満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Miroslav Vitous Group 『Remembering Weather Report』

2009-09-29 | 新規投稿

タイトルとは裏腹に、その音楽にウェザーリポートの一般的イメージを想起させるものは全くない。ここにある音楽、特にコンポジションに於いて、ミロスラフ ヴィトウスはウェザーを懐かしむ思い出に感情を寄せるのではなく、むしろ、初期のウェザーリポートに於けるコンセプトメーカーはジョーザヴィヌルならぬ自分であったと主張するが如き独自性を誇示している。やはり、ヴィトウスとジョーザヴィヌルの溝は深い。

ジョー ザヴィヌル、ウェイン ショーター、ミロスラフ ヴィトウスによる初期の三頭政治体制が崩れ、リーダーシップがザヴィヌルに移る際の鍵となったのは音楽のポップ/ファンク化を巡るヴィトウスの非―対応だったとされるが、それ以上にザヴィヌルのコマーシャリズムへの上昇志向に対するヴィトウスの拒否反応が大きかったのではないかと以前、私は拙著『満月に聴く音楽』で書いた事がある。それを裏付けるかのようなヴィトウスの「そもそもウェザーリポートは自分とショーターのアイデアにザヴィヌルが割り込んできたものだった」という極端な発言もあった。逆に「あいつは我々の変化について来れず辞めた」と公言するザウィヌルはウェザーヒストリーたる性格を持つライブ音源集『live and unreleased』(02)に於いてヴィトウス時代のものを意識的に消去した。それはまるでグループに初期があたかも存在しなかったかのように、ヴィトウスの痕跡を消し去ったのだ。結局、ヴィトウスとザウィヌルの感情的な確執は根深い。

『Remembering Weather Report』にはウェザーを想起させるものはないと書いた。
しかし、それはヴィトウス脱退以降のウェザーリポートのカラーとは異なる世界であるという方がより、正確な言い方だろう。その外向性、メジャー感覚という中期以降のウェザーが持ち得た特質を私達はグループの一般的なカラーであると認識し、一方、その初期に於ける重層的なインタープレイや即興のエネルギーはその後、メジャー化するグループの重要な布石であったと理解している。初期の音楽性を通過、清算する事で、中期以降の黄金時代があったというストーリーを暗黙のうちに了解事項としているのではないか。しかし、ヴィトウスの脱退は脱ジャズを図ったグループの上昇の契機でありながら、そして同時に音楽的損失でもあったという事も強く認識すべきなのではないか。

『Remembering Weather Report』を改めて聴きなおすにつれ、ウェザーリポートの初期の音楽性が浮かび上がる。90年代以降、主だった活動を停止していたヴィトウスの復帰作であった『universal syncopations』(03)の典型的な‘ECMジャズ’とはどこか異なるダークでインナーな世界。集団即興を軸にファンクグループとの適度なブレンドを果たした初期のウェザーにやはり、近いものを感じる。大きなテーマがホーンで奏でられ、リズムが無軌道に展開する。ビートの形こそ、入り組んだ無定形なポリリズム主体で、ウェザーのような明快さがないが、室内楽的でいて、外向的パワーに溢れているのは、ヴィトウス時代のウェザーを彷彿とさせるに充分だろう。

同時に想起するのが、ヴィトウスがウェザーリポートが結成される前に制作した傑作ソロアルバム『purple』(70)である。ザウィヌルも参加したこのアルバムはエレクトリックジャズ創生期における即興とビートミュージックの絶妙のバランスを誇るアルバムだと私は認識している。つまり、当時、マイルスが推し進めたジャズの電気化(=ファンク化)は得てしてエレベによるミニマルファンクを志向し、重層的に連なるドラム、パーカッションの反復ビートを支える形がベースに要求された。一方、即興シーンはフリージャズというノンビート主義を貫いて、内面や政治性の発露に傾倒するアンチグルーブ性こそを中心に据えただろう。そこでのベースは自己主張の限りを尽くすホーンソリストの脇役であり、あくまでも与えられたスペースに於いてソロを展開するのみであった。ヴィトウスが『purple』で実現したのは、いわばこの両者の中間的バランスを試みた理想のジャズの新形態だったのだ。主役のインプロヴァイザーを補佐するリズム陣という対位的関係がなくなり、集団即興の中心に位置するベースが全面に出るソリストとしてのボイシングを獲得している。しかもミニマルなビートに於けるアッパーなバッキングをも同時にこなし、その強さはウッドベースによるルエレベ以上のファンクベースの可能性を示唆していた。なるほど、ウェーリポート初期でヴィトウスが展開した天才的な閃きは、ソロとバッキング、4ビートのランニングと16のグルーヴ、はたまた8の縦ノリの刻み・・・等等のあらゆる奏法の境界線を無尽に往来するテクニックによるものだったのだろう。ずばぬけた技巧者だったという訳だ。

