満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

恒松正敏グループ 『欲望のオブジェ』

2008-03-27 | 新規投稿
  
しまった。
恒松正敏のライブを逃すとは。レコ発だった。見事にノーチェック。もう何回も来ないぞ。しかもファンダンゴだったんじゃないか。あの辺は庭だ。くそう。向かいのキャバクラ、ビーパニック行ってる場合か。最近、質、落ちてるで。リバシーは潰れたし。いや、ほんまに。何たる不覚。恒松正敏。くそう。気分直しにヴォーグ行くか。いや、その。

E.D.P.Sの1st『blue sphinx』(83)の怪奇幻想的なアルバムジャケットに意外な印象を受けて以来、画家、恒松とロッカー、ツネマツの両義性に興味を持っていた。そのギタープレイは夢幻を徹底的に排するリアルロック。絵筆を持てばそれに相反するような象徴主義的な画風。一見、異なる感性が彼の中に同居しているように思っていた。

はぐれ雲からフリクションに加入した時、恒松正敏はツネマツマサトシになった。(正確にはゴジラレコード時代のソロシングルが既にカタカナ表記だったが)漢字はあり得なかった。フリクションの無国籍、モノクローム、超越的、ビート&ノイジーといった美学要素の中で、ツネマツはレック、チコヒゲと共に完璧に‘フリクション世界’を体現していた。その‘フリクション世界’とは詩的情緒、夢幻、ブルース等から最も遠く離れた地点で集中発火されるリアルロック世界で、言わば、‘軋むほどの現実’、‘リアルの中核に向かうリアル’、‘研ぎ澄まされた今’、‘過去と未来を極点で断絶する現在’といったものだろう。
そんな感じだ。音楽という抽象表現を限りなく形あるものに変容させる意志がフリクションであったと思う。リアルである事。それは物質、形あるものしか信じないという表明であり、その根底には人の思弁や思想が醸し出す欺瞞に対するアンチの精神がある。それは結果的に‘大きな表現’へ向かうフリクションの基本態度だったような気がする。そんな中、ツネマツマサトシのシャープなルックスもノイジーアヴァンロックなギターも、ギターに貼り付けたマヤコフスキーの白黒写真も、それら全てがフリクションを象徴する要素に思えた。先鋭の感覚。グレイゾーンなき明確さ。それが音にも態度にもセンスにも、全てに現れていたのがフリクションでありツネマツマサトシであったと思う。

徹底されたクールネスに凝縮された異次元の‘熱気’。
フリクションのロック世界は情緒的なものを極限に排する現実主義的なものだ。リアルロックという言葉がいとも簡単に乱用される昨今、フリクションほど意識的にリアルを覆う余剰を剥ぎ取る意志の強さを持ったバンドは皆無なのだ。従ってフリクションは‘言葉’が醸し出す意味性をも嫌い、歌詞にもそれが現れていた。日本語歌詞をわざわざ、ローマ字でタイプライトした歌詞カードの衝撃を忘れまい。何らかの思惟を想起させる漢字表記すら自らの感性に反した当時の姿勢。フリクション加入の際、‘ブルースコードを脱したい’と望んだ恒松正敏がそれをレックに打ち明けた時、彼はツネマツマサトシにならなければならなかったのだろう。

フリクション時代、ツネマツのギターはコード進行をノイズで分散させ、独特な無調の響きを有していた。その音は美しく軋み、分裂症的、錯乱的といった大げさな形容が似合う。同時代のアートリンゼーと共振し、後のサーストンムーアのロックノイズサウンドにも先行していた。しかもそれらよりテクニカル且つグルービーだった事が、もはや同時代的別格であったと今、感じている。

しかし、新作『欲望のオブジェ』を聴くとき、彼が真の意味で‘別格’である事を強く感じる。フリクションでのソリッドなツネマツ。まるでナイフのように鋭角で殺気だった演奏、攻撃的で豊饒なギターワールドは彼の才能の実は一部分であった。彼の表現世界は実はそれにとどまるものではなかった。
フリクション以降の彼を追うことで、そんなツネマツの本領が見えてくる。

