満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

   Milva & Astor Piazzolla 『Live in Tokyo 1988』

2009-12-31 | 新規投稿

日本屈指の‘プログレギタリスト’である鬼怒無月氏がアストル・ピアソラにハマったその果てに、プログレタンゴのバンドを組んで活動している事は知っている。プログレ愛好家がピアソラに行き着くのは不自然ではない。ピアソラ楽曲の構築美や複雑なアレンジ、そして中心に在るメロディの優美さや劇的なテーマに通じるものを多くのプログレッシブロックは持っているし、逆にプログレの(ややもすると)装飾過剰さや(ややもすると)幼稚さを卒業する向きにピアソラは、もっと抽出された魂だけを直感するレベルに導いてくれる種類の音楽だと感じている。その意味でプログレリスナーはピアソラに必然的に行きつくべきだとさえ思う。

『エル・タンゴ』(ミルバ ウィズ ピアソラ)がそれほど強い印象を私に与えなかったのは、やはりアメリータ・バルタールのせいか。『白い自転車』(当ブログ07.08.11)と『ピアソラ=フェレールを歌う』の強烈なインパクトは声による劇場生成の現場に立ち会ったかのような感動であっただろう。このような音楽にあってはもはやビジュアルは不要。例えDVDがあっても、観る必要はない。それほどのスペクタル性を声だけで持ち得ており、音楽だけで眼前に大劇場が現れる。そんな魔的な力さえを私はアメリータ・バルタールに感じていた。ミルバに地味な印象を受けたのはアメリータ・バルタールとの比較によるものだったと思う。しかし、回想録によればピアソラにとって最高の歌手はミルバであったようだ。

二枚組CD『Live in Tokyo 1988』はピアソラの3回目にして最後の来日公演の記録である。そしてミルバとの最後の共演でもあった。インストナンバーと歌曲の均等バランスは全体の構成を一種の演劇にも似たものに変えてゆく。私はCD化された過去二回の来日公演である82年と84年のそれぞれの音源よりも、今作が優っていると思った。それはまず演奏に於けるリズムの垂直度、その切れ味が際立っているからである。ピアソラと彼のクインテットはヒリヒリするような張りつめた演奏を行った。その弛緩なきテンションはミルバがそうさせたのか。いや、確かにこの独特の緊張感からあたかもバンドを統率するが如きもう一人のリーダー然としたミルバの姿が想起されるだろう。全くここでのミルバは厳然とした存在感と言うのか、その巻き舌の発声が鋭い刃物のような響きを持ってステージを支配した。ピアソラクインテットの演奏は明らかにミルバに感化され、引っ張られている。ピアソラが「誰とも違う歌い方をする」と評したミルバの「ロコへのバラード」にも幾分、感情を抑えたクールなドラマを改めて感じる。それは従来なら最大の声量を張り上げる最後の「loca yo!」を敢えてピアニッシモで静かに歌う即興にも現場での歌の生成という本質が浮かび上がるだろう。アンコールで再度歌われた「チェ・タンゴ・チェ」の変容もまたしかりだ。

そして今作で演奏されたインストナンバーの数々の完成度は晩年期とは思えないエネルギーに満ちたもので、私はアルバムトップの「タンゲディアⅢ」の重量級の響きをもってこのアルバムのハイレベルを確信できた。この曲はキップハンラハンによるピアソラ再生プログラムとでも言うべき生涯最後の全盛期を成し遂げた3部作(『tango zero hour』(86)『rough dancer and the cyclical night』(87)『la camorra』(88))の『tango zero hour』のトップに収められていた曲だ。私はピアソラの全キャリアに仮にこの三作が存在しなければどれほどそれは不在感を伴っていただろうと思う。試行錯誤の果てに輝きを失っていたピアソラはハンラハンという異端児によって従来の力感溢れる創作に導かれた。このハンラハン3部作のハードな内容はピアソラミュージックの復古的進化であり、そのリズムを強化した最強のエッジがメロディを引き立てるという最先端的な音響作品でもあった。82年、84年のライブと88年ライブの間にこの3部作があったのだ。Live in Tokyo 1988』のリズムの切れ味の鋭さを指摘したが、これはハンラハンとの作業を経たピアソラの再生と視る。ちょっと気になって82年の『Live in Tokyo 1982』の他の評を少しばかりチェックもしたが、概ね好評というか、絶賛の評が目立つ。不可解である。私は実は『Live in Tokyo 1982』が好きではない。ずばり楽曲の良さだけが、その輪郭だけを有した音楽としか聞こえなかった。演奏、アレンジがどう聴いてもイマイチなのだ。テンションの低さは隠せない。さしずめディランで言えば『武道館』に近い感覚なのだ。そして概ねピアソラの70年代後半から80年代初頭にかけての音楽はどこか中庸的なものがあったとも感じている。
『Live in Tokyo 1988』の鋭角な演奏はハンラハンによるパンク的アグレッシブな儀式を通過したピアソラの変容がなし得た全的表現の極みであったか。

