満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Lee Konitz Brad Mehldau Charie Haden Paul Motian 『Live at Birdland』

2011-07-22 | 新規投稿
  

私が主宰するTimeStrings Travellers時弦旅団のCD『Defreezed songs』が「ミュージックマガジン」で「ヒドい酷評されている」というメールを受け取り、本屋で確認すると、なるほど<なんちゃってプログレな単なるフュージョンバンド>などと、小馬鹿にした口調で面白おかしく書かれてある。松尾史朗なるジャズ担当の批評家による文章だが、「shades of moscow」という曲に挿入したフランス語のナレーションを‘フランス語もどきのつぶやき・・・・・’と確かめもせずに断じ、事実誤認を放置するその‘軽~い’扱いに頭にきた。‘なんちゃって’などという今時、親父ギャグにもならぬ死語を駆使して喜んでおる松尾史朗とは何者や?‘なんちゃっておじさん’を知っている俺と同じ鶴光世代か。しょーもない!等と憤りながら家に帰ってパソコンで検索すると、トップに‘マスターの松尾史朗さん’と顔写真付きで出ている。なんだ、ジャズ喫茶のオヤジかと変に納得する。昔、東京に住んだ頃、色んなジャズ喫茶で、その店主のウンチクや説教に遭遇したが、良しにつけ悪しにつけ、偏屈とこだわり(批評眼の事にあらず)はジャズ喫茶の一種、‘売り’であり、音楽に対する強烈な好き嫌いがある意味、営業上、必要なのは没個性な音楽系飲み屋が数多、消えてきた状況を見れば自明である。この松尾氏も恐らく、そんな超こだわり人種なのだろうとイメージした。しかし、私が知りたい肝心の評論活動やまとまった文章は検索しても一向に出てこず、同姓同名の別人が次から次へと登場するだけ。すると<新天狗党党首の日常>なるサイトで、‘能無し野郎、松尾史朗’という文章に出くわした。フリージャズの若手筆頭ピアニスト、スガダイロー氏のブログだが、更に同氏のツイッターで再び、‘松尾史朗は意地でも潰してくれる’との過激発言。何かを書かれたのだろう。その怒りようは、よほど腹に据えかねた様子だが、恐らくはスガ氏の作品に対しても小馬鹿にしたような‘余計なひと言’があったのではないかと推測する。

ともかく検索すれど、ちっとも批評文に遭遇しないので、買ってしまった同ミュージックマガジンでの20ほどの作品の短い批評を読むと、その語り口が嫌味で結構、面白い。当方と同じく5点という最低点をつけられた市原ひかりグループ『ユニティ』では‘まずもって曲に面白みがない。居酒屋あたりでかかって、最新のヒップなジャズと勘違いされてもなあ’とゴミ箱にポイっと捨てるかのように、これまた軽~く切り捨てられている。ブランフォードマルサリスのセルフカバー作は‘無味乾燥なセンチメンタリズムに何気なく付き合えるのは15分が限度だが’と突き放す。これは6点。マーカスミラーの『tribute to Miles Davis』では‘のっけから自らの派手なソロで存在感アピールしても、これくらい弾ける輩は腐るほどいるし、冗長なドラムソロにも辟易。一発やっつけ芸に喜んでちゃいかん’とこれも5点。この文体はエンターティメントなのだね。計らずも。本人は感じたまま素で書いているのだろうが20もの作品を聴かなきゃならないのは確かに大変だろう。従って、一回聴いて、自分の好みか、あるいはテリトリー外でも良いと感じた作品じゃなければ、早急に‘ゴミ箱ポイ捨て批評’して次々と聴いていくのかもしれない。駄目なものは速攻で嫌味コメントの餌。二回聴くまでもないだろうという感じか。