フリクション在籍中の短期間でツネマツマサトシは驚くべき表現力の幅を身につける。『79’LIVE』と『LIVE1980』の間、僅か半年。無調ノイジーギターがファンクネスを伴う事によるリズム表現の豊饒さは決定的な進化だっただろう。しかしなぜかレックとの相克が表面化し、決裂。二人のリアルのぶつかり、‘軋轢’が増したのだろうか。
傑作ソロ『TSUNEMATSU MASATOSHI』(81)に続き、リーダーバンドE.D.P.Sを始動。
フリクション時代のギター亀裂音が炸裂しながら、よりファンキーにグルーブを重視した音楽性は鮮烈。最強のロックトリオであった。超ヘヴィ級のリズムセクション。そのコンビネーションはあらゆるビートの形を鉄壁のアンサンブルで作り出す。そしてギターとボーカルにかかる独特の深いリバーブが大きな上昇気流をつくり、豪快なロック空間を形成していた。特にライブアルバム『DECEMBER 14th 1983 MAY 27th 1984』(84)の完成度は同時代ロックの世界的水準である。海外にも出るべきだった。おそらく大きな衝撃を与えた筈だ。

84年、E.D.P.S解散後、ツネマツマサトシは絵画の世界に戻り、恒松正敏になった。
音楽活動ではスティルというバンドのプロデュース。そして86年には渋谷ラママでジョンゾーンとデュオという名の‘果たし合い’があった。チコヒゲのライブで客席から「ヒゲ~!」と怒鳴りながら酒をがぶ飲みしていた恒松正敏も覚えている。一升瓶かビール瓶か持っていた。盟友への叱咤激励か単なる野次か解らないが、相当、酔っていたと思う。私はすぐ隣りにいた。怖かった。噂に聞く‘無頼漢’に納得した次第であった。

87年に恒松正敏として再登場した時、その音楽性は以前の異次元的鋭角さは影を潜め、シンプルなロックとなっていた。ブルース色もある。フリクション時代のシャープノイジーなギターやE.D.P.S時代の深いリバーブギターは消え失せ、コードストロークをカッティングする姿。VISIONSというバンド、そして町田町蔵&GLORYのギタリストとしての恒松もいずれもそのギタープレイはシンプルなロックギターという印象が残っている。彼本来の資質が復活し、静かに顕在化していた時期だったのだろうか。

『欲望のオブジェ』は8年ぶりのアルバムとなった。
突出する歌。シャウト。がなり声。
ソリッドノイジーギター。見事なほどに真っ直ぐなロック。飼沼丞二(b)と藤掛正隆(ds)による重いリズムセクション。これはE.D.P.S以来の超重量級トリオだ。相変わらず<お前>、<俺>の歌詞。恒松の絶唱。歌に澱みがない。もはやリバーブは不要。空間的拡がりよりも圧縮した磁場。生の声と生の音が雑音を吸収しながら響く。スタイリッシュの欠片もない激情。ダサさも厭わない。聴く者の眼前に迫るロック。すくそこにいる。目の前で歌っている。このクサイほどの真っ直ぐさ。赤面するほどの熱さ。

何度も聴く中で見えてくるのは、恒松正敏のヒロイズムだった。フリクション時代は遮断され、E.D.P.Sに於いても顕在化する事のなかったもの。ビートの嵐、ノイズの洪水の渦中から仄かに立ち上がる理想主義や愛、情け、そんなクサイほどのヒロイズムが全方位に放射されている。
先程書いた‘真の意味での別格’はここにある。恒松正敏はブルースマンであり、プロトタイプロッカーであった。アヴァンギャルディストでも先鋭ギターリストでもなく、寧ろ詩人であった。言葉を信じたロマンチストがギターという武器を極限に磨いたトータルアーティストであったか。そうだ。私は観てないが恒松は弾き語りもやっているらしいのだ。(本人曰くは‘弾きがなり’という事らしいが)

私はE.D.P.S の『LAST LIVE』を思い起こした。どこか悲壮感漂う終章。そこでは嘗て轟音と共に無限大にトリップしていたE.D.P.Sの姿が、最後に至り、静かに着地するもの悲しい旋律が流れていた。『欲望のオブジェ』に充満するヒロイズム世界。限りなく強いビートと鋭角な歌を持ちながら、多分に物語的でブルース臭に溢れたこのアルバムはE.D.P.S の『LAST LIVE』に共通するものを持っていた。
『欲望のオブジェ』は『LAST LIVE』からの続章であったのだ。
そして発見したのはラスト曲「夜の旅へ」に登場する白い鳥であり、これは『LAST LIVE』のアルバムカバーで恒松が描いた白い鳥と同一ではないのか。

「夜の旅へ」

荒れ狂う波は渦巻き オマエの舟は木の葉のように
遙か遠い雲の切れ間の 彼処を目指し夜の旅へ
白い鳥は翼を拡げ オマエの舟の行手を照らす
白い鳥は翼を拡げ オマエの舟の行方を示す
白い鳥は翼を拡げ オマエの舟に囁きかける
白い鳥は翼を拡げ オマエの舟に呼びかける