世に言うピアソラブームは97年以降(ピアソラの死は92年)に発生している。私がピアソラを発見したのが、2000年くらいなので、そのブームにちょうど乗った形でハマっていったわけだ。何でこんなすごいアーティストを知らなかったんだろうと思う。私にとってピアソラは第二のコルトレーン、ディランとして現れた。しかし、知るのが遅すぎたようだ。1988年と言えば東京に住んでいた。色んなバンドにあちこち掛け持ちで参加していた頃だ。プログレのバンドを辞めた頃かな。そのバンドは‘プログレの殿堂’と言われたシルバーエレファントによく出ていた。そうだ、シルエレには鬼怒無月氏もその頃、よく出入りしていたじゃないか。

2009.12.31


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John Coltrane 『live in France july 27/28 1965』

2009-12-23 | 新規投稿

確かに『ascension』(65)のクレジットには(John Coltrane)とあるのだから、あれは紛れもない‘楽曲’であった。集団即興の外形をとったあの80分(エディション1と2のトータル)に及ぶ切れ目のない無調の演奏も実は作曲されたソングを中核としたもので、むしろ当時、フリージャズの動向をやや、サイドから眺めていたコルトレーンがその‘要素’を自らのソウルに引き寄せながら、調性なきブルースを大人数(11人)で奏で、ファラオサンダースやアーチーシェップらのフリージャズを自らの歌の背景としたのかもしれない。
『ascension』はコルトレーンによるフリージャズ宣言であると言われる。以降の演奏やアルバムに於いてそのフリージャズの要素を内在化させる傾向が顕著になるのは、その影響の強さを証明するものであるし、確かに『ascension』を分岐点として、その後、即興の度合を加速化させたコルトレーンのキャリアは一見、どんどん歌を放棄していったかのようにも見える。しかも、その最晩年はフリージャズから更にその純度を突き詰めたフリーミュージックまで行き着いて、その無調の極みは後のヨーロッパフリーの原型と目されるスタイルとなった。

しかし、私達コルトレーンのファンは彼のフリージャズがその音楽性の中核を示すものではなく、バリエである事を承知している。晩年の演奏から垣間見られたその多様な関心領域はフリーという演奏形態以外にアフリカであり宗教であり宇宙や静的なメディテーションであった。つまり、フリージャズとは彼の表現世界を形成する一翼ではあるが、全てではない。その混沌の音像に私は結局の所、コルトレーンが初期から一貫して持ち続けたアドリブの発展形としての一過性的な表出であったと思わずにはいられないのである。