こういった辛口エンターティメント文章は読んで面白いのは事実だが、その評者は限りなく、個人的趣向に基いた印象批評しかしないので、自分のカテゴリー外の音楽に対する別の批評価値軸を探索してまで、論点を深めようとは思わない。面倒だし、そもそも字数が限られた中でのショート批評なのだから、そこまでする必要もない。哀れなのは、そんな評者に一旦、‘ダメ’の烙印を押された作品だ。埒外の作品は本来、批評を避けていいはずなのに、‘あえて語る’事で雑誌に商業的価値が出る。正に餌食になった状態で、面白おかしくこき下ろすのを読む楽しみという娯楽性が生まれているのだ。私もそんな文章を読むのは嫌いではない(今回は自分がけなされたのでムカついてるが)。ただし、そこに一定の説得力があり、言説に深みがなければ、それは単なる罵倒であり、評者の深みに欠ける‘軽さ’を露呈するという結果が待ち受けているとも言わなければなるまい。松尾史朗の文章の全体像は不明だが、自分が感じる良い作品に対する称賛や繊細な文章表現と‘ダメ出し’した作品へのポイ捨て感覚の印象批評の軽率さとのギャップがあまりにも大きい。氏に顕著なのは、思いこみによる印象操作だ。当方に対する‘怪しい雰囲気を出したいのはわかる’や、市原ひかりに対する‘最新のヒップなジャズと勘違いされてもなあ’などは、それを発した途端に、それぞれ‘そんなつもりではない’という表現者本人の反論が返ってくるだろう。松尾氏はそこを覚悟の上で敢えて‘こんなつもりなんだろ’という断定をしながら、面白おかしく書いていくのだ。‘そう感じたんだから仕方がない’という書き手に許される特権はしかし本来、客観性を帯びるには検証がいる。一方通行なので議論には至らないが、その安全地帯が余裕と軽さを生んでいるのだ。書かれた方はたまったものではない(ミュージシャンも反論すべきだろう)。もうちょっと説得力ある言葉で批判してくれたら、読み応えがあって逆に嬉しいのだが、神経を逆なでするだけの放言になっている。例えば私は別に‘怪しい雰囲気を出したい’と思って仏語ナレーションを入れたわけではないし曲調の‘怪しい雰囲気’をもって‘プログレ風’などと断じているなら、それこそ浅い読みでしかない。‘気張ってやがるな。でも至ってないよ、単なるフュージョンだ’と言うのは私に言わせれば、そのプログレすら実はちゃんと聴いていない、知らないんじゃないかと思われても仕方ない程度の浅い言説なのだ。なぜなら、氏の言う‘なんちゃってプログレな単なるフュージョンバンド’という文句からはプログレがフュージョンより上位にあるというイージーで誤った前提が感じられるし、そもそも当方はプログレではない。むしろ嫌悪している部分が多々ある。しいて言えばウェザーリポートの音楽的フォーマットやムードへの憧憬はあっても、プログレへの近似性は目指しても、憧れてもいない事を断っておく。その勘違い、致命的だ。だから軽いというのだ。しかも今回の批評でナレーションの件について事実確認を怠る姿勢などに、安易なお気楽体質が見え隠れする。少なくとも報酬を受けながら(知らないが)商業誌に書く上で必要な真摯さは感じない。音源や資料の事実確認は批評の前提だろう。

この稿を書くにあたり、一応、松尾氏本人に質問、反論しようと思い、ミュージックマガジンに問い合わせようかなと思ったが、面倒くさいので、直接、本人に電話した。
私「2.3質問があります」松尾氏「なんですか」私「‘なんちゃってプログレ’とは何ですか」松尾氏「簡単に言えばプログレのようでプログレでないという事です」私「読んでる人、それで解りますか」松尾氏「解る人には解るでしょ」私「フランス語もどきじゃなくて、あれはフランス語です。フランス人の声なのですから。確認しようと思わなかったんですか」松尾氏「僕にはフランス語もどきに聴こえたので、そう書きました」とさ。
私は松尾氏を‘なんちゃって評論家’と命名しよう。評論家のようで評論家でないからだ。もっとも「私も評論家のつもりないよ」と言われるかもしれないが。

