満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Erykah Badu  『New Amerykah Part Two : Return of The Ankh』

2011-01-15 | 新規投稿
 
前作『New Amerykah Part 1:4th World War(第四次世界大戦)』(当ブログ2008.5参照)から2年ぶりのエリカ・バドゥの新作は‘part two’ というタイトルが示す通り、前作のコンセプトを継承する続編と位置付けられるが、サウンドの快楽志向が際立つ、より豊穣な内容のアルバムとなった。全体が流れるように進み、サウンドプロダクションのシンプルでいて、ツボを心得たマジックのような快感に浸る事ができる。私は前作より気に入った。サウンドリミキシングにクレジットされたマッドリブ、サーラーなどの超快楽サウンドはやはり、心地よい。

「前作が左側の脳を司り、自分の考え方が政治的な過程を通じて物事を解読する事に対し、今作はもっと感情的で気持ちを解放した右脳部分にあたる。」
理論的な表現への対処から感情的発露への転換を図ったというエリカバドゥ自身の弁を裏付けるような開放感溢れるナンバーが展開されるが、メッセージソングとラブソングという双方の分離を前提とした二分法ではない、ある種の融合こそを感じる。アルバムラストに収録された10分を超える「out my mind,just in time」の濃厚な世界は、エリカバドゥの知性とエモーショナルなものの真髄が発揮され、ニューソウルのクールな切り口が感情表現の抑揚に終始しないヘヴィネスを伴う作品となった。
ブッシュ政権への批判という直接的メッセージを発した前作から、時はオバマ時代になった。しかし、今作でエリカ・バドゥの問題意識の変化等を確かめようとは思わない。オバマを支持しているから、メッセージ性、批判精神が和らいだ?いや、エリカ・バドゥの社会性が元々、個人の精神性とリンクしているのを感じていたから、そんな単純な揺れ動きで音楽のレベルが左右されるとも思わない。しかも、毎回、しっかりとコマーシャリズムを意識しながら戦略的に表現をしてきた事は周知の事。

私は音楽アーティストの社会派にしばしば見られる上位意識に与するものではない。(政治的取組みとは即ち、‘無知な人々に覚醒を促すべく私に与えられた使命’と思い込む例えばボノのような‘勘違い野郎’も数多、いるだろう。)生み出される表現物に快楽指数が認められない限り、リスニングの価値がないとする。そもそも、政治的主題を扱うアーティストのその動機であろう‘正義心’は実は‘快楽’なのだと思っている私見から言えば、政治メッセージもラブソングも‘快楽志向’という同一の地平に含まれるのだ。つまるところ政治的主張を行うアーティストはそれが‘気持ちいい’から行っており、そこに快楽を見出しているのが本質であろう。ラブソングよりも‘高尚’だからなのではない。恋愛小説より文芸誌が面白いというレベルと同じく嗜好の違いでしかない。その事はおそらく多くのアーティストは直感的に実感しており、エリカバドゥは音楽の快楽志向を追求する中で、政治的主題を呼吸の快感のように消化し、表現の地平を拡げているのだ。音楽の深化とメッセージ性を音楽リスニングの肝である‘快楽性’に結実させた、そのレベルは私には‘社会派’の理想形であろうリントンクウェッシジョンソンに通じるものがあると思う。

ケネディが暗殺された場所で全裸で倒れこむビデオ・クリップが先行話題となったエリカ・バドゥのラディカリストとしての性も彼女の解放への眼差し、即ち‘快楽志向’に根差すものだと理解する。どうやら表現の自由や集団による意思決定などがテーマであるという自己解説をされているようだが、気持ちよさとスリルを味わう志向が、それをさせたのだ。既成概念を破りたいという社会派のベクトルが、自分の殻を破りたいというパーソナルな内面とリンクする。その姿は、あらゆるチェンジを欲してゆく筋金入りの快楽主義者だろう。

2011.1.14




 
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