La La La La La La La La La La La La La La La La

『欲望のオブジェ』は『LAST LIVE』から20年以上の時を経て転生した続章であった。恒松正敏の本領世界がここに結実する。

「ひとつ」

ひとつが始まる
ひとつが終わる

ひとつがはじけて
ひとつは閉じる

星が廻る 世界が廻る オイラが廻る オマエが廻る
風が吹く 星が降る きこえるかい みえるかい

Ah AAAh AAAh AAAh Ah Ah
Ah AAAh AAAh AAAh Ah Ah
 
言葉は重要だった。常に。サウンドの強度と共にそれが表面化した。
言葉と音が発火する。点から発したメッセージが90度の角度で放射され、やがて全方位に渦巻きながら上昇してゆく。演奏が重い。分厚い。リバーブは要らない。圧倒的にシンプル、しかも圧倒的な拡がり。

恒松正敏のロック。
絶対強度を持続しながら現在進行形。

2008.3.27
  
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アストル・ピアソラ  『ピアソラ=ゴジェネチェ・ライブ 1982』

2008-03-13 | 新規投稿

Astor Piazzolla 『Piazzolla Goyeneche en vivo 1982』

音楽には人間の感情や主義主張、時には政治思想やプロパガンダさえ、裡に含んでいる場合が多い。また、特定の思惟やイデオロギーによって音楽が偏った解釈をされたり、政治的組織や団体、時には国家の思惑によって音楽が演出されたり、利用される事すら多くある。
しかし音楽の本来の魅力とは音というあくまでも抽象の表現を抽象のまま感受し、表現する側も鑑賞する側も、音に付随する様々な‘具体的なるもの’を一旦、理解しながらも、最終的には消し去る方向性を持つ時にこそ顕在化すると思われる。

外国人を拉致したり、強制収容所に‘政治犯’を収容して公開処刑し、麻薬や偽タバコの輸出で得た金を核兵器開発につぎ込んで自国民を餓死させる国でコンサートをしたニューヨークフィル。バーンスタインが泣いているとは、しかし言うまい。これが三枚舌国家アメリカの奥深い国家戦略。音楽は素晴らしかったのだろう。その楽曲にも演奏家にも何ら罪はない。
音楽は別。
毒入りの餃子や薬品、ペットフードを世界に輸出し、アフリカの独裁国家を武器支援し、その暴虐的圧政に手を貸したり、自らはウィグルやチベットで民族浄化を実施する現在進行形の侵略国でコンサートを行い、最後に「チベット!独立!」と叫んだビョーク。よく言ってくれた!さすがビョーク!と思うが、ビョークの音楽はさほど好きではない。
音楽は別。

ロバートワイアット、ウェインショーターが所属する共産党や創価学会は何れも私が嫌悪するものだが、熱烈ファンには変わりはない。敢えてロジカルに言えばワイアットやショーターが好きなのではない。その‘音楽’が好きなのだ。
音楽は別。なのだ。

音楽はいつもあらゆるイデオロギーから独立している。それは演奏者本人の意志をも超えて存在する究極の抽象表現だと思っている。歌う人の感情も、それを聴く人は異なる感情で受け取る事が許容される。音楽が存在する場所とは発した者から離れた場所であり、どんな思想や感情、背景を内包しても空中に発せられた途端にそれらは無となる。

‘闘うタンゴ’を標榜したアストルピアソラが生涯、闘い抜いたのは世間や社会ではなく、タンゴという一音楽ジャンルの中での形式や既成概念に対してだった。狭い箱庭が彼の戦場だった。しかしその‘闘い’の広大さ、偉大さは計り知れない。
『PIAZZOLLA GOYENECHE EN VIVO 1982』 (ピアソラ=ゴジェネチェ・ライブ1982)はフォークランド紛争(マルビーナス戦争)真っ最中の母国アルゼンチンでのライブ記録。この時期、ピアソラは国内で月に20回以上の公演を重ねている。イギリスに対する母国の正当性をメッセージする為か。全然、違う。戦争中は劇場使用者が少なく、そのレンタル料が安かったので大いに利用したというわけだ。稼げる時に稼いでおこうという音楽労働者の姿が見える。現在の名声からは想像できない不遇と無理解の中にあった当時のピアソラ。しかし彼は音楽革命を自分の要請と快楽に従って継続していた。この時点でもう30年のキャリアだと言うのに。ピアソラは音楽を世に妥協、迎合せず、しかも聴衆に対する感謝の意と両立させる純粋さを持っていた。

