満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

濱瀬元彦E.L.F Ensembre & 菊地成孔『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』

2011-07-07 | 新規投稿
  
私にはダウンロードして音楽を聴く習慣がないのでi-podは持っていない。
私がもっぱら愛用するのはCDウォークマンである。
CDウォークマンはその需要が減り、家電量販店でも、少量を扱うのみらしいが、私はこの再生装置こそをフル活用している。思い起こせば、カセットウォークマンが登場した時の驚きはすごいものだった。私がオレンジ色のヘッドフォンの2代目ウォークマンを買ったのは大学に入った頃だったかな。普段、家で聴いている音楽が外で聴ける。こんな画期的なことはなかった。音楽ファンは皆、狂喜したものだ。学生時代、家に帰るとステレオやラジカセの前でしがみつくように聴いた音楽。音楽を聴く時間と空間は元来、限られたもので、それは移動できないものであった。従って、電話が鳴ったり、母親に「ゴハンができた」とか、「早くフロに入れ」等と言われ、音楽リスニングを中断されると、下手をすれば、翌日の同じ時間まで再開が許されない状況にもなる。従って、音楽を聴く時間の集中度は本来、学生の本分である勉学以上であったと思う。‘ジャマするな!’という気構えで聴いているから、音楽により深く入っていくという感覚があったような気がする。これでは勉強などに身が入るはずもない。
当時の多くの音楽ファンがそうであったが、私にとって外で聴くという利便性は、音楽を聴く集中度を損なうものではなかった。‘聴き込む’という感覚は継続され、それはしばしば、人にぶつかりそうになる、目的地に着いたのに、今、聴いてる曲が終わるまで、そのあたりをぐるぐる回る(これはカーステでもしばしばある)、人がモノを尋ねてるのに気付かない、リズムをとって忘我状態になり、気味悪がられる等、様々な弊害を招いたものである。音楽の吸引力とは大きいもので、本来、それは聴く者の足を止め、対峙を促す種類のものだと思っている。

翻って、昨今、i-podを耳に差し込んで、何やら聴いてる風な人々が街に溢れかえっているが、音楽産業の斜陽を常々、聞く状況から見るに実に不思議な光景だ。まことに音楽ファンもここまで増殖したのであろうか。などと皮肉を言うオッサンを許したまえ。‘新しい装いのように音楽を着る’というコピーを目にしたことがあるが、i-pod中毒者は音楽中毒者にあらず、空気を吸う如く、音楽を耳に流し込んでいる流行主義者である。何百曲だか何千曲だか収納できるというが、アホらしい事だ。そんなに音楽が聴けるわけがない。いや、‘聴いてない’から聴けるんだろう。音楽という‘情報’が耳にずるずると入り込んでるだけ。しかも、肝心の情報量が希薄な音ばかり流し込んでるから、耳も全く疲れない。
ipodとは音楽に驚異感がなくなった時代だからこそ、生まれ得たオモチャなのだ。私がソニーの開発者なら音楽ファンの為にLPウォークマンを作るだろう。カセットにダビングしなくても、mp3に変換しなくても、そのままLP が聴ける。すごいじゃないか。全然、邪魔じゃない。音楽ファンは面倒を厭わないものだ。ショルダーバッグみたいに肩からぶらさげればいい。重たくたって構わない。外でも聴けるんだから。

先ほど‘音楽の驚異感’と言い、それがなくなった時代と書いたが、そんな‘驚異感’に直面したアルバムを久しぶりに聴いた。濱瀬元彦E.L.F ensembre & 菊地成孔による『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』に私は、聴きながら興奮し、手に汗握り、思わず「すっげー」と唸ってしまった。これをCDウォークマンで聴けば確実に電車を乗り過ごし、人とぶつかるだろう。珍しいことだ。私は日ごろ、音楽がアーカイブ時代に入り、その革新は止まり、スタイルや方法論に驚くことはなくなった等と散々、書いている。それもこれもトータスなどに皆がびっくりするという誤った状況に対する異議の一種であり、何を聞いてもちょっとやそっとでは驚かないヒネた私の実感からくる感慨であるわけだが、この作品を前にした私はとんでもない音楽とはあるものだと半ば、降参の心境。はっきり言ってこのアルバム、凄すぎます。心地よさとカッコ良さだけで充足する日々よさらば。この根源的で革新的な音楽の登場を私は祝福したいくらいの興奮を感じている。しかもこれを作ったのが日本人だ。

