては、まだまだ、新しい時代作りに着手するには、時期尚早なのだろうといった感じです。

《おまけ》
先日、ある方とお話をしていたら、「平成維新ですか?」というお言葉をいただきました。言いたいことは分かりますが、まずその表現がおかしいと思います。江戸末期、明治維新を起こした人たちの行動は、明治以降、振り返って「明治維新」と呼ばれるようになっているのです。「平成維新」というのは、「江戸維新」と言うのと同じです。何を言わんとしているのかは理解できますが、「平成維新」はあり得ません。過去の枠組みから解放されて、別のものができあがったとき、はじめてそれに名前がつくようになるのでしょう。何維新?さぁ・・・?

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