ミロスラフ ヴィトウスが70年に制作した『purple』
既に40年近く、今まで一度もCD化されてないこの重要作は恐らく、将来、『in a silent way』(69)(マイルスのアルバムだが、ザウィヌルの作品という事でウェザーの前身的音楽に位置付けられている)を凌ぐ真のプレ・ウェザーリポートのコンセプトアルバムとして再評価されるだろう。発足時のウェザーのコンセプトは自分が作ったと豪語するヴィトウスの確信は確かにこのアルバムを聴けば、納得せざるを得ないのも確かだ。

『Remembering Weather Report』の一曲目「variations on W.Shorter」でベースのアルコ弾きによるエッジの効いたリードが始まった瞬間、このアルバムのエネルギーを予感する思いに駆られるだろう。この切り裂くような鋭い音色。『purple』で聴かれたソロ、全く主役と化したベースによるジャズの最先端を表現したあの音楽の延長がここにあるじゃないか。二曲目は何とオーネットコールマンの「lonely woman」ときた。フリーなリズムの坩堝の中からあのホーンによるテーマが流れてきた時、一瞬、「この作品のどこがリメンバリング ウェザーリポートやねん」と誰しもが思うだろう。アルバム全体に漂う室内楽的な即興の応酬、暗い音像、ホーンによるテーマの浮遊感、そのズレ方など、まるでポールモチアンのバンドのようだ。いやいや、しかし、最高だ。この感覚が中期以降のメジャー化したウェザーリポートに加味していれば、正しく巨大なスーパーグループとなり、80年代後半以降の新伝承派による主流の変更がおこったジャズシーンにおける、もう一つのメインストリームを形成したかもしれない。ウェインショーターの方向性にも影響を及ぼしたのではないか。いや、それは無駄な妄想だ。

ミロスラフヴィトウスが確信犯的に創造した『Remembering Weather Report』。
それはヴィトウス時代を無きものとして葬ろうとしたジョーザウィヌルによるウェザーリポート正史の書き変えを迫る強力な音楽であった。

2009.9.28
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Arctic Monkeys 『Humbug』

2009-09-23 | 新規投稿

<もっと遅い曲を増やしてもいいだろう。それすら‘速く’きこえる筈。>と書いたのは昨年1月、前作『FAVORITE WORST NIGHTMARE』の評においてだったが、果たしてそのアークティックモンキーズの新作は全曲が‘遅い曲’で構成された意外な内容となった。アップテンポの曲が一曲たりともないのだから、徹底している。今作で際立つのはそのミディアムテンポである。スローテンポではない。この中間速度の楽曲こそが演奏上、ノリを出すのが最も難しいのは、数多のミュージシャンが認めるだろう。

このミディアムというテンポは70年代前半のものだ。
ロックがまだ、ブルース、R&B、カントリー等、ルーツミュージックとつながっていた当時、ミディアムテンポというブラックミュージック的な後ノリのグルーブこそがロックビートそのものだった。しかし、パンク以降、ロックの平均速度は速くなり、それは90年代以降のロックの構築性の崩壊と共に、‘早くイキたい’症候群という時代的病理とリンクした。前傾姿勢でドライブするビートがもはやタメなき機械的アップビートにまで、その速度がエスカレートし、16は勿論、ルーツミュージック的なリズムを前後左右に揺らす演奏テクニックの習得はなおざりにされた。結果、早い曲はごまかしがきくとばかりに、中途半端にビートが突っ込む前のめりなバンドが多くなる。
実際、ミディアムテンポは難しいのだ。しっかりした構成がないと、楽曲のレベルが暴かれるし、ライブではリズムが少しずつ速くなって下手がばれる。しかし、70年代のバンドはミディアムを完璧に演奏した。しかも、遅いテンポに速度を感じさせる演奏の醍醐味を持っていたのだ。