濱瀬元彦というアーティスト。名前は知っていたが、私は初めて聴いた。
ジャズ・フュージョンシーンの理論的なベーシストとして有名で、ずっと以前、氏の小難しい文章を雑誌で読んだことを記憶している。どちらかと言うとセッション、スタジオのミュージシャンという印象で、実際、少ないソロワークを80年代に残し、以後、研究生活に入り、‘消えたベーシスト’などと言われていたようだ。
『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』は‘ジャズフォーマットの未来を切り開く’と言えば、通俗すぎるコピーかもしれないが、その突出したような近未来ジャズは確かなグルーヴが存在する事で、ビートミュージックの生命線たる下半身直撃的な音波という基準を満たしている。そこに知性というかヘッドに迫りくる聴覚刺激が加わり、おそらくはフォロワーを生まない孤高性を帯びた唯一無比なものになるのだろう。聴いた時、私は一瞬、菊地雅章の『ススト』(81)、『one way traveller』(81)の孤高性、先端性を想起したのも事実だが、そのスピードはもはや、ブラックミュージックの部分派生たるジャズから完璧に切り離された‘ジャズ’である。その意味で、恐らくは菊地成孔による文句だろうが、<ジャコ・パストリアス、オウテカ、スクエアプッシャー等を経た2010年代の聴覚可能性を切り開く、 100%手弾きによる驚異のテクノ・ジャズ>という帯の紹介文が説得力を持つ。オウテカのアメーバ音響によるリゾーム的増殖の感覚を濱瀬元彦は生演奏で行った。

ライナーノーツに濱瀬氏と斎藤環氏(精神科医、評論家)の長い対談が収録されており、濱瀬氏の概念的なものへの傾倒が伺えるが、音楽表現の源泉に、感情と同位の理論、思考への信望、革新への闘争心が存立する事の疑いなき確信が、音楽の強度を約束させているようだ。濱瀬というアーティストのラディカリストたる本性、その性は強いと感じる。何物にも近くない。遠く在りたいという欲求がこのような驚異の音楽性に至るのか。対談で述べている「オーネットコールマンとドンチェリーの二管編成はパーカー・ガレスピーの形態模写に見えるし、それ以上のものはどうやっても聴こえない」という断定の痛快さ。濱瀬氏のベースライン、歌(ソロ)、音楽環境の構築性の細部にルーツをカットアウトしながら、新しいジャズの言語を獲得する試みが見られ、その方向性に感動する。従って氏のこだわりは音楽総意の先端ではなく、実は‘ジャズ’なのだ。ジャズこそが‘先端’を担う可能性を今でも秘めた固定形態であるとの直感があるのだ。ジャズという本来、音楽の相互侵食や自己増殖、解体と溶解、生成をダイナミックに繰り返す生き物がいつしか静止画像になり果て、その生命を絶たれようとしている事への蘇生の挑戦を濱瀬音楽は試みるのだと感じる。そしてやはり、キーワードは‘演奏’だった。楽器を演奏し、機械を操作する。音響を手弾きする。その作業抜きに音楽の更新はありえない。オウテカ、スクエアプッシャーを濱瀬元彦は聴いていないかもしれないが、もし、聴けば、それらが‘演奏’ではないという事実に、聴覚刺激性の優位的差異を自らに認めたかもしれない。濱瀬元彦の音楽を前に、マシーンミュージックによる全ての先端が色あせてしまう。

『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』にはもう一人のベーシストが参加している。濱瀬元彦の弟子、清水玲氏だ。その驚異のテクニックは嘗て、氏が参加したSOH BANDと私のバンドが何回か対バンをさせてもらった時に目撃しているが、SOH BANDの関西ツアーの際、清水氏が私の家に一泊された時、「濱瀬先生に習っている」と言っていた事も私は今、思い出した。氏のベース音はヴーン!と唸りを上げる太く、且つエッジがある音が印象なのだが、今作ではスラッピングを駆使した怒涛のリズムアプローチを展開している。

『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』に参加したメンバーでもう一人、興味深いのがパーカッションの岡部洋一だ。ROVOでの芳垣安洋とのツインドラムはメジャーシーンでも有名になったが、私にとってはボンデージフルーツでの演奏が印象深い特異なドラマーで、今作のクレジットはパーカッションとなっている。確かにその演奏はドラムの常套であるライドやハイハットでリズムをキープする定型をはずれ、ドラムキット全体をパーカッシブに処理するようなカラーが強い。ボンデージフルーツを組織した鬼怒無月氏が、ギターを大きく、自由に弾けるバックリズムがほしかったという旨の発言をしていたと記憶する。それは恐らく、それまで一緒に行動を共にした故、宗修司のメカニックなドラムを念頭に置いた発言だったと推測する。岡部洋一はラテンパーカッション出身らしい、その独得なパーカッシブリズムで、うわもにスペースを与えるのだろう。このアルバムでも無軌道で、かつグルーヴィーなパルスビートを響かせており、その切れ味の鋭さは、しばしば共演する芳垣安洋の影響も感じさせる。