リー・コニッツ、ブラッド・メルドー、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンの『Live at birdland』はモチアンが入っているから買ったのであるが(中古で)、メルドーも嫌いではない。パット・メセニーとのコラボは愛聴しているし、ロックナンバーをやる事の戦略性もハンコックのようなレコード会社企画の受け狙いではなく、多少は‘自然なもの’を感じていた。ただ、私の元来のピアノミュージックを味わえる資質&理解力不足は、この‘天才’と呼ばれるジャズアーティストへの熱中へは至らせなかった事は事実である。『Live at Birdland』は‘アンビエント・ジャズ’の創始者たるコニッツとモチアンがメロディを空中散布させる中、メルドーがどこまで甘口を抑え、抒情寸前、なおかつ反理知的な演奏によってクールなグループ音楽なりえるかというのが私の期待値のポイントであったが、最初は、ちょっとリリシズムに流れるなあと感じつつ、ヘイデンの黒さに救われるという場面がそれを相殺したりと微妙な感想ではあった。
が、結局、何回か聴くうちにだんだん、その世界に引きずり込まれ、好きになってくるという典型的なスルメ味の好盤であったわけだが、このアルバムに対して、またしても松尾節が炸裂していたのである。曰く「(略)でも感想は一言「もったいぶってるねえ」。セットリストも決めないステージだって?コニッツが何百回と演じてきた曲ばかりでしょ。かしこまった、いかにもな録音。ゴダールによるジャケットデザイン。演出過剰よ。「待ってました真打ち!」って、いやたまらんね。各自の自己主張は申し分なく強いけど」
もはや、話芸の領域ですな。7点だから音楽的には可としたのだろうが、鼻につく作為を感じた事がまたしても嫌味全開になったのか。でもまたしても暴論気味なところあるぞ。‘かしこまった、いかにもな録音’って、この音質はいつものECMの典型じゃない。エスニックさえエアークリアーな零度パッケージするレーベルカラーは承知の上だろうに。今になってケチつけなくてもと言いたくなるね。ゴダールのジャケットに‘ええカッコしい’を感じたのは私も同じだが、コニッツはともかく、ブラッド・メルドーの以前のアルバムのカバーワークの数々からいわゆる‘音だけ出してハイ、後はお任せ’的なアート無頓着なプレイヤーではなく、多分にトータルアート気質な人物であることは承知していないのか。演出過剰と言う前に、逆にこの音で静止画風景のいかにもECMなジャケットでこられた方が、‘もっともらしい’と感じられる事もイメージしてはどうか。私ならその方が嫌だな。もしかしたら、この静謐で品格ある音に少しダサめのジャケットだったりするとより好感が持てるのかな?私は実はそうなんだが。
セットリストを決めないステージについても‘だから?全部、なじみの曲じゃん’って斜に構えて皮肉ってるが、確かにコニッツ等にとって曲を決めない事、それ自体は冒険を意味しない。しかしここでは演奏の‘非=安定感’こそが専売特許のコニッツ、モチアンの世界にメルドーを誘った実験と見ればそこに聴く側の注意点も浮かび上がるのではないのか。アルバム名義がコニッツではなく4人の連名になっている事は、実際にはコンセプトも含め主導的位置にあろうコニッツのつくる音楽環境をメルドーが試すという図式が浮かび上がることで、‘均等’な表現としていると思われる。しかも、セットリストを決めない。それはコニッツのいわば‘流儀’であるのだから、騒ぐまでもないというのは、本人が一番、強調したい事なのではないか。