アークティックモンキーズはUKロック特有のビートポップ色(ルーツミュージックからカットアウトされた)が濃厚なバンドとしてスピーディーな楽曲と切れ味鋭いリズムアンサンブルが特徴だったが、今回、そのテンポに於いて、ルーツミュージックのテンポに接近する新たな展開を見せた。この‘オールドウェイブ臭’の獲得は、嘗て、ストーンローゼスが『second coming』(94)で到達した快楽性を想わせるが、従来の奇天烈変則ビートポップという持ち味を維持している点が逆に独自性を感じる。古典に向かうのは安易だろとばかりに、ブルースコードに背を向け、相変わらずシンプルな圧縮ボイスは決して歌いあげない。リズムのグルーブもテンポは確かに70年代だが、やはり、横揺れのグルーブじゃなく垂直に刻んでいる。楽曲の練られ方に前作より物足りない点も感じるが、それはバンドの自然体の結果と肯定的に見ざるを得ない説得性をも同時に含んでいるだろう。バンドがいよいよ、ミュージシャンシップを獲得してきたなという印象。

無造作な写真のアルバムジャケットもいい。
この写真がアークティックモンキーズの本質を表しているだろう。ミュージシャンなのだ。スターじゃない。じきに売れなくなるだろう。でもずっと音楽やると思う。半端じゃなく音楽、好きなはずだから。前もこのフレーズ、書いた気がするが。


2009.9.23






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  JOHN COLTRANE 『Last Performance at Newport』

2009-09-04 | 新規投稿

JOHN COLTRANE 『Last Performance at Newport july 2,1966』

ラシッドアリが死んだ。
しかし、その訃報は新聞に載らなかった。そればかりかネット上でも僅かしか話題になっていない。グーグルで検索すると、私のブログがトップに出てくるのだから話にならない。彼のジャズシーンに於ける評価、そのポジションの不確定さを感じる。サニーマレイと並ぶ‘一斉放射’型パルスドラムの巨匠であり、別名、‘偉大なるヘタウマドラマー’ラシッドアリ。いや、それは冗談。むしろ晩年期の活動となった自己のクインテットでの音楽的完成度は、情念型フリージャズからクールネスなソロの集合体へと収斂された独特なグルーブジャズを実現しており、アリ特有の無軌道な爆発力よりもステディーでタイトな定型リズムを全面に出した‘テクニカル’な持ち味が強調されていた事を指摘しないわけにはいかないだろう。後期コルトレーングループでの印象のみに固定されてはいけない。80年代はファランクスもあった。

ただ、後期コルトレーンミュージックに於ける貴重な起爆剤であったアリは、同時に常に予期できぬ不安定さを抱えた不確定要素でもあっただろう。現在につながるアリの評価、シーンでのその辺境なポジションは単にメジャーなスタイルのドラマーではなかったという理由以外に、演奏におけるあまりにもそのメンタル性に左右される表現形態がいわゆる‘仕事’に適さない、誉れ高き‘独自性’故にもたらされたものであったのではないか。アリにとってその演奏性とはやはり、情念が先行した。その情念の形、深さ、その時々のリアルタイムな濃度こそが演奏を支配し、その都度、変化する演奏レヴェルが他者の評価を揺さぶり、翻弄した。つまりは、アリの精神状態による演奏の善し悪しの大きなブレ、変化に周囲は振り回されたであろう。それはコルトレーンをも巻き込んでいたのではないか。

ラシッドアリ逝去のニュースは図らずも私を再び、ブログの更新に向かわせているが、そうじゃなくとも先月、購入したこのアルバムの衝撃を書き留めないわけにはいかないだろう。『Last Performance at Newport july 2,1966』はジョンコルトレーンにとっての最後のニューポート・ジャズフェスティバル出演時のドキュメント。1966年7月の録音にして、完全未発表音源のリリースである。そしてその内容は全くすごい。音源を聴く限り、ラシッドアリも絶好調の凄まじき演奏を繰り広げている。アリの出来が良い限り、グループは安定する。