20分にも及ぶ「AA印の悲しみ」の緊張感に溢れたインタープレイの凄さ。楽曲を僅かに変形させる連夜の実験があったのだろう。即興演奏がアウトとインの境界線上ぎりぎりの地点で発火するように濃密な運動をしている。静的ながら凄まじいテンション、そしてアンサンブル。クインテットによるハイスピードなユニゾンやグルーブが渦巻く圧倒的な演奏。器楽間の張り詰めた空気感、そこで生み出される生命力がこちらを圧倒する。心が揺さぶられるようだ。そしてクライマックス。全く、このエネルギーに満ちた音楽には莫大な感情や思想が詰まり、しかもそれらを無効化する。抽象表現の持つ真の力感。意味無く流せる涙、文章化できない深遠な物語がある。

アルバムはロベルトゴジェネチェを迎えたボーカルナンバーを6曲収録。しかし、ピアソラには女性ボーカルが似合う。ミルバやアメリータバルタールを愛聴する私はこの男声シンガーは好きになれなかった。「ロコへのバラード」も藤沢嵐子の方がいい。

この半年後、ピアソラは遂に来日した。その模様は『LIVE IN TOKYO 1982』で聴くことができる。なぜ、日本に来たのか。戦争が終わって落ち着いたからか。全然、違う。戦争など何の関係もない。彼の戦場は‘保守的な音楽シーン’というもっと大きな戦場だったのだから。
「私の戦争は55年に始まったんだ。その時は火星人だと思われていた」アストル・ピアソラ

2008.3.13
 
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ETHAN ROSE 『SPINNING PIECES』

2008-03-09 | 新規投稿
 
プリペアドピアノ等がDADA的にアートコラージュされたアルバムジャケット。このカバーからミュージックコンクレートや前衛的な現代音楽を想起するが、音楽の本質はアンビエントにあった。あまりにも心地よく響く音象。旋律なき旋律的陶酔がある。
確かに実験的ではある。微音から立ち上がる音階の拡がり。捻れるような音の軋み。仕掛け。ノイズ。シンフォニー。様々な前衛アプローチがある。その構築音は発する音と反響音との交換を捉えた理知的表現のようにも映る。

しかしイーサンローズが意識するのは精神のバイオリズムに対する平静感覚であり、紛れもなく、それは高度な‘癒し’であろう。ただ、その‘癒し’をスローソフトな耳障りの良さに限定せず、感情領域や精神状態の振幅を肯定的に見出す、広義のアンビエント、力学的アンビエントと言っても良いのかもしれない。不安定要素や非―安定的音響素材を駆使し、音色によるアグレッシブなアタック、強制性を感じさせる場面転換などが、一つのストーリーのように流れていく。
実験音楽的な音の物象化や音楽時間の‘分断’が、ここにも一つの要素として濃厚にあるが、しかし、イーサンローズにあって、その‘分断’は常に流動する精神の鼓動と一致しながら在るようで、そこに人間性、ヒューマンなものを僅かに匂わす音楽性があると感じる。物質化した音に血を通わす心象風景が音響となり、快楽を促すような音楽。これは攻撃的でラジカルなミュージックキュアーであろう。

そう言えばブライアンイーノが嘗て‘環境音楽’なる概念を初めて提示した時、ambientとobscure(オブスキュア)という二つのレーベルを並行させていた。ポピュラーミュージックとして普及したのはambientシリーズの方であり、現代音楽寄りのobscureは広く浸透しなかったと記憶する。『music for airport』(79)等の有名作品を有したambientシリーズの一連のワークがその後、シーンで様式として定着するアンビエントの元になったのは言うまでもない。しかし今になって感じる事はobscureの方が、よりアンビエントを広義に捉え、現在的意義が上だという事だ。つまり音楽性の広さ、演奏の追求や実験色を高めながら、結果的に環境音楽へ至るという試行錯誤や反様式美がこのobscureレーベルにあった。ずっと難解に感じていた『discreet music』(75)の意味がなんとなく解ってきた気がする。

アンビエントが様式化された昨今の状況だからこそ、obscureレーベルの諸作品の意義が見える。そこには、快楽様式を規定する環境性の誇示に対してアンチを突きつける挑戦的態度があった。通常楽器に於けるアンビエント的演奏の追求があり、西洋音楽の伝統をベースにしながら、それを乗り越えるラジカリズムを感じる。ある種の古典美があるのは、モダンへの安易な飛躍より、伝統性というアイデンティティーを意識し、それを背負う事で、強く超越する志向があるのだ。ブライアンイーノは実験主義という異端的辺境ではなく、西洋音楽の歴史の中心へ向かったのだろう。そして‘最新’の形成に成功した。それをポピュラーミュージックへと反射したのだ。

Obscureの精神が、2000年以降の高密度アンビエントミュージックの最良部分へ確実に反映していると感じる。イーサンローズの『SPINNING PIECES』はそんな連続性の最たる成果ではないだろうか。

2008.3.9
  
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