今回、リリースされた『live in France july 27/28 1965』は「ascension」のライブバージョン唯一の収録音源である事が注目された。しかもファラオやラシッドアリ、アリスコルトレーンが参加した後期の編成ではない。エルビンジョーンズ、マッコイタイナー、ジミーギャリソンによる黄金期クアルテットでの音源である。
「naima」や「afro blue」、「my favorite things」、「impressions」といったライブにおけるお馴染みのコルトレーンナンバーと違和感なく収まった「ascension」にむしろ、驚かされるだろう。あの凶暴なフリージャズの一大饗宴であったスタジオテイクがここでは、確かに強烈なフリー演奏ではあるが、他のナンバーの既知な爆発性と同列な響きをもって表現、提示されている。違いはテーマの有無だけなのだ。この曲の出だしの短い、それとわかるフレーズがテーマならぬ‘合図’として機能する点は共通で、後は多人数のソロの順番が重層な‘演奏会議’となったスタジオオリジナルバージョンが、このライブでは短縮されたソロの循環演奏となっている。しかも、そのドライブ感が強調されたライブならではの疾走感で演奏され、思わず聴いていてリズムを刻んでしまう高揚感をもたらすのだ。オリジナル『ascension』ではこうはいかなかった。エルビン、マッコイ、ギャリソンのグルーブマスター三人で構築されるリズムが多数のホーンインプロヴァイザーによる無軌道な音響で寸断され、その破片があちらこちらに飛び散るが如きサウンドが繰り広げられたのだから。それを聴く私達はビートを追走などできる間もなく、もはや、立ち尽くして聴くしかない状態にあったであろう。
『live in France july 27/28 1965』における圧縮されたグルーブに立ち還ったかのような「ascension」。ここで際立つのはマッコイタイナーのピアノのグルーブである。インプロヴィゼーションよりもバッキングとしての従来の意識に回帰するような演奏を行った。いや、この形態もマッコイにとって一つの即興であったか。自分のソロパートでは従来の持ち味であるエルビンのドラムに併走するプッシュを見せた。

コルトレーンクアルテットは当時のフリージャズを客観視していた。しかもそのフリーと言う名の形式に束縛性すらも見ていた。感情を爆発させる一つの発露の形態としてのフリージャズを認めながらもしかし、ジャンル化、様式化したフリージャズを演奏する事はむしろ不自由であり、アンチ・フリーであると。本来のフリーとは爆音の中で一人、口笛を吹くような精神のその場の自由行為である筈ではないか。音の外形を綾るアグレッシブさが解釈としての‘変革’や‘自由の獲得’といた言葉の称号を得られるのなら、むしろ様式内の演奏もそれは即興であり、その場のフリージャズに他ならない。
私はむしろエルビンとマッコイに自由な精神を見出すだろう。その後、ジャンルとしてのフリーの要素のバランスを強めていくコルトレーンのグループメンバーの改編によって脱退するこの二人こそ、そのバランスの均等な実現者であったかもしれない。

当時のコルトレーンが即興をめぐるそのバランスにどう解決を、結論を下すか。私はこの2枚組のライブアルバムにその苦悩の跡を見てとれる。そして一つの発見があった。私は本作のディスク1の冒頭でアナウンスされるフランス人司会者の癖のある声をどこかで聞いたことがあるなあと思っていたのだが、LPの海賊版でなない。思い出したのは『a love supreme deluxe edition(至上の愛 デラックスエディション)』(2002)のライブ音源 である。クレジットを確認すると、これはやはり、あの「至上の愛」を生涯ただの一度だけ演奏したライブであるフランスのアンティーブジャズフェスティバルでの音源がこの「ascension」の入った本作『live in France july 27/28 1965』だったのだ。日付は1965年、7月27日。つまり、「至上の愛」を演奏した翌日に今度は「ascension」をやってのけたのだ。

私は常々、コルトレーンがimpulseからリリースした数多の傑作スタジオアルバムの曲の数々がこと、ライブに於いてはあまり演奏されず、ステージで演奏されるのは大体、名の通った曲ばかりである事に、物足りなさを感じていたのだが、その意味で珍しく「至上の愛」を演奏し、翌日には「アセンション」をやったアンティーブジャズフェスティバルとはコルトレーンにとってどのような心境で臨んだフェスティバルだったのか。本国アメリカでは一度として演奏しなかった「至上の愛」をフランスで演奏した。常々、ナイトクラブという空間の非音楽鑑賞性に対し批判的であったコルトレーンは自らの代表的作品を濁りのない視線で埋め尽くされたヨーロッパの聴衆の前で再現したかったのか。わからない。ただ、私は先述した‘即興をめぐるそのバランス’に対する実験を試行したのだと感じている。