そして現在のシーンの牽引者とも言える菊地成孔。
‘&菊地成孔’というクレジットから正式メンバーでなく、ゲストである事が伺えるが、プロデュースとして濱瀬元彦との共同名義になっているので、制作者としてのスタンスに比重が置かれたようだ。自ら主宰するリーダーバンドの数々が多分に70年代マイルスデイビスを意識しながら、何とも言えぬコンセプト過剰で、音楽的快楽に至らないケースが多いという気がするのは私だけだろうか。それに反し、他人のバンドにプレイヤーとして参加した時に見せる爆発的な輝きの不思議を思う。このアルバムに於いても、そのハードエッジなサックス音を遺憾なく発揮している。この人の特異な能力は他者の方向性やコンセプトへの透徹した理解力と音楽をレヴェルアップさせる貢献能力なのだと思う。従ってプロデューサーとして音楽全体の客観視ができ、他者への批評にもその秀逸な観点を発揮する。濱瀬元彦が菊地に認めた‘共闘仲間’としての同志的感覚は、演奏の質もさることながら、その批評的性分というか概念的な共通理解を感性ではなく言語交換で可能にする稀な相手とみたからなのかもしれない。そういえば、菊地成孔のジャズ講義録『東京大学のアルバートアイラー<歴史編>』(04)を私は愛読したが、続編である<キーワード編>は未読。ここに濱瀬元彦の講義録が含まれているのだ。いや、買わなくちゃあ。まだ売ってるのかな。

濱瀬氏の著作『ブルーノートと調性』、『ギター、ベースのための読譜と運指の本』は当然、未読だが(読んでもさっぱり解らないと思うが)、氏は原典探求を現在を認識する術として、取り組んでいるのだとはイメージできる。‘現在の認識’とはこれすなわち哲学の世界だが、表現者として当然、持つ、抽象的な世界観や認識の度合いを高めるため、濱瀬氏は音楽表現に意味を持たせ、理論背景を構築する事を前提に作品を成立させようとしている稀有の挑戦者であるとも感じる。音楽を演奏する方法論、奏法を説く教本は数多、あるが、そこに先取の精神と更新への意欲を持って、未来に役立てようというのは、これ、志の高さ以外の何物でもない。具体的にはいかなるコンセプト、理論の支柱をもって‘目指すべき場所’を見据えているのか知る由もないが、アルバム『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』は音を聴くだけで、そのサウンドの爆発性のすさまじさにも関わらず、これは単なるエモーショナルなものの発露ではなく、何かしらの理論バックボーンを基底においたサウンドだと直感できるだろう。

『‘the End of legal Fiction’Live at JZ Brat』はそのタイトルを吉本隆明の著作『擬制の終焉』(62)からとっているという。ここに私はある種の‘揺るぎなさ’を感じる。団塊世代のアナロジーでも過去回顧でもない。吉本という今では、ある意味、忘れ去られ、乗り越えられ、素通りされる嘗ての‘知の巨人’の言説を今もって、何かしらの拠点と位置つけているのか。いや、2010年というタイミングを思う時、濱瀬元彦は現代思想の先端すら崩壊し、おじゃんになった地平を肌で感じながら、‘以前のもの’の有効性を問い、先端と同位に置く事で真に価値あるものの模索を‘最新’としているのだとイメージする。ここでの音楽に現れるスキゾチックで非伝統的、パラノイックで非ナショナル的な感覚はその極みを徹底させ、正にポスト構造主義以降のミクロな運動体としての‘反攻’‘革新’をイメージさせるに充分ではないか。

ライナーノーツに収録された対談の最後、斎藤環は濱瀬元彦に対し、言う。「自覚的な方法論と高度な批評性を保ちながら作品も凄いという事態は、普通はありえないわけです。そういう意味で孤高の人なんですよ」
私はこの音楽を聴いたことで、自分の中に新たな基準ができた。おそらくこのサウンドに匹敵するものは今、他にない。困った。しばらくは何を聴いても、感心しない日々が続きそうだ。‘歌’に逃げ込もう。それしかない。しばらくは。全く、とんでもなく驚異的な音楽が現れたものだ。

2011.7.6

 
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