さて、評論に対する評論というイレギュラーな評論、しかも重箱の隅をつつくような揚げ足取り評論はおしまいにしよう。思うに、私はお金を払って音源を買って聴いている以上、その音楽を好きになろうと思って、何回も聴く癖があるのだろう。好きにならなければお金がもったいないという心理は恐らく過剰に働いているはずだ。だから繰り返し、繰り返し聴く。しかしそれが音楽を好きになるツボの発見につながるという、探求の意味合いがあるのと同時に音楽の評価を瞬間的に不要に上げたりする事もあるのかなとも思う。おそらく、だいぶあとで、聴いてつまらないと感じる音源はこの類に入るのだろう。気に入ったのでこのブログで取り上げたアルバムなのに、その後、売ってるのもある。さらに言えば、売り払ったCDを再度、買い直す事もある。何をやってんだか。リー・コニッツ、ブラッド・メルドー、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンの『Live at birdland』はどうなるかな。「もったいぶってるねえ」という松尾史朗の結論に肯く時がくるのだろうか。それはわかりません。

2011.7.22


 
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Time Strings Travellers 時弦旅団 レコ発ライブは7/22(金)心斎橋nu-things

2011-07-08 | 新規投稿

ブログでバンドの事をどんどん書いていくぞと宣言し、確か、ニューアルバムの曲解説をするとも言ってました。書いてない。いつになる?そのうちですね。ということで、しかも大事な宣伝も忘れてます。ライブが決まってました。あわてて書きましょう。レコ発ライブです!7月22日(金曜日)心斎橋nu-things 19:00open 19:30start 2000円(1drink)共演は即興ユニット二人組のドットエスです。http://www2.nomart.co.jp/dotes/ 
去年、数回のライブは全てレギュラーメンバー5人によるものでしたが、今回はジャンベの神野、ボーカルの横江、パーカッションの木村と3人のゲストも参加する事になりました。総勢8人で繰り広げる、見どころ満載のライブにしたいと考えてます。
みなさんの御来場、お待ちしておりますです!

  

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濱瀬元彦E.L.F Ensembre & 菊地成孔『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』

2011-07-07 | 新規投稿
  
私にはダウンロードして音楽を聴く習慣がないのでi-podは持っていない。
私がもっぱら愛用するのはCDウォークマンである。
CDウォークマンはその需要が減り、家電量販店でも、少量を扱うのみらしいが、私はこの再生装置こそをフル活用している。思い起こせば、カセットウォークマンが登場した時の驚きはすごいものだった。私がオレンジ色のヘッドフォンの2代目ウォークマンを買ったのは大学に入った頃だったかな。普段、家で聴いている音楽が外で聴ける。こんな画期的なことはなかった。音楽ファンは皆、狂喜したものだ。学生時代、家に帰るとステレオやラジカセの前でしがみつくように聴いた音楽。音楽を聴く時間と空間は元来、限られたもので、それは移動できないものであった。従って、電話が鳴ったり、母親に「ゴハンができた」とか、「早くフロに入れ」等と言われ、音楽リスニングを中断されると、下手をすれば、翌日の同じ時間まで再開が許されない状況にもなる。従って、音楽を聴く時間の集中度は本来、学生の本分である勉学以上であったと思う。‘ジャマするな!’という気構えで聴いているから、音楽により深く入っていくという感覚があったような気がする。これでは勉強などに身が入るはずもない。
当時の多くの音楽ファンがそうであったが、私にとって外で聴くという利便性は、音楽を聴く集中度を損なうものではなかった。‘聴き込む’という感覚は継続され、それはしばしば、人にぶつかりそうになる、目的地に着いたのに、今、聴いてる曲が終わるまで、そのあたりをぐるぐる回る(これはカーステでもしばしばある)、人がモノを尋ねてるのに気付かない、リズムをとって忘我状態になり、気味悪がられる等、様々な弊害を招いたものである。音楽の吸引力とは大きいもので、本来、それは聴く者の足を止め、対峙を促す種類のものだと思っている。