オリジナル『ascension』に於いてコルトレーンはギャリソン、マッコイ、エルビンというレギュラーメンバーとフレディハバード、デューイジョンソンといったオーソドックス派を加えた事による集団即興のいわば右翼を形成した。それはファラオやシェップ、マリオンブラウン、ジョンチカイといったフリー左派に対するバランス的配置でもあったのではないか。つまりコルトレーンにとってフリージャズとは無調の果てに現出するアナーキズムではなく、音楽自体の秩序なくして表現足り得ないという自己の法則に従った一形態であった訳だ。
『live in France july 27/28 1965』に於ける「ascension」はレギューラークアルテットの4人のみで混合に演奏する事で言わば左右両翼を塊のように表現した。それがこのグルーブに満ち溢れた音楽となり、さらに重要なのはコルトレーンのソングがより抽出されその真意がむき出しになって現れた事だろう。彼の下したフリージャズへの回答、その要素のバランスがこの演奏に現れたのだと思う。それはソングという中核を巡る包囲の厚み、その装飾という本質を際立たせる為の量的なバランスを演奏人数やフォーマットによって自由に変え得るという確信であったか。しかし、逆に言えば、それは「ascension」をライブでやってしまった事で一種の可能性の境地に達した事を意味した。従ってそれは新たな飽和を招き、先行きを不透明にした結果をもたらせたのではないか。
後、マッコイとエルビンを外し、アリスとファラオ、ラシッドアリを加え、フリージャズのバランス過多に向かったコルトレーン。それは己のソングの限界、変質を巡る再生のドラマの終章であったのかもしれない。

2009.12.22
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           BEATLES 『LET IT BE』

2009-12-11 | 新規投稿

2009.12.11
なぜ、親父が『LET IT BE』のカセットを持っていたのか、亡くなってしまった今となってはもうわからない。音楽の趣味はなかった筈だ。ただ、物をやたら、溜め込む習性があったので、多分、もらったものを無意味に置いていただけだったのかもしれない。家に横型のカセットテレコがあった。デジタル時計ならぬパラパラと自働にめくれる時計が付いていたすごい旧式のラジカセだ。親父がいない時、私はこのラジカセで、いつも気なっていた『LET IT BE』をこっそり聴いた。私のビートルズ初体験であり、洋楽を聴いた最初だった。しかしその感想を今でも覚えている。それは‘ジャムセッション的’な曲(「maggie mae」「dig it」「dig a pony」「for you blue」「one after 909」「get back」等)と‘練られた楽曲’(「let it be」「I me mine」「the long and winding road」「 across the universe」)との極端な相違であった。もちろんロックもブルースも聴いたことがない子供にとって、メロディアスで荘厳な響きを持つ「let it be」や「winding road」に何か感じるものがあり、ロック色が強く、歌としての要素が薄い「get back」等にまだ、感覚がついていけなかった事は否めない。ただ、「maggie may」の何ともイージーな歌が厳粛性の極みのような「let it be」の直後に始まるギャップとアンバランスに、そこに何かしらの‘分裂’を感じ、私はグループ内の亀裂すらイメージしていた。まだこの時点でビートルズの何かも知らず、これがラストアルバムであり、音楽の方向性の違いや、マネージメントのトラブルに端を発することが元で対立し、解散した事を後で知ったが、アルバム『LET IT BE』の持つ末期的なムードは年端もいかぬ子供であった私にもさえ、感知できる作品の本質を表していたのかもしれない。