アルバムトップの22分に及ぶ「my favorite things」は本当に最初から録音していたものなのか。曲の途中、二度目のテーマ導入部あたりから、慌てて録ったような、つまり、後半の半分のみを収めたものではないかと私は最初、本当に思った。そんなわけはないのだが、そう感じさせるほど、そんな疑問を感じるほど、いきなり最高潮に達しているかのようなハイテンションな演奏となっており、その凄まじさに圧倒される。いや、冒頭の観客の拍手も少し、不自然だ。ダビングかもしれない。私はまだ、疑念を持つ。この録音は演奏の途中からのものかもしれない。
ともかくこの「my favorite things」は‘いきなり’始まる。前触れなく奏でられる濁ったソプラノのテーマメロディ。それもオブリガードをつぎこんだ通例ではソロを回した後の二順目に吹かれるようなパターンがいきなり、最初のテーマで既に展開される。イントロダクションなしのテーマそのもので開始される強力さ。スタートダッシュと言うにはあまりにも早いクライマックスをこの時点コルトレーンは表現した。

続く、ファラオサンダースのテナーによる強烈な号砲のようなソロ。耳をつんざくようなけたたましい響きは雷電のようである。当時、一部で疑問視された2テナー編成の妙。単に「ファラオが良いプレイヤーだから」とその加入の理由を語ったコルトレーン。しかし、私はもしかしたらコルトレーンがファラオを招いたのは「my favorite things」を演奏する為だったのではないかと推測している。コルトレーンにとって同曲は一貫して重要な曲で、正に曲名通りの最もお気に入りのレパートリーだった訳だが、この曲の演奏だけの為にグループのメンバー編成を変えたと言っても、それはあり得ると思っている。コルトレーンが同曲で担うソプラノサックスに対比するテナーサックスを想定し、その対極感覚による空間の現出を理想の形として設定したのではないか。ファラオの怒涛のような低音の響きにコルトレーンは嘗ての共演者、エリックドルフィーよりも広大な音の深海のような背景を得たと実感した。それは自身のソプラノによる天上を突き抜けるような感情放出の世界に奥行きを与え、まごうなき内宇宙と外宇宙の往復感覚を実現できるという事だったと思うのだ。

そしてファラオの深海カーペットのような音の持続、その音響世界は続くアリスコルトレーンのソロへ自然に受け継がれる。アリス特有のメロディなき、混沌の世界。ピアノがまるでハープの如く(アリスは本来、ハープ奏者でもある)流麗に起伏なく、リズムバッキングのように演奏される。それは一見、空間埋没的であり、ソロという自己主張とはどこか遠い、無限の平野のような漂泊感に満ちているだろう。アリスのピアノパート。それはアクセントのない、まるで平坦なフレーズで間を埋め尽くすアンビエント性を持つものだ。しかし、ホーンレスとなるこのソロタイムの気持ちよさは何なのか。90年代以降、スピリチュアルジャズという偽名と共に、クラブシーンの策略によって表へ引っ張り出されたアリスの独自性は確かに、この60年代にその萌芽があったのだろう。アリスはそのソロに於いてジョンコルトレーンやファラオとは違う方法論を持っていた。それは内面の吐露的表出というメッセージ志向とは違う自己主張の形態であり、いわば‘他者に溶け入る’という自己消去の積極的アプローチであると感じる。従って、その演奏に物語的段階や節目がないのは、そんな言語化可能なストーリー要素や記譜可能な音階的要素を全て広大な‘無’のレベルへ放出する意図が見えるのだ。アリスのソロになるとバンドの演奏が、まるで何かが抜け落ちた‘カラオケ’のような空間へ移動する。その‘無’の空間状態こそが、アリスの目論むところであり、それは図らずもジョンやファラオの王権的自己主張との対比を際立たせるだろう。アリスは前任者、マッコイタイナーの穴を埋めなかった。むしろ、ラシッドアリによるカオティックパルスビートの空間の共同制作者となり、コルトレーンミュージックに於ける霊性を際立たせる一つの能動的な背景と成りおおせたのだと思う。‘もうひとつのソロ’パートたる位置を放棄し、ジョンコルトレーンのソロ=フロントメッセージを前面に導く中間的霊媒の役割を担ったのだ。