翻って、昨今、i-podを耳に差し込んで、何やら聴いてる風な人々が街に溢れかえっているが、音楽産業の斜陽を常々、聞く状況から見るに実に不思議な光景だ。まことに音楽ファンもここまで増殖したのであろうか。などと皮肉を言うオッサンを許したまえ。‘新しい装いのように音楽を着る’というコピーを目にしたことがあるが、i-pod中毒者は音楽中毒者にあらず、空気を吸う如く、音楽を耳に流し込んでいる流行主義者である。何百曲だか何千曲だか収納できるというが、アホらしい事だ。そんなに音楽が聴けるわけがない。いや、‘聴いてない’から聴けるんだろう。音楽という‘情報’が耳にずるずると入り込んでるだけ。しかも、肝心の情報量が希薄な音ばかり流し込んでるから、耳も全く疲れない。
ipodとは音楽に驚異感がなくなった時代だからこそ、生まれ得たオモチャなのだ。私がソニーの開発者なら音楽ファンの為にLPウォークマンを作るだろう。カセットにダビングしなくても、mp3に変換しなくても、そのままLP が聴ける。すごいじゃないか。全然、邪魔じゃない。音楽ファンは面倒を厭わないものだ。ショルダーバッグみたいに肩からぶらさげればいい。重たくたって構わない。外でも聴けるんだから。

先ほど‘音楽の驚異感’と言い、それがなくなった時代と書いたが、そんな‘驚異感’に直面したアルバムを久しぶりに聴いた。濱瀬元彦E.L.F ensembre & 菊地成孔による『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』に私は、聴きながら興奮し、手に汗握り、思わず「すっげー」と唸ってしまった。これをCDウォークマンで聴けば確実に電車を乗り過ごし、人とぶつかるだろう。珍しいことだ。私は日ごろ、音楽がアーカイブ時代に入り、その革新は止まり、スタイルや方法論に驚くことはなくなった等と散々、書いている。それもこれもトータスなどに皆がびっくりするという誤った状況に対する異議の一種であり、何を聞いてもちょっとやそっとでは驚かないヒネた私の実感からくる感慨であるわけだが、この作品を前にした私はとんでもない音楽とはあるものだと半ば、降参の心境。はっきり言ってこのアルバム、凄すぎます。心地よさとカッコ良さだけで充足する日々よさらば。この根源的で革新的な音楽の登場を私は祝福したいくらいの興奮を感じている。しかもこれを作ったのが日本人だ。

濱瀬元彦というアーティスト。名前は知っていたが、私は初めて聴いた。
ジャズ・フュージョンシーンの理論的なベーシストとして有名で、ずっと以前、氏の小難しい文章を雑誌で読んだことを記憶している。どちらかと言うとセッション、スタジオのミュージシャンという印象で、実際、少ないソロワークを80年代に残し、以後、研究生活に入り、‘消えたベーシスト’などと言われていたようだ。
『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』は‘ジャズフォーマットの未来を切り開く’と言えば、通俗すぎるコピーかもしれないが、その突出したような近未来ジャズは確かなグルーヴが存在する事で、ビートミュージックの生命線たる下半身直撃的な音波という基準を満たしている。そこに知性というかヘッドに迫りくる聴覚刺激が加わり、おそらくはフォロワーを生まない孤高性を帯びた唯一無比なものになるのだろう。聴いた時、私は一瞬、菊地雅章の『ススト』(81)、『one way traveller』(81)の孤高性、先端性を想起したのも事実だが、そのスピードはもはや、ブラックミュージックの部分派生たるジャズから完璧に切り離された‘ジャズ’である。その意味で、恐らくは菊地成孔による文句だろうが、<ジャコ・パストリアス、オウテカ、スクエアプッシャー等を経た2010年代の聴覚可能性を切り開く、 100%手弾きによる驚異のテクノ・ジャズ>という帯の紹介文が説得力を持つ。オウテカのアメーバ音響によるリゾーム的増殖の感覚を濱瀬元彦は生演奏で行った。