私がビートルズ狂と化すのは小6の時、親父の横型のラジカセをゲットした時からである。テレビを観ることを制限されていた私はラジオにはまり込んだ。AMのヤンタン、ヤンリク、「FMレコパル」に赤鉛筆で印をつけて、ビートオンプラザ、カモンポップス、シリアポールのポップスベストテンetc・・・・色んな番組を聴いて私は音楽に熱中した。そして様々な洋楽、邦楽を聴く中、突出した楽曲性を持つビートルズが特別な存在として私のフェイバリットになっていく。鈴木ヒロミツがパーソナリティを務めたラジオ番組「ビートルズ大全集」が始まったのは中2の時だったと思うが、その頃、既にビートルズ博士となっていた私は番組の中のビートルズクイズのコーナーに一喜一憂するミーハーと化していた。
勿論、レコードを多く買える歳ではない。私のメインリスニングはラジオであり、エアチェックである。押すのが信じられないくらい固いRECボタンを再生ボタンと二つ同時にガチャっと押す。PAUSEボタンはまだなかった。カセットテープすらそんなに買えないので、曲が埋まれば、泣く泣く録った上からまた、録る。消してはいけないものは、爪を折る。従って年に3枚ほど、買うレコードは熟考の末、買ったもので私は買った日付けをジャケットに書き入れて、宝物のように愛着を持っていた。盤が擦り切れて傷ができるまで飽くことなく聴いていた。赤ベストが最初に買ったLPで、順番に後期の作品を揃えたと思う。『LET IT BE』のLPには1977.7.とある。例のカセットがあったので、後回しになったのだろう。

ビートルズソングの多くを私は頭の中で演奏も歌詞も鳴らすことができる。かつて、その熱中ぶりはすさまじかった。音楽の入り口がビートルズで良かったと思う。それは一つの基準であり、他のあらゆる音楽の楽曲レベルを推し測る尺度となった。ことメロディメイカーとしてのビートルズはもはや、後にも先にも唯一の存在である事は常識の筈だ。

初のデジタルリマスター音源が一大ブームとなっているビートルズ。
ボックスは要らないので1枚だけ買おうと思い、『LET IT BE』にした。しかしLPで何百回と聴いたであろうこの作品に音質が向上したからという新たな感動は実は得られなかった。私は不思議に思う。今までリマスターされず、‘最悪の音質’でしか聴けないCDしか存在しなかったというビートルズが、そんな理由でその音楽性が正当に評価されなかったというなら、それはリスナーの耳の退化である。私は‘最悪の音質’だったCDは聴いていないが、どう違うのだろう。更に言えば音質が格段に向上したという今回のCDと昔、私が愛用した横型で上にちっちゃいスピーカーが一つついただけのカセットテレコで聴くビートルズの一体、何が違うと言うのか。違わないと思う。ビートルズメロディの屹立度がそんなもので左右されるとは思わない。音楽に関する感動の感度が変質した。ビートルズメロディはプレ・デジタル時代だから生まれ得た魔法であり、だからこそ再生装置や貧弱な音質の摂取からでも、その音像が体内に蓄積され、あるビジョンが脳裏に拡がる種類のものだと考える。それは音という物質ではなく、栄養のようなものだ。デジタルによる左右の耳の円環回路を流通し、消えゆくものではなく、単線から聴覚に入り込んで拡散する夢の形成なのだとイメージする。そんなビートルズメロディとはアナログである。アナログとは全体像を入口一つで集約し、雑音や空気、バランスの悪さをも含めた音楽の部屋を提示する事だ。そこにあるのは人間主義である。声と感情である。ビートルズのメロディは音楽の感知の中心作業、その大切な本質を示す。それはリスナーを鍛える作業を促し、メロディの優劣の峻別能力を呼び覚ますだろう。

かつて『LET IT BE』に感じた分裂、末期的感覚や物悲しさは幸福感と未来を信じて疑わない無邪気な子供の私に、世の不条理や暗い面の存在を教えたようにも思う。従ってこのアルバムの荘厳な響きと共存した‘ジャムセッション的’なナンバーが佳作としてではなく、人生や世界観の縮図としてある成熟感にもイメージされる事に気つかされた。

あの『LET IT BE』のカセットはどこにいったのか。そしてテレコは。
もう一回、あの小さなアナログスピーカーの聴きとりにくいこもった音に耳を近つけて、聴き入りたい。そうすると、もっともっとビートルズのメロディの中心が姿を表すような気がする。

2009.12.11

コメント (1)
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