ジョンコルトレーンのソロはそんなアリスのスピリチュアル空間に滑り込むような形で始まる。ソロを送り出す為のブレイクもそれらしきキメのフレーズもアリスは用意しない。境界線なく、地滑り的にソロのバトンが手渡された。しかし、コルトレーンのソロは凄い。ここで聴けるソロとは、コルトレーンの永い研鑽の跡を示すものだ。前半のファラオのソロの野生味にもフィットしながら、コルトレーン独自の‘歌’を注入し、物語を創造している。それはソロの後半に始まるフリーキートーンの渦中からメロディを紡ぎ出す至芸において、そのテクニックが顕在化するだろう。
全く何という演奏。キーを半音ずつ上げていく、その上昇感をギリギリに歌いあげるコルトレーン。ソロ全体を覆う混沌としたノイズ空間の中に酔わすような歌、確かな旋律を見出す。その僅かなメロディの断片が、適度な美となって、煌めくのである。

そしてこのあたりから俄然、プッシュしてくるのが、ラシッドアリの‘一斉放射’カオスビートだ。しかも、ここではその速度が尋常ではない。あの名盤『village vanguard again』(66)で見せた、じわじわと迫るパルスビートではなく、ここではまるで、トニーウィリアムスが、道を踏み外したようなスピードとカオスの共存を実現している。従ってコルトレーンのソプラノソロはアリの最速のプッシュに煽られ、頂点へ向かうような激越さを増す。更に無秩序なフリーフォームから、その動物的いななきを整理するような感覚へ向かい、半音ずつキーを上げながら、叫びによる上昇と下降を繰り返す。まるで階段を一歩一歩、立ち止りながら上るように、クライマックスに近ずいていく。もったいぶった演出を見せられながらも、その過程のスリルたるや、必然的な感動に満ちている。終章を前にした最後の語り。破裂間際の完結がそこに待ち構えているかのような状態で最後のソロ=歌を歌う。感極まる瞬間。そして再びテーマ。

ソロで全てを出し切ったコルトレーンによるエンディングテーマ。私は出だしのテーマの激しさを何度も指摘した。それはこの最後のテーマ演奏にも見られる共通の性質であった。音の濁りがすごいのだ。この混濁した音色にこの時のコルトレーンの内面、ある決意のような意気込みを感じる。そして、この曲を表現する意義をも感じる。何百回と演奏してきた「my favorite things」の変奏をそのアレンジではなく、精神に求める事、そして自らに変化を強いることによって演奏を追い詰めていく事。そこに現状打破、表現の広角性が生じる事を一つの方法論として選び取ったコルトレーンの覚悟を感じる事ができるだろう。
何か、尋常ではないコルトレーンの当時の前進への意欲、音楽革新へのアプローチがこのような演奏の激しさを生んだ。グループ全体の音楽性に先行する自らのソロ演奏こそが焦点な訳だが、その袋小路に進んで入り込んでいくような苦闘やもがきを彼の演奏から感じる事ができる。あまりにも激しい演奏、そして美しい音楽だ。
短いセンテンスのテーマがフェイドアウトされると、その間からアリスのピアノの持続音が響き渡り、演奏がやっと終わる。
ここでの「my favorite things」。正に一大絵巻であった。

間髪入れず、始まるのは、超名曲「welcome」である。
『クルセママ』(65)のB面でコルトレーンとエルビンジョーンズの壮絶なバトル「vigil」の次に収められたバラッドであった。コルトレーンによる随一のテナーバラッド。コルトレーンは全く端正に歌い上げる。単純にバラッドというには余りにも、神聖さを漂わすメロディが印象的なこの崇高なナンバー。晴れやかな心情、心の平静、安寧、そんなピースフルな精神賛歌とも言える傑作をライブで聴くという事はどんな体験だろう。タイムスリップして会場にいたいものだ。そんな事を思わず想起してしまう。

しかし、コルトレーンはここでも原曲と違うアプローチをとっている事を無視できない重要なリアルタイム性として指摘しよう。やはり、音がやや、濁っているのだ。おそらく、もう、この時点でよだれがダラダラにたれ流れていたであろう。(東京公演でも足元が水たまりのようになっていたという)マウスピースがつばにまみれていた事も想像に難くない。
結果、この音の濁り具合は「welcome」の賛美歌のような神聖さに僅かな変化を与え、コンセプトのバリエーションをもたらせた。