ライナーノーツに濱瀬氏と斎藤環氏(精神科医、評論家)の長い対談が収録されており、濱瀬氏の概念的なものへの傾倒が伺えるが、音楽表現の源泉に、感情と同位の理論、思考への信望、革新への闘争心が存立する事の疑いなき確信が、音楽の強度を約束させているようだ。濱瀬というアーティストのラディカリストたる本性、その性は強いと感じる。何物にも近くない。遠く在りたいという欲求がこのような驚異の音楽性に至るのか。対談で述べている「オーネットコールマンとドンチェリーの二管編成はパーカー・ガレスピーの形態模写に見えるし、それ以上のものはどうやっても聴こえない」という断定の痛快さ。濱瀬氏のベースライン、歌(ソロ)、音楽環境の構築性の細部にルーツをカットアウトしながら、新しいジャズの言語を獲得する試みが見られ、その方向性に感動する。従って氏のこだわりは音楽総意の先端ではなく、実は‘ジャズ’なのだ。ジャズこそが‘先端’を担う可能性を今でも秘めた固定形態であるとの直感があるのだ。ジャズという本来、音楽の相互侵食や自己増殖、解体と溶解、生成をダイナミックに繰り返す生き物がいつしか静止画像になり果て、その生命を絶たれようとしている事への蘇生の挑戦を濱瀬音楽は試みるのだと感じる。そしてやはり、キーワードは‘演奏’だった。楽器を演奏し、機械を操作する。音響を手弾きする。その作業抜きに音楽の更新はありえない。オウテカ、スクエアプッシャーを濱瀬元彦は聴いていないかもしれないが、もし、聴けば、それらが‘演奏’ではないという事実に、聴覚刺激性の優位的差異を自らに認めたかもしれない。濱瀬元彦の音楽を前に、マシーンミュージックによる全ての先端が色あせてしまう。

『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』にはもう一人のベーシストが参加している。濱瀬元彦の弟子、清水玲氏だ。その驚異のテクニックは嘗て、氏が参加したSOH BANDと私のバンドが何回か対バンをさせてもらった時に目撃しているが、SOH BANDの関西ツアーの際、清水氏が私の家に一泊された時、「濱瀬先生に習っている」と言っていた事も私は今、思い出した。氏のベース音はヴーン!と唸りを上げる太く、且つエッジがある音が印象なのだが、今作ではスラッピングを駆使した怒涛のリズムアプローチを展開している。

『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』に参加したメンバーでもう一人、興味深いのがパーカッションの岡部洋一だ。ROVOでの芳垣安洋とのツインドラムはメジャーシーンでも有名になったが、私にとってはボンデージフルーツでの演奏が印象深い特異なドラマーで、今作のクレジットはパーカッションとなっている。確かにその演奏はドラムの常套であるライドやハイハットでリズムをキープする定型をはずれ、ドラムキット全体をパーカッシブに処理するようなカラーが強い。ボンデージフルーツを組織した鬼怒無月氏が、ギターを大きく、自由に弾けるバックリズムがほしかったという旨の発言をしていたと記憶する。それは恐らく、それまで一緒に行動を共にした故、宗修司のメカニックなドラムを念頭に置いた発言だったと推測する。岡部洋一はラテンパーカッション出身らしい、その独得なパーカッシブリズムで、うわもにスペースを与えるのだろう。このアルバムでも無軌道で、かつグルーヴィーなパルスビートを響かせており、その切れ味の鋭さは、しばしば共演する芳垣安洋の影響も感じさせる。

そして現在のシーンの牽引者とも言える菊地成孔。
‘&菊地成孔’というクレジットから正式メンバーでなく、ゲストである事が伺えるが、プロデュースとして濱瀬元彦との共同名義になっているので、制作者としてのスタンスに比重が置かれたようだ。自ら主宰するリーダーバンドの数々が多分に70年代マイルスデイビスを意識しながら、何とも言えぬコンセプト過剰で、音楽的快楽に至らないケースが多いという気がするのは私だけだろうか。それに反し、他人のバンドにプレイヤーとして参加した時に見せる爆発的な輝きの不思議を思う。このアルバムに於いても、そのハードエッジなサックス音を遺憾なく発揮している。この人の特異な能力は他者の方向性やコンセプトへの透徹した理解力と音楽をレヴェルアップさせる貢献能力なのだと思う。従ってプロデューサーとして音楽全体の客観視ができ、他者への批評にもその秀逸な観点を発揮する。濱瀬元彦が菊地に認めた‘共闘仲間’としての同志的感覚は、演奏の質もさることながら、その批評的性分というか概念的な共通理解を感性ではなく言語交換で可能にする稀な相手とみたからなのかもしれない。そういえば、菊地成孔のジャズ講義録『東京大学のアルバートアイラー<歴史編>』(04)を私は愛読したが、続編である<キーワード編>は未読。ここに濱瀬元彦の講義録が含まれているのだ。いや、買わなくちゃあ。まだ売ってるのかな。

濱瀬氏の著作『ブルーノートと調性』、『ギター、ベースのための読譜と運指の本』は当然、未読だが(読んでもさっぱり解らないと思うが)、氏は原典探求を現在を認識する術として、取り組んでいるのだとはイメージできる。‘現在の認識’とはこれすなわち哲学の世界だが、表現者として当然、持つ、抽象的な世界観や認識の度合いを高めるため、濱瀬氏は音楽表現に意味を持たせ、理論背景を構築する事を前提に作品を成立させようとしている稀有の挑戦者であるとも感じる。音楽を演奏する方法論、奏法を説く教本は数多、あるが、そこに先取の精神と更新への意欲を持って、未来に役立てようというのは、これ、志の高さ以外の何物でもない。具体的にはいかなるコンセプト、理論の支柱をもって‘目指すべき場所’を見据えているのか知る由もないが、アルバム『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』は音を聴くだけで、そのサウンドの爆発性のすさまじさにも関わらず、これは単なるエモーショナルなものの発露ではなく、何かしらの理論バックボーンを基底においたサウンドだと直感できるだろう。

『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』はそのタイトルを吉本隆明の著作『擬制の終焉』(62)からとっているという。ここに私はある種の‘揺るぎなさ’を感じる。団塊世代のアナロジーでも過去回顧でもない。吉本という今では、ある意味、忘れ去られ、乗り越えられ、素通りされる嘗ての‘知の巨人’の言説を今もって、何かしらの拠点と位置つけているのか。いや、2010年というタイミングを思う時、濱瀬元彦は現代思想の先端すら崩壊し、おじゃんになった地平を肌で感じながら、‘以前のもの’の有効性を問い、先端と同位に置く事で真に価値あるものの模索を‘最新’としているのだとイメージする。ここでの音楽に現れるスキゾチックで非伝統的、パラノイックで非ナショナル的な感覚はその極みを徹底させ、正にポスト構造主義以降のミクロな運動体としての‘反攻’‘革新’をイメージさせるに充分ではないか。

ライナーノーツに収録された対談の最後、斎藤環は濱瀬元彦に対し、言う。「自覚的な方法論と高度な批評性を保ちながら作品も凄いという事態は、普通はありえないわけです。そういう意味で孤高の人なんですよ」
私はこの音楽を聴いたことで、自分の中に新たな基準ができた。おそらくこのサウンドに匹敵するものは今、他にない。困った。しばらくは何を聴いても、感心しない日々が続きそうだ。‘歌’に逃げ込もう。それしかない。しばらくは。全く、とんでもなく驚異的な音楽が現れたものだ。

2011.7.6

 
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