そうだ。テーマの後、その最後のフレーズを基点として、テーマの変形としてのソロが始まる。徐々に逸脱していき、フリーキーなレベルに至る。「my favorite things」でやった半音ずつ上昇しながら、オブリガードを差し込むアドリブをここでもやる。このワンパターン性に、むしろコルトレーンの苦闘というか、何度も試みるその実験精神を見る。彼にとってライブは聴衆へ向けての何らかの成果の発表、エンターティメントではない。むしろ自身にとっての実験場なのだ。その実験場に聴衆はただ、立ち会っているにすぎないのだ。「welcome」で見せたリスキーなソロは正しくコルトレーンの演奏がその都度、違う結果を生む、現場主義に貫かれたものである事の証左であろう。
そして、再びテーマに還るや、従来の美の場面を表現しつつも、そのフレーズの欠片を捕まえて執拗にアドリブを入れるコルトレーン。このしつこさは何か。まだ、何かやり残したのか。納得していないのか。何か不完全燃焼なものを自身は感じているのか、しかし、諦めたように、最後は端正に美しく、閉じた。
私は安心した。

アルバムラストの「LEO」は23分に及ぶ、これも強烈な演奏である。
「infinity」(65)に収められた曲で、テーマらしきものはなく、シンプルな小刻みなEのオクターブのフレーズを導入部として、あとは延々とフリーを展開する怒涛のナンバー。
ラシッドアリのドッカドッカとけたたましく鳴るドラムに引きずられながら、サックスソロが始まる。二本の管がきこえる。コルトレーンとファラオが掛け合いをやっているようだ。これをインタープレイというのか、デュオというのか。わからない。もはや、ここで聴かれるのは、それぞれが自分の歌を勝手に歌っているのだ。合えばいい。合わなければそれでもいい。そんな合唱を私ならフリージャズとは言わないだろう。やがてサックスの音が一本に絞られる。ファラオサンダースだ。いななきが叫びに変わり、やがて絶叫になる。この強迫観念じみた演奏の根底にあるのは何か。怒りか、夢想か、病か。ファラオの表現とは、人間の内面の混沌、本性の表現なのか。

まだ、やってる。やがて、そのサックス音はヒステリックなわななき、そして哀歌のようなメロに変わる。コルトレーンにソロが移ったようだ。彼はファラオの対位としてピアニシモを選択したように、と思いきや、彼もまた、大声でいななきを始めた。二人して。全く何というコンビか。

生物の生息する森か湖からうめき声が聞こえる。何かの鳴き声のような音。ファラオサンダースだ。ファラオにとってサックスとは何なのか。そのサックスからは、もはや、彼の肉声しか聞こえない。ジャズだとか音楽とかそんな芸能上の区分けや表現分野の領域を超えた一つのボイスであろう。

その後、アリスのまたしても取りとめのない、ダラダラとしたピアノソロが始まる。流麗でいて、ノーアクセント、ノーフックなフレーズを延々と弾く。指が勝手に動いているような、オートマティズム性に満ちた演奏。感覚の赴くままに、まるで催眠にかかったような、憑かれた演奏はアリス特有のもの。しかし、とても心地よい響きなのだ。

そして満を持して始まるのはコルトレーンのソロである。全く堂々とした正攻法な出だしの一発を吹いてから、徐々にフリー空間に突入する。宇宙に飛び込むような異次元の鳴りを表現する。途中、録音の悪さのせいか、場面転換のようなリズムの変化があり、はっとするが、アリの猛烈なプッシュに乗せられ、またしても登場するのは、半音ずつ上昇しなら、オブリガードを差し込む例のアドリブである。このパターンはこれで全ての曲でやった。もはや、コルトレーンは自己の探究に皆を引きずりこむ。<演奏は神に捧げている>と愚直なまでに言い切ったコルトレーンはアドリブやソロというものを成長を使命とした者の義務の遂行であるように脇目もふらず、行う。そこに聖性を見出した者の快楽の追及でもあるのだろう。いや、全く凄まじい。やがてファラオが絡んでくる。両者の音が混濁し、譲らない。また、動物の鳴き声が聞こえた。

最高潮に達したところで、コルトレーンはテーマ=小刻みなEのオクターブのフレーズに戻る。エンディングかと思いきや、またしても二人の無軌道なフリーゾーンへ。あくまでも執拗だ。もう一度、本当に最後のテーマに戻り、やっと演奏が終わる。アリスのピアノの美しい余韻を残して。

もう、やり残した事はないだろう。
全く強烈な台風のような演奏だった。
ようやく過ぎ去り、心地よい風が優しく舞っているようだ。

2009